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027:地方在住の高校生の進路相談に乗る|クレイジーで行こう!第2章

東京と地方の違いはどこに?

ヒト型ロボットベンチャー時代からとてもお世話になっている女性がいる。今でも、渋谷のカフェで経理をお願いしている北風さんだ。その昔、決算などもシステマチックにできていなかったころ、領収書を持っていくだけでいつもきれいにまとめてくれた。

Googleに会社を売却するときにも大いに助けてもらった。「明日までにGoogleへ提出しなくちゃいけない」と山のような資料を持っていくと、「明日の朝までにやっておきます」と夜通し資料をまとめてくれた思い出が懐かしい。

MISTRAL(ミストラル)という経理支援の会社の代表をやっていて、とにかく何でもかんでも早く安くやってくれる。僕は北風さんという人の天真爛漫(てんしんらんまん)なキャラクターが好きだ。善人とはこういう人のことを言う。なかなかこういう人はいない。

その北風さんから、先日また連絡をもらった。

北風さんの地元九州に住む親友の娘さんが高校3年生で、コンピューターサイエンスに興味があるという。ところが、田舎ということもあって、東京の事情が分からないというのだ。コンピューターサイエンスを学ぶには東京の大学へ行った方がいいように思うものの、東京の事情も分からず、困っているという。

北風さんはその友人から、「東京の事情を知らないだろうか?」と相談をされたらしいのだが、身近にコンピューターサイエンスの領域にいる人が思いつかなかったのだそうだ。しかし、僕の顔を思い出してくれた。そこで、「アメリカで人工知能をやっている人はいる」と話したのだという。

そんなこんなで北風さんから連絡があり、「親友の娘さんのため、一肌脱いでくれませんか?」という依頼を受けることになった。僕が北風さんの依頼を断ることは無い。恩を受けたらきちんと返す。嫌なことをされたら、きちんと落とし前をつけにいく。それが、昔も今も変わらない、僕の生き方なのだ。

2週間ほどして、電話でその高校生と話をする機会に恵まれた。電話口に出たお母さんはとても丁寧な方で、恐縮なさっていた。学校の進路指導の先生も、この娘さんが僕と直接話をすることができる機会を楽しみにしていてくれたらしい。

受験はハックされている

せっかくなので、ちょっと寄り道をしよう。日本の大学受験について日頃思っていることがあるので、ちょっと書いておきたい。

僕は日本の受験事情には多くの問題が取り残されていると思っている。受験はとうの昔にハックされており、ストレートに言えば、学歴は金で買える仕組みになった。小学校から都内の塾に通い、中学、高校と、スムースに「受験問題のパターン認識」を最短最速で助けてもらい、代わりに、(その親が)100万円の札束を複数回に分けて渡す。

受験システムが既にハッキングを受け、情報や資金が漏洩しているので、もしある大学に行きたい人がいる場合、残念ながら、入学時点におけるフェアネスは存在しない。これは、親の所得が相対的に低い家庭に生まれ、田舎の高校に通い、自宅で一人勉強する学生が圧倒的に損なゲームなのだ。

東京大学を中心とした日本の大学群は、この試験システムにすがり続ける。

しかし、若者は残念がる必要はない。たとえばビジネスの世界でもそうだが、「その人の預金口座にいくらお金が入っているか?」ということは、何らその人のビジネスマンとしての力量を保証しない。振り込め詐欺で作った金かも知れないし、会社で人を蹴落として得たお金かも知れない。昔から言っているが、金を儲けることは難しいことではないのだ。

同じく、現代において、「東京大学に入りました(それを卒業しました)」などということは、何らその人の力量を保証しなくなったということだ。自分で制度をハックしたというのなら、あなたはハッカーとしての人生の始まりを祝えば良い。しかし、親の金を積んで誰かがハックした情報を買いましたなんて、「お前は一体何をやっているんだ?」と情けなくなる。

親の金で受験を効率よく渡ってきた子たちには、是非、大企業で生涯上司のケツを舐め続けてもらうか、アメリカのパクリベンチャーを創業して、不可解な売上を計上しつつ東証マザーズ市場に上場させてもらい、自己満足感に浸りながら繁華街のクラブを通じてヤクザ屋さんに献金してもらえば良い。それだけの人生だ。

僕が自らの人生を賭けて取り組んできた「ベンチャー創造」の領域では、答えがない道をひたすら進んでいかなくてはいけない。親の金で買った情報を(自分は動かずに)座りながら食べるという行為とは、真逆の行為なのだ。そこには枯れない情熱が必要であり、その前提として豊かな感受性が必要だ。

プログラミングで作りたいものがなくてもいい

寄り道がすぎたので、話を戻そう。九州の高校生に電話をすると、次のような思いを話してくれた。

「これまでは医療の分野に進もうと勉強をしてきましたが、これからはコンピューターサイエンスが力を持ち、世の中を変えると思っています。そちらを学んだ方が、人の役に立てるんじゃないかと思うんです。でも、プログラミングのことはわからないし、作りたいものがあるわけでもなくて……」

僕からしてみたら、プログラミングを学ぶのは大学生からで全く問題ない。ヒト型ロボットベンチャーで働いた天才エンジニアたちも、フラクタの多くのエンジニアたちも、大学に入ってからプログラミングを書き始めた。

プログラミングには、2つの大切な要素があると思っている。ひとつはテーマの設定だ。計算機で解く問題を決めるということ。プログラミングなんて、所詮(しょせん)手計算を速くしただけのこと。手で計算するより、コンピューターを使うことで効率が良いということなのであって、解きたい問題、追いかけたいテーマが無ければ、プログラミングは始まらない。

例えば、シミュレーターを回して、宇宙の創成期の様子を計算する。とても手で計算できるものではないから、コンピューターに計算させる。しかし、そもそも宇宙の始まりに興味があって、寝ても覚めてもそれが気になって仕方ないから、また手計算をしていると人生が終わってしまうからコンピューターを使うのであって、その逆ではない。

それが、サラリーマン的プログラムになってしまうと、要は誰かが「お題」というかやりたいことを出してきて、それを自分が(ある意味では)嫌々プログラムすることになる。それでは世界は変わらない。だから、コンピューターサイエンスを専攻したいと思えば思うほど、プログラミング言語の使い方を覚える前に、感受性を磨きなさいと僕は思う。自然の中に身を置き、人間と話し、社会の問題を問題と捉えられるような感性を磨きなさいと。

もうひとつは、計算がどのように成り立っているか理解すること。それには、原理原則として数学をある程度理解していなくてはならない。ライブラリがあって、中身を知らなくてもプログラムが書けるケースはあるだろうが、そうするとやがて底の浅さに気づいてしまうことになるだろう。数学や物理といった概念を、腰を据えて理解する時間が必要だ。

だから僕は、早期の(プログラミングのための)プログラミング教育に優位性はないと思っている。自然と親しみ、仲間と語らうこと無しに、また数学がわからないうちにゲームや小さなアプリケーションを作っても、その延長線上に世界を揺るがすような未来があるわけではないのだ。

東京の進学校がキラキラ見える

彼女の話を聞くと、東京の進学校に通う若者たちの作り話につきあわされて、可哀想だなと思った。「高校生なのにプログラミングしています」「高校生でベンチャーを立ち上げました」などというのは、親のレールに子供が乗った話でしか無く、またAO入試対策の作り話であり、メディアの視聴率稼ぎにすぎないのだ。

僕からすると、最も輝いているのは、電話口に出たその彼女であるように思えた。なんと素直な人だろうか。なんとキラキラした高校生だろう。話せば話すほど、徹頭徹尾、彼女は人を助けたいと思っているようだった。こういう人が世界を変える。こういう純心さこそが、人生において最も大切なことなのだから。

高校3年生でやりたいことが明確に決まっていて、それが変わらない人などほぼいないだろう。それは、「明確な目標が決まっていることが偉い」という何かの呪縛だ。僕は42歳だが、いまだに道に迷っている。ヒト型ロボット、人工知能による水道配管分析をやってきたが、もう少ししたら医療分野にも進もうと思っている。

高校生の段階で、「俺にはやりたいことが明確にある」とか言っている子がいるとしたら、そいつはただ馬鹿なだけか、親の受け売りだ。心配する必要はない。そいつは、おそらくは底の浅い人間だ。だからこそ、高校生は、焦ってはいけない。夢も目的も無いのが、高校生なのかも知れないのだから。

話をした彼女は、とてもきれいな心を持っていて、正しいモチベーションを持っているのに、本人は「まだ足りない」と認識している。それは、世の中が淀(よど)んでいるのだと僕は思う。それはきっと、淀んだ池に自分を映したら、淀んでいるように見えただけのこと。僕から見たら、その高校生は、本当にピュアでまっすぐな姿に見えるのだ。

さなぎの時期を大切にする

僕が好きな河合隼雄さんの著書に「思春期とはサナギの時代」という言葉がある。その意味を少し引用してみたい。

思春期はすごく大変な時代であり、非常に大事な時代だということです。われわれにそのことをよくわからせてくれるものは、毛虫がサナギになり蝶になるという成長の過程です。つまり、毛虫がある日突然蝶になるということはありえない。あいだにサナギの時代がある。外から守られている殻の中で大変革し、そしてある日蝶になって出てくる。

――『河合隼雄のカウンセリング教室』(創元社)より

サナギの時期は、ひとによってさまざまだ。ちょうど受験期に当たる子どももいるだろう。ところが、日本では「1年間ほど殻にこもる」ということが基本的には認められない。現役でストレートじゃないと、就職にも影響がある。就職浪人もデメリットがあるし、最初の会社をすぐに辞めたら転職でも不利になるという。社会から期待された道をドロップアウトすることに、底知れぬ恐怖があるのだ。

一方のアメリカは、サナギの時期をよしとする文化がある。ギャップイヤーの習慣もあるし、社会に出てから大学に入りなおす人も多い。時間のずれを積極的に受け入れていく文化があるのだ。アメリカの様子を見ていると、ほんの少しのブランクも許容されない日本の現状は、全く本質的ではないと僕は思う。

ドアをノックする人にチャンスが訪れる

東京の大学へ進学するか迷っている彼女には、九州の大学を出て、大学院から上京する道もあると伝えた。アメリカでは、地元の大学でしっかり勉強してからハーバード大学の修士課程に進学する、といった人も多い。日本では学部と大学院が一体化して見られがちだが、アメリカではそうではないのだ。日本でも、同じように考えることはできるだろう。

ただ、確かに東京に出てくれば環境ががらりと変わる。いろいろな人に会えるし、視野も広がる。田舎の大学で、田舎しか知らない教授に教わるとしたら、それは視野が広がりにくいだろう。もしかしたら、そこからグローバルに活躍するという視野を見つけにくくなるかも知れない。

だから、「マメに連絡してほしい」と僕は伝えた。それは、世界が閉じないように、外の世界とアクセスする呼吸口のようなものを作っておくということ。

トムの友人で、英語のアプリを作ってGV(旧Google Ventures)から投資を受けたベトナム人がいる。お金のない家庭に育ったが、英語を勉強したくてヨーロッパやアメリカの企業に「インターンとして使ってほしい」手紙を書きまくった。その結果、ヨーロッパのとある大企業でインターンとして使ってもらい、その経験をアピールしてスタンフォード大学大学院で、トムの隣りに座った。

アメリカは、ドアをノックする人を受け入れる土壌がある。これまでも、たくさんの移民を受け入れてきた。過去には小さなヨットではるばるアメリカに来た人が、港に到着さえすればグリーンカード(永住権)をもらえた時期もあったと聞く。

彼女は、最初のドアをノックしたのだ。北風さんにもらった機会だとしても、アメリカに住む見ず知らずの大人と、ひとりで話すのは勇気がいったに違いない。広い世界に出て、価値観の異なる人と話をすることは、人生の見方を大きく変えることになると思うのだ。

彼女だけでなく、何かに引け目を感じているすべての若者に。ドアをノックすれば可能性が開けるのだと知ってほしい。

(記事終わり)

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