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【短編小説】ニオイ

 その臭いは、危険を孕んでいた。
 それに気づく前、私は自宅のアパートのベランダで煙草を吸っていた。
 実家にいた時は、母が「女性が煙草なんて吸うんじゃありません!」と声を荒らげて何度も口を挟んできた。私の健康を心配していたのかもしれないし、もしかしたら、副流煙を吸いたくなかったのかもしれない。
 その場では、私は母の忠告を受け入れて、煙草を消した。それ以来煙草を吸う時は、母にバレないよう吸っていた。
 母に隠れて吸う煙草は、別にマズくはない。
 けれど、自分の吸いたい時に吸える煙草は格別だ。特に休日は最高だった。
 私は煙草を吸いながら、ベランダから夕陽を眺めるのが好きだった。
 夕陽が沈むところを見ていると、何も変わらない日常が終わっていくんだと実感する。
 ありふれた日常の素晴らしさに気づいたのは、大人になってからだ。
 良い事はないが、悪い事もない。
 そんな日常に愛おしさを抱いたのは、働き始めたからだろうか。
 そのようなことを考えていた時だった。
 それは煙草とは違った。
 煙草を吸っている私でも違和感を覚える臭い。
 不快な臭いは、隣の角部屋のベランダから漂ってきて、さらに煙が出ていた。それを目にした途端、私の全身が強張り、口に咥えた煙草を落としてしまった。
「火事!?」
 青天の霹靂、というのは、こういう時に使う言葉なんだろうか。
 目の前の状況に動揺してしまった私は、思わず手すりから身を乗り出す。
 身を乗り出しすぎると、地面に落ちてしまうので、隣の部屋の全貌はちゃんと見れない。ただ、少しだけ窓が開いていることがわかった。煙はそこから漏れている。
 さらに、電子音のメロディが窓の隙間から流れてくる。
「ケムリガデテイマス、ケムリガデテイマス」
 どうやら嫌な予感が的中してしまった。
 私は慌てて靴を履き、アパートの廊下に出ると、煙が出ていた部屋の玄関扉を叩く。
「すみません、隣の親川ですけど!」
 拳で強く叩いているので、中に住民がいれば気づくはず。
 いや、気付け。
「煙! 煙が出てるんですけど!?」
 何度も扉を叩き、備え付けられたインターホンを連打していた。
 ピンポンダッシュをする子供でもこんなに扉を叩いたり、呼び鈴は連打しないだろう。しかし反応がかえってこない。
 まさか……。
 不安と危険。その二つが心中で膨らんでいくのを感じた時、ガチャリと扉が開いた。
「あのぉ、火は消したんで。うるさくしないでもらえます」
 私は、部屋から出て来た彼女に目を見張る。
 住民は女性だった。
 とても大きな身長だった。
 私が背伸びをしても、彼女の肩ぐらいにしか届かないだろう。もしかしたら一八〇はあるかもしれない。体格はガッチリしていて、鍛えているのがわかった。短く切られた黒髪、少し日焼けした肌。
 身体の特徴から、彼女がスポーツをやっていることがわかる。
 でも、目を見張ったのは、彼女の背丈でも、筋肉質な身体でもない。
「・・・・・・ひなどり、あすかさん?」
「・・・・・・あんた、誰?」
 ボヤ騒ぎを起こした隣の住民が、雛鳥飛鳥だったことだ。
 彼女は私のことを知らない。
 だけど私は知っている。
 雛鳥は、私の勤める学校の”生徒”だった。


「へー。うちの学校の教師なんだ」と雛鳥が言った。
 雛鳥はとても有名な生徒だった。ただ背が大きいだけで有名になったわけじゃない。
 彼女は女子サッカー部に所属し、エースとして活躍している。
 サッカーの才能は、全国トップレベルとも言われており、中学1年生の時には、彼女の地元である高校の男子サッカー部に混じって練習をしていたこともあるらしい。
 そんな彼女の才能に惚れたサッカー部の顧問が、熱心に雛鳥をスカウトしたらしい。熱いラブコールに心を打たれたのか。彼女は地元を離れて、スポーツ推薦で学校に入学した。
 一度だけ職員室に備え付けられていたテレビで、彼女が出場した試合を見たことがあった。サッカーをよく知らない私でもわかるぐらいサッカーが上手かった。
 ボールを自在に操る巧みな足さばき、筋肉が発達した脚から放たれるシュート。
 雛鳥は周囲の選手とは、レベルが違う。
 あれ程の活躍を一目見せれば、誰だって雛鳥のことを覚えるはずだ。
 けれでも彼女は私のことを認知していなかった。それもそのはずだ。私が受け持つのは家庭科。なので、雛鳥と関わることは滅多にない。
 しかし、その機会が来るとは思わなかった。
「おかわり」
 その雛鳥が私の部屋に上がって、カレーライスを平らげていく。
 とにかく食べまくる。
 2~3日分用意していたカレーはもう無くなりそうだ。炊飯器で炊いた米も底が見えた。
「さすが家庭科の先生。料理の腕は一級品だ」
 満面の笑みを浮かべた雛鳥は、どんどんカレーを頬張っていく。
 ご飯を食べる彼女に、改めて火事の原因を聞いた。
 雛鳥曰く、火事の原因はヤカンだった。 

 雛鳥はお湯の沸いたヤカンを使う時、取っ手にタオルを被せるらしい。沸騰したヤカンの取っ手が熱いからだ。
 雛鳥は誤って、沸かしている最中に、取っ手にタオルを被せた。
 それがタオルに引火して、さらに近くのカップ麺の容器にも燃え移ったらしい。
 多少苦戦したようだが、間一髪火を消したため、大きな被害はなかった。
 そして、雛鳥は私に手を合わせて言った。
「あのさ先生。少しでいいから、ご飯食べさせてくれない?」
 が、火事でカップ麺を失った雛鳥は、夕飯が食べれなくなった。
 教師である私は、空腹の彼女を無視できなかった。
 私は雛鳥を部屋に上げて、夕飯のカレーライスを出した。
 彼女は遠慮することなく、気づけば何度もおかわりを要求する。少し、どころではなかった。
「あなた、ずっとあそこに住んでたの?」
「そうだよ。入学した時から」
「私、今年からここに来たばかりだけど・・・・・・どうして気づかなかったんだろ」
「ボクも知らなかった。隣に先生が住んでるなんて」
 雛鳥は自分のことを「ボク」と言うらしい。私は生まれて初めてボクっ娘を見た。いや、背の高い彼女に「娘」はいらないような気がする。
「ごちそうさま。久しぶりに美味い飯を食ったよ」
 カレーを食べ終えた雛鳥は、部屋のベッドに寝転ぶ。
「雛鳥さん。ここ、あなたの家じゃないんだけど」
「ちょっとだけ。練習で死ぬほどくたくたなの」
 雛鳥は大きく口を開けて、欠伸をしたかと思えば、すぅすぅと寝息を立て始める。
「こらっ」
「いてっ」
 私は雛鳥の腕を叩く。
 この子の「ちょっと」「少し」が当てにならないことは、食いっぷりを見てわかる。放っておくと、朝まで寝るだろう。
「そんなに寝たいなら、自分の部屋に戻りなさい」
 雛鳥は上半身をむくりと起き上がると、唇を尖らせる。
「嫌だ。一人は寂しい」
「だったら友達を呼べばいいでしょ」
「無理。ボク、さわやかイケメン系女子で通ってるから。こんなだらしないところ、見せられない」
「じゃあ、なんで私に見せているの」
「先生とはぁ・・・・・・もっと仲良くなりたいから」
 雛鳥はさらりと言った。
 その言葉の意味があまりよくわからず、私は眉を吊り上げる。
「だからさ、これからもボクにご飯を作ってくれないかな?」
「・・・・・・あなた、もしかしてまたここに来るんじゃないでしょうね」
「そういうこと」
「お断りよ」
 即答だった。
 なぜ、私が雛鳥のためにご飯を作らなくてはいけないのか。これは生徒を手助けする範疇を超えている。このまま承諾してしまえば、私は平穏な日常を送れなくなる。
「先生である私にだって、プライベートの時間を持つ権利はある」
「ダメ?」
「・・・・・・もうさっさと帰って」
 雛鳥はベットから起き上がると、玄関に向かっていく。
 例え、雛鳥が迫ってきても私は怯まない。ここで臆病な反応を見せたら、彼女はまたここに来てしまう。
 しかし、雛鳥は出ていかなかった。
 廊下の冷蔵庫の前で立ち止まると、その扉を開けた。冷蔵庫の中にある物に手を伸ばす。
「ちょっと、それっ」
 彼女が手にしていたのは、缶ビールだった。
 プシュリと音を立てて、プルタブを開けると、ビールを飲もうとした。
「雛鳥さん、何のつもり?」
 私が咄嗟に叫ぶと、雛鳥は缶ビールを口にする直前で止まった。
「ここでボクがビールを飲んだらさ、先生は悪者だ。生徒に飲酒を強要させた罪で」
 ・・・・・・もしこのまま雛鳥がビールを飲んで、それが学校に発覚してしまったら。
 学校は私の言い分を聞いてくれるだろうか?
 いや、雛鳥の証言を支持するだろう。こんな事件で、雛鳥の名誉を落としたくないはずだ。きっと私を悪者にするに決まっている。
「雛鳥さん、さっきから何のつもり?」
「言ってるじゃん。ボクは先生ともっと仲良くなりたいだけって」
「私に恨みでもあるの?」
「初対面だからあるわけないよ。美味しいカレーも食べさせてくれたし、むしろ感謝しかないね」
 彼女の行動原理がわからなかった。
 なぜここまでして、私と接点を縮めようとするのか。
「まぁ、こうでもしないと、先生、距離縮めてくれそうにもないから」
 雛鳥は、呆然としている私に向かって笑った。


 私は、雛鳥の脅しに屈した。
 しかし、彼女の奴隷になったわけじゃない。
 それから雛鳥は、私の家に上がり込むようになった。
「お邪魔しまーす。あっ、親川先生。これ今月のやつね」
 律儀にも、月に一度、定期的に食費代を強引に押しつけてくる。
「これ受け取らなかったら、学校に飲酒させられたってチクるから」
 そう言われたので、受け取るしかなかった。
 それからというもの、私は雛鳥の分も料理作っている。
「先生の料理、いつ食っても最高」
「そろそろ自分で作ること覚えたら?」
「んー考えとく」
「考えないでしょ。今度、作る時手伝って」
「へいへーい」
 と私たちはご飯を食べながら、他愛のない話をする。
 何故か、仲良くなってしまった。
 あのボヤ騒ぎから三ヶ月が経ち、私はこのよくわからない関係に慣れてしまった。
 慣れというのは、恐ろしい。もはや雛鳥の前では、素を曝け出していた。
「先生、煙草ってそんなに美味い?」
 その時、私は煙草を吸うために、ベランダへ出ていた。
 雛鳥は、私が煙草を吸っている時、声をかけない。こうやって声をかけられたのは初めてだった。私は居間にいる彼女に振り向かないまま答えた。
「最高。でも健康に悪いから辞めた方がいい」
「”辞めとけ”って、煙草吸う人が言うの?」
「吸っている人って、そう言うの」
「じゃあ、なんで吸い始めたの?」
「忘れた」と私は煙草の煙を吐く。
「ねぇ、煙草ってどんな味」
「子供は知らなくていい」
「・・・・・・ボク、別に子供じゃないし」
 そう言っている雛鳥の気配が、私の背後に感じる。
「ボクさ、気になったこと、すぐに確かめたくなるんだよね」
「何言ってるの」と私は言えなかった。
 指に挟んでいた煙草が、ベランダに落ちた。
 それは、突然だった。
 私の唇に、柔らかいものが触れた。
 青天の霹靂。
 あの時思いついた言葉よりも、衝撃的で。
 今、一体どういう状況なのか。
 私にはわからなかった。
 頭がくらくらして、ずきずきした。
 初めて煙草を吸った時に感じた頭痛に似ている。
 舌に広がる煙草の味。
 初めて感じた味が気持ち悪くて。
 もう二度と吸わない、と思っていたのに。
 あの苦味と辛味が、忘れられなくて。
 むせるって、わかっているのに、また吸って。
 気づいたら、頭痛が薄れて。
 この瞬間、頭に浮かぶのは、初めて煙草を吸ったあの頃。
 やっと、わかった。
 私、雛鳥にキスされている。
 舌が熱い。
 舌と舌が絡むからか。
 全身に熱が迸る。
 この瞬間だけで、全身に汗が吹き出しそうになる。
 私は引き離すように、雛鳥の胸をゆっくりと押した。
 雛鳥はそれを拒まない。
 唇が離れる。
 呼吸が荒れていた。深い海に長い時間潜ったみたいに。
 高鳴る鼓動が、夢じゃないことを知らせている。
 雛鳥も、肩で息をしている。
「・・・・・・すっごく、まずいね」
 唾液が絡む舌先を出して、雛鳥は目を細めながら言った。そしてその唾液を飲みこんだ。
 頬は赤みを帯びていて、口元には笑みを浮かべる。
「もう一回」と雛鳥が言った。
 私は、拒めなかった。

 腔内に侵入してくる雛鳥の舌を受け入れていた。
 舌と舌が触れ合う。
 その痺れる刺激に、身体が震える。
『先生とはぁ・・・・・・もっと仲良くなりたいから』
 雛鳥は初めて会話した時の言葉を思い出す。
 つまりこういうこと?
「・・・・・・さすがにお互いやばいかな。こんなの学校にバレたら」
「ばか」
 私はそう言うが、力が出ない。
 ふらつく身体は雛鳥に引き寄せられ、すがるように抱きついていた。
 引き締まった雛鳥の身体が服越しからでも、すごく熱い。
 その頑丈な身体と同じくらい、彼女の内側には獰猛さが秘められているのだろうか。
 この先どうなるのか、わかっていた。
 私たちは部屋に入ると、カーテンを閉めて、部屋を暗くする。
 暗い部屋で、お互いの指を離さないように、絡み合わせる。
 ベッドの上。雛鳥が熱い吐息と交えて、私の耳元で言葉を囁く。
 私はそれに答えない。代わりに雛鳥の手を強く握り締める。
 もう平穏な日常には戻れない。崩壊はそこまで来ている。
 暗闇で感じる熱と汗。
 その匂いは、危険を孕んでいた。 

(了)

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