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私たちに必要なのは「自前の実力」

これまで色々あって、そして今ここ。誰しも「今」は過去から未来への通過点でしかないけど、それでも人生という表現の大切な一場面。

studio pelletを運営していて、若い人々と関わることが多い。一緒にオフィスをシェアしている人々、レンタルスペースを利用してくれる人々、カフェを利用してくれる人々、ストーブを買ってくれた人々、私が属す中小企業家同友会を通して知り合った若い経営者たち、地域資源経営の勉強会に参加してくれた人々などなど。
もちろん相変わらず、同世代の人々とはいろんな分野の付き合いがあるが、このように若い世代の人々と常に付き合いがあるのは、私にとって非常に有意義なことだと思っている。ありがたい。
その理由は二つある。まず、若い人々が楽しんだり、希望を抱いたり、挑戦したり、思い悩んだり、失敗したり、絶望したりしているのを具体的に間近で知ることで、「これからの社会や地域」のことが考えられること。そして、私が彼ら・彼女らの世代だった頃を思い出し、その時の「私自身の程度」を思い知り、今の私に至る成長過程をよく反省できること。
特にこの二つ目が、私の思索にとってとてもメリットがあり、このnoteを始めようと思ったきっかけの一つでもある。

例えば、就職について、若い人の考えを聞く機会がある。または、地域のイベントの運営方法や集客について相談がある。あるいは、存続が厳しくなった会社を立ち直らせるための方策を聞くことがある。または、就職した会社に問題を感じるが、上司にどう伝えたらいいか相談がある。過去の心の病を打ち明けられることもしばしばだし、選挙の相談を受けることも幾つかある。それ以外にも、直接関わりはあってもなくても、若い人々の行動や事業展開を側から眺めていて、「がんばれ!」と同時に「大丈夫か?」と様々な想いが頭の中を錯綜する。

歳を重ねると、それなりに真剣に本業を継続してきた人ならば、自分なりの考えや教訓を持っている。だから、若い人々の言動に否定的なことを言いたくなる。
しかし、自分が30代の頃はどうだったか? 答えを持たないまま、勢いだけで突っ走った。私の場合、30代後半のワインツーリズム運動や選挙の頃がそうだった。一世代や二世代前の先輩方に否定されても、「あんたらとは時代が違うんだよ」とか「おれが初めての成功者になってやる」とか、いつも心の中で呟きながら前だけ向いてきた。いま考えると、恩知らずなことを随分とやって来た。

孔子は自身の人生を振り返って「30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る」と言ったらしいが、今の私の実感では「勢いの30代、戸惑いの40代、選択の50代」と言うとしっくりくる。

20代で仕事を始めて、社会の仕組みや職業というものが分かってくる。
そして少しずつ自信がついてきて、30代では勢い余って自信過剰になる。でもこの世代が最も伸び盛りで、その勢いに任せてやった仕事や活動が自身の成長につながるのも事実。
ただ40代になると、どうも今までのように上手くいかなくなって戸惑う。子どももできて、家のローンも始めて、体力も落ちてくるから、当たり前だ。この大きな変化を昔から厄年なんて言ってきたのだろう。自分だけではなく、これまで一緒にやってきた仲間たちも、そこにお金を落としてくれたお客さんたちも、同世代で状況は同じだから勢いが落ちる。だからこそ自分を見つめるチャンスでもある。30代の勢いの中で見落としてきたことを猛省する。

30〜40代に大切なのは、やってみて失敗して、挫折して、反省して、そして立ち上がること。要領よく手っ取り早くやるためにコンサルに頼んだり、リスクを考えて補助金に頼ったり、そんなことしてたらちゃんと失敗も挫折も反省もできないよ(コンサルや補助金の活用は、組織や業績が安定した成熟企業のベテラン経営者に任せましょう)。まずは何かを参考にしても構わないから自分の頭で考えて一から始めてる。そして正々堂々と借金してやってみる。若い人々に必要なのは実力だ。本気にならないと実力はつかない。自前でやらないと本気になれない。30代の私は「コンサルや補助金を使っても本気になれる」と思っていた。しかし、人間はそんなに強くない。借金の返済計画書だけが、人を本気にさせる。コンサル使って失敗したら、一体何を反省する? 補助金使って失敗したら、どうやって再起する? 補助金ゲットも実力の一つかもしれない。しかし、自ら考え、自ら生んで、自ら稼ぐのが真の実力で、真の自立だ。これは決して我らを裏切らない。
(もちろん私は、「補助金即悪」「コンサル即悪」と言っているのではない。それぞれの事情と段階と経緯がある。長〜い目で見てください。)

そう考えると、実はスピードなんていうものは、世間が言うほど重要じゃない。確かにコンサル入れて補助金使ったら、いとも早く華々しくカタチにできる。しかし、そこに自前の努力がなければ、そのカタチを維持するための実力が伴わず、まさにハリボテは崩壊する。振り出しに戻ってやり直しだ。だったら最初から地道にじっくりやればいい。同じ意味で、あまりにも若くして大成することも、その人の成長を考えると好ましくない。ハリボテを自覚して乗り越える努力があれば別だが。いずれにしても、事業者の成功も失敗も、そう簡単に評価が下せるものではない。

そして、50代はどうだろうか。40代をなんとか乗り越えてきた我々は、もう勢いに任せて行動することはない。やっと安定してきたと同時に、人生の先が見えてきてしまった、とも言える。しかし、そんな世代にもかかわらず、さまざまな選択を迫られている。早ければ55歳役職定年とか60歳定年とか、または自分の健康状態とか親の介護とか、否応なくリミットが突きつけられる世代でもある。そういう私もこの記事を病室で書いている。長い間の胃腸の疲れが原因か、大腸ポリープが出てしまい、50代になってから毎年切除手術をしている。やはりアルコールの影響が大きいようで、ここでも若い頃は無制限だった食生活の選択を迫られている。
つまり、これまでの人生の延長をやるにしても、これから新たな挑戦をするにしても、それなりの選択がつきものだ。限られた選択肢の中で、さまざまな制約の中で、いったい何を選ぶのか? この選択にその人物の本音が現れる。若い頃には見えなかった本性が現れる。
もちろん何かを始める前には、どうしても慎重になってしまう。しかし、それは悪いことばかりではないだろう。だからこそ、この世で残された時間の中で、自らの価値観に基づいて着実に、確実に、目標定めて行動するのみ。説得力もついてきた。交渉力も前よりある。上下左右、酸いも甘いも、対応力を付けてきた。あとは健康に留意して、いまこそ実力を発揮する時だ。

孔子は「60にして耳順う(みみしたがう)」と言ったという。素直に人の話を聴けるようになった、という意だが、私はそうではない先輩ばかり見てきた。まだ未知の世界だけど、最後はやっぱり苦労して自前の実力をつけてきた者が、素直で頼りがいある老人になるのだと思う。

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