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趣味、建築(1)

※この先3,200字  
前回の投稿から1週間が経ちました。これからも続けます。
  建築と向かい合う自分を残していきます。
  建築はこれまでの自分をすべて回収できると信じています。
  そして初めの数回は自身の分析をしていきます。
  ある種の自己の正当化をしようと思っています。

 今回は「趣味、建築」という題について振り返りをしていこうと思います。なぜ趣味と専攻が一致してしまっているのかを分析します。




人生の歩みと興味 ー同時的単一行為ー

 大学で様々な地理的バックボーンを持つ人に出会うと、私自身がどのような場所で育ってきたのかを理解できるようになり、それが与える影響は大きいのではないかと考えるようになった(わかりやすい話として、藤本壮介さんの北海道の白の多様性についてのインタビューを見たことがある)。
 私が育った場所はオフィスや高層ビルが林立する都会であった。そんなこともあり、建築に興味をもった初めのきっかけはそんな高層ビルであり、鳶職の方たちだった。明確に建築というものを認識したのは小5くらいで、夏の自由研究では地元の大工さんの協力でスカイツリー(夢を明確にした張本物)の模型を作った覚えがある。


 私を構成する大きな要素として野球がある。年中の頃に始め、高校まで続けた。
 脱線するが、中学校では校庭の広さの関係で野球部がなく、代わりに水泳サークルへ入部をした。幸運なことに温水プールで、冬でも泳ぐことができた。ただ、サークルというだけあり、練習は強制でなく自主的に参加する制度だったため、中学三年生の夏ごろからはほぼさぼっていました。
 話を戻して、野球を始めたきっかけはよくあるように兄の影響だ。理由はそれだけでしたが、今振り返るとスポーツの能力にはとても恵まれていました。小5から一つ上のチームでサードで一番を打ったり、区の代表でピッチャーをやったり。
 同時に水泳もやっていました。そのおかげで小5の時に、2級飛び級して黒帽という学校に当時二人しかいなかった級をゲットできました。
 高校では入部してすぐベンチ入りをしました。中学三年間野球をやっていなかったのに、です。正直驕っていました。ましてや、代打要員として入り、大事なところでヒットをうち、そのまま全国大会に行ってしまうなんて調子に乗らない理由が私にはありませんでした。そしてこの経験が高校三年間で様々な後悔を生む理由にもなりました。


大学との出会い ー高校入試からー

 ここでは私と学校というテーマで話します。小6のころ受験対策の塾に友達と一緒に行きたいという理由だけで通い、中学受験はしませんでした。そして、当時様々な取り組みをしていた千代田区の中学校へ母の紹介で地域外通学をすることになります。この選択は今振り返る人生で勉学的にも人間関係的にもいろんな体験をすることになった中学の三年間になりました。定期テストのない生活、恋人と毎日帰る生活、塾に行く生活、そんなに友達と遊ばない生活。今振り返ると思い出せるのは恋人との思いでだけで、そのほかの友達と遊んだ記憶(事実遊んでない)を思い出せないのです。

 高校受験はそんな恋人と別れて臨むことになりました。私の実力は校内ではトップ10位くらいでしたが、それは準備ができるテストでした。このころからその場の瞬発力で問題を解決するという能力の欠如にだんだんと気づき始めます。もちろん基本を理解していないために応用できないということもわかります。でも、それ以外にテストというフォーマットで瞬発的に実力を出すということがとても苦手でした。大学では二年生になりテストが減り安心しているところです。しかし、こういった瞬発性は日常の会話であったり発表の場面で重要なことは百も承知で今後の課題です。

 入学した高校は、受験当時から考えると考えられないくらいレベルが上です(私大学付属)。私は自己推薦という方法で高校に入学しました。
 自己推薦とはその文字通り、自分がその学校に向いているということをどれだけアピールできるかで決まる。そしてこの学校は事前準備シートと面接30分という得意と不得意が共存する方式です。つまり、めちゃめちゃ作りこめる事前シートとその場勝負の面接だということです。ただ、面接はこのシートをもとに進められるため少し分があったのかもしれません。

 シートには中学校生活での活動や校外でどのようなことをしてきたか、なぜ付属に入ろうとしているのかなどの質問が10個ほどある二枚刷りのクエスチョンシートでした。ものすごく準備をしました。嘘をうまく書ける性格でもなく、中学校まで大したことをしていなかったので、精一杯書いたそのシートと評定44だけを引っ提げて戦いました。前の順の生徒が面接をしているのを教室の前で待っている時初めて、のどの奥から鼓動の音が聞こえたのを覚えています。

 将来について、シートには「一級建築士になる」と書きました。付属という受験勉強に縛られない環境を利用し前もって準備をするつもりだというのを伝え、この大学で建築をやりたいと熱弁しました。でもおそらく受かった理由は、圧迫面接官とLAMY(ドイツの筆記具メーカー)の話で盛り上がったからだと思っています笑。 

 ただ高校三年間は建築に一切触れることなく野球に明け暮れることになります。後悔はありません。


専攻と共存する趣味 ー建築ゆえかー

 この題の意味は、趣味を建築が含んでいるとでもいいますか。一人で旅行すること、本を読むこと、危険な言い方をすればすべてが建築を舞台にしているからかもしれない。どこに行っても教材があるという風に言ってもいいかもしれない。ただこれが一種の罠でもある。すべてのものが見えているようで、盲目のホメロスになりえる。これが最近感じていることです。これはさらに、「建築でみんながやろうとしてることは、実は建築でなくても賄えるのではないか」と考える種にもなっている。でも私は建築のものとしての絶対的な力を信じているので、将来生業としていきたい強い気持ちがある。


建築の性格 ー表現を通したコミュニケーションー

 建築はなにか佇む姿に哀愁を持ちつつ、内にものすごいエネルギーをもっている。設計者の生きた魂だと思うようになった。
 そういった意味で建築も一種の壮大な作品であることは間違いない。
 私が建築という学問に身をうずめたいと思う理由はここにあるかもしれない。それは興味があるというモチベーションと、自己表現としてのフォーマットが合致していると最近気が付いたからだ。
 
 ほんの最近、オードリー若林正恭さんと星野源さん「LIGHTHOUSE」の一話目で源さんが
   「表現でコミュニケーションを取っていた
と仰った。これを聞いたとき、何か安心できた。それは源さんと同じことを思っているという安心ではなく、自信の持てない己のコミュニケーション能力が他の方法でそれをしていたという存在と自治権が認められた気がしたからだった。
   「純粋な友達としてのコミュニケーションが苦手
と続ける源さん、ここでは一緒だ!という気持ちが勝った笑。振り返ると私の人生は、コミュニケーションの間に”行為”を媒介にしていた。野球、水泳、設計課題など、「すごい!」「どうやって作ったの?」と聞かれたところから会話が始まる、そんなようなことだ。おそらくほかの人も同じことがあると思うのだが、自分から話を切り出し、広げ、昔話を交えながら盛り上げるというある種飛びぬけた能力を発揮する人が私にとっては大多数である。羨ましいかぎり。
 私は正直に言って、建築がそんな私にあっていると思う。それは作ったもので会話が成立するからだ。もし、この希望が阻まれるようなことがあると生物的に危険だと自負している。面舵いっぱい建築へ向かって港を出てしまったからだ。大学2年、今のところ座礁する様子はない。突然現れる障害物を水中から観察し、氷山の一角を認識する。そんな方法で乗り越えていきたい。


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