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【ふしぎな身体】日本人の踊り方の歴史


須賀神社の一の酉


参考資料
踊りの宇宙 日本の民俗芸能(三隅治雄著)
日本の身体(内田樹著)
民謡地図⑨盆踊り唄 踊り念仏から阿波踊りまで
(本阿弥書店 竹内勉著)
骨考古学と身体史観 日本歴史 私の最新講義
(敬文舎 片山一道著)
文明と身体(臨川書店 牛村圭著)
日本民族の感性世界(同成社 竹岡俊樹著)
ちちんぷいぷい「まじない」の民俗(小学館 神崎宣武著)
庶民の日本史(グッドブックス 小名木善行著)



日本的「踊り」方


踊りの起源


感情が高まり、肉体が熱く動く時に起こる生理的身体反応=「オドリ」
踊り狂う、小躍りする、跳び上がる、立ち踊るなど


オドリが芸能行為として始まったのは「踊念仏」
踊躍は、一切の雑念を放棄して無我の境に入る方法で、また仏と一体となる喜びの表現とされた。

宗俊編「一遍上人絵詞(えことば)伝」10巻より
他力念仏(信心に関わらず念仏を唱えれば誰でも、阿弥陀如来の力で極楽浄土に行ける)として、賦算(ふさん)というお札を大量に配り回った一遍上人。

1279年のはじまりから、鉢やササラを叩いて、僧や俗の群れが念仏を唱えて、自由に飛び跳ねて回っていた。


歓喜踊躍(かんぎゆやく)=仏の救いを感得した心の喜びが全身に満ち溢れて、喜びが姿や動作に現れること。形でなく、心を見せる踊りの本質を既に一遍は掴んでいた。

古代からある男女の配偶者を求め合う踊り「歌垣」の中の男女ペアの激しい乱舞が、踊り念仏後半に用いられた。女踊りは手を肩から上にかざし、男の手が下にきても遮らない形で、天上の極楽阿弥陀仏に向かう手招きにも見えた。前半は、仏教の先導者たちの口説節で静かに踊った。

数年で、踊屋を建て、踊り僧の興行を開くようになり、見る群衆が生まれる。見ることでも仏の功徳を受けられた。後の江戸時代初期のかぶき踊の興行に近いもの。次第に、踊も観るも一部俗化していく。



戦国時代には、死者の魂を鎮める、盆踊が全国に普及。天災をもらたす戦死者の怨霊も鎮められた。


須賀神社の名物階段


風流踊へと進化


民衆が踊りの主役になり、踊念仏→念仏踊→風流踊へと変化する。

室町時代、民衆のエネルギーが噴出した風流の拍物(はやしもの)が登場。扮装で囃しながら練り歩くスタイルと念仏踊が合わさっていった。

室町後期の1521年からは、南無阿弥陀の言葉の代わりに、小歌、当時の流行歌を聴きながら踊るのが流行。
当時の踊りは、先に決まったいくつかの動作の組み合わせを繰り返す、リズム主体のダンスだった。

江戸時代、豊国祭礼での豪華絢爛な風流踊も斬新だった。
風流踊の3段構造は、踊り場に出る踊りの「出端(では)」、「本踊」、退去の踊りの「入端」
歌も、いくつかを繋ぐ組歌となって、真ん中の輪踊は小歌や民謡を自由に組み合わせて、一編とした。中央は、囃子が陣取る。
この構造は、同時代の女かぶきでも用いられ、花道が誕生する。


郷村社会では、風流踊りの担い手の青年を厳しく鍛錬する風習があった。踊りも強制的鍛錬の一つ。
元々女性は神と繋がりやすい存在とする信仰もあって、女性も幼い少女の頃から舞を舞ったり、祭りごとをしてきた。小町踊、ややこ踊、わらべ踊。


手本は神楽殿、中心は客席


歌舞伎時代へ


ややこ踊の一座の中に、出雲の阿国もいて、その人気一座が打ち出したのが、かぶき踊だった。

北野天満宮ではじめて興行され、組み舞台は芝居小屋の櫓のはしりとなった。時に男女逆の役回りで、それまで鑑賞舞踊は1人か2人が主だったのが、一転リズミカルな野良群舞が登場した。

異様で異風で奇抜な動きや扮装での、パフォーマンス。若者の既存社会への反抗心は、戦乱の無常な社会では大人にも広がっていく。心の燃えるままに狂うように生きるという、かぶき者の美学があった。

郷村で行われる亡魂送りの念仏踊で、締めくくられるのは特徴的。

あくまで芸能者は、社寺の使いで「勧進」のためだった。座頭は、元は神職や宗教芸能者の名前だった、「太夫(たゆう)」「和尚(おしょう)」と名乗った。遊郭の世界もこれを真似た。

後続の一座も現れ、女かぶきがブームとなった。



そして、近隣の他国でも、類似の芸能巡遊の民俗があったこともポイント。


女かぶきから若衆、野郎歌舞伎へ


その後、女かぶき→若衆かぶき→野郎歌舞伎(成人男子)へと移り変わる。

大都市の町人文化にぴったりとはまったため。繁盛のために各座がしのぎを削り、演劇性や芸術性が高まっていった。女かぶきはテンポの良い群舞の小歌総踊りだった。1624年からは旅興行に変わって、常設小屋が作られ始める。

1629年、風俗を乱すとして、遊女かぶきの禁止。
1640年、男女交える狂言尽しの禁止令。

代わりに、若衆かぶきが勢力を増す。
色を振りまく小歌の踊りメインで、間に狂言を演じた。女かぶき時代からいた狂言師が、小舞で花開く。「小舞」は、女かぶきの踊りと違って、歌詞ありきの写実的舞踊である。

過剰な性の表現で、こちらも1652年に禁止令が出る。

以来、容色を抑えて、さらにドラマ性を高めた、成人男性による野郎歌舞伎に変わっていく。放れ狂言から続き狂言となり、踊りは演技と一体化した、「所作事(しょさごと)」に変容。



以降、歌舞伎から独立していった歌舞伎系諸流派の日本舞踊などは、舞踊を「踊り」と言う。
逆に、同じ時代からの座敷舞踊は「舞」と言われる。



日本的「舞」方


舞の起源


跳躍運動の「オドル」に対して、「マウ」は円形にくるくると廻る旋回動作のことを指す。

トルコのセマーという儀式にみられる軸をもつ「回転」に対し、日本では一ヶ所に立ち止まらずに何かを中心にして回る「回歩」がほとんど。
回歩と踊躍で仏と一体になろうと熱狂する、踊念仏のねらいにもある。


851年ごろ、踊念仏の源流である、経文唱え歩きの常行三昧。
仏道を修行し、瞑想しながら歩行往来することを「行道(ぎょうどう)」といった。
その後、938年から空也がリズムよく念仏を唱え歩いたのが、踊念仏の新たな形のはじまり。

まわる、からおどるへ身体行動が芸能化する切り替わりだった。


一橋祭盆踊り会場での商品

鎮魂祭の目的とは



古代から歌舞とは、歌の中の言霊によって死者の魂を呼び寄せ、舞うことによってその魂を自分に憑依ささて死者の体内へ鎮定させる呪術行為であった。

沖縄県久高島のイザイホーの鎮魂儀礼は、回歩と踊躍の組み合わせで、興奮や恍惚、脱魂を誘発させる。

685年頃から、天武天皇のための招魂、みたまふりが行われた。
平安時代の宮中では、太陽が最も弱まる11月に、人間の生命を蘇生させる鎮魂祭を行った。
天照大神の天岩屋に籠った事件が由来。
呪術を行う天鈿女命の所作が刺激的で、トランス状態で放埒淫靡な姿で振る舞うことは、生命力を呼び覚ますとされた。

儀式は次第に様式化、芸能化していき、のちに神遊びや神楽など祭事芸能となっていく。


舞か、踊か


古代日本人には、踊の所作はあまり馴染まなかった可能性がある。

風変わりだった天鈿女の所作は、足をあげて飛んだり跳ねたりする動きで、舞でなく踊の所作。
平城京や平安京での歌垣や踏歌は、踊りスタイルで朝鮮系の異国からのものだった。

雅楽では、このリズムで舞う朝鮮系の右舞と、楽で舞う中国系の左舞が組み合わされる。リズムかメロディか重点が異なる。前傾すり足の能と違い、騎馬民族的な直立でリズムあるステップ。

武智天皇の795年に、正月の男踏歌と女踏歌行事により、日本でも踊が公民権を得た。


一方の舞は、狩猟や牧畜、漁労など色んな部族が点在していた古来の日本が、紀元前1、2世紀に中国からもたらされた稲作により共同民族となり、土に向かう労働エネルギーの同一身体行動が昇華されて、舞が創造された、とされている。


舞踊は生産労働の形で決まる

民族社会を取り囲む自然現象(気候や土、山海など)→人々への行動制限→制限の中での独自の生活行動→生産行動がその軸となる。
舞踊という身体行為は、日々の暮らしの立ち居振舞いの上に立っている。→民族独自の生産行動に顕著につながっている。
芸能の身体行為へと昇華される、そのきっかけの場が祭儀や呪術儀礼。

日本では本来なかった、騎馬牧畜民族の特性。
馬の騎乗疾走のリズムの三拍子と、乗馬時の膝のバネによる身体行動。奇数の拍子が多い。
それが、上下に高く浮きながら躍動する踊りとなって現れている。反動や遠心力を利用した回転旋回も行う。シルクロード筋の国に多い。

日本の稲作農耕民族は、土に命を集中させて、丹田で下半身を支えて吐く息とともに身体エネルギーを土にそそぐ。二拍子系リズム。
静の動作で、腰を落として舞台を歩き、時折足を踏む、神楽や能や幸若舞の舞の舞踊と重なる。

歌舞伎舞踊にみられる、ナンバの動きは、田畑に鍬を打ち込む動作から来ているという説もある。


言語が強く出る、舞

日本の舞は、天を仰ぐのではなく、足を大地から放さないようにとして、衣装も重い。

そして言語表現を重視して、身振り手振りと合わせてきた。日本系「舞」。言霊信仰のため。うたのパワーをより高める役割に、節すなわちメロディーがあった。
神の最高威力のことばを聴くために、祭りの場で巫女が旋回して神の託宣を行う際に、舞は言語表現と一体化し成長した。

一方、大陸系「舞」はほとんど歌謡を伴わない。


この舞と語りが舞台芸術化されたのが、中世成立の猿楽能=現在の能。語りの呪性が重要視され、老人の姿の神、翁の舞と歌が軸となる。その後演じられる脇能は複式能であり、かたりによる語り手と聴き手の交感が特徴。

こうして、多彩な劇的文芸的表現を示す舞型の技法が創出されて、舞踊は自在に語りの詞章表現を行うように。舞踊は文字と一体化して、近世の歌舞伎舞踊へつながっていく。


語りだす舞踊


元禄期の名女方芳沢あやめのあやめ草より
芝居の根幹は劇であり、登場人物の行動と心を表現するのが「地」の芸。それを踏まえて踊るのが「所作事」。所作事のめずらしさで地を怠ると、花ばかりを見て実を結ばないようなものだ。
所作とは、動作や仕草立ち居振る舞いのことで、所作事がそれを踊りで表現すること。
リズムダンスの女かぶきから、能狂言を取り入れて舞踊で綴る劇文学の歌舞伎の踊りへと変化していった。

歌舞伎舞踊の姿勢と動作の数は、997ほど。
既存の文学を骨組みにその時代の流行を取り入れるスタイルだが、現在では、言語性の高さが逆に客の理解を難しくしている。花柳流なども声楽舞踊に重きを置いてきた。

ヨーロッパの舞踊からみえる


ウイグルや中央アジアの騎馬民族的身体特性は、トルコを境に変化している。一人一人が競い合って踊るスタイルから、大勢が足並み揃えて踊る群舞へと形が変わる。さらにヨーロッパは、牧畜と農耕メインだったため、騎馬系ほど激しくないが跳躍や旋回、足踏みの基本動作で集団で揃えるスタイルとなる。

農民は、農作業の生産性を高めるとして、揃った手足の動きを重要視していた。高い跳躍や複雑なステップ、回転はまだ無かった。

14、15世紀の宮廷の貴族社会で、カップルダンスが流行。民衆やギリシャ、トルコに波及する。
後のバレエに繋がり、振付や扮装など風流踊化した。アンデゥオールの身体体位が定められ、身体の跳躍や回転が芸術化された。

大正11年に日本に来日したバレエ団は影響を与えた。パヴロワの「瀕死の白鳥」に刺激され、長唄「鷺(さぎ)」、「鷺娘」が振付られた。





古来からの人間の身体進化


数百万年前の石器製作から、手の器用さを獲得していく。二十〜三十万年前には、それに伴い左右の脳の役割分担も完成。イメージし、言語化する能力も獲得していく。

陸上では権力者ありの上下関係が根付きやすいが、日本の海洋中心の地形では海洋に逃げることができるため思想の自由度が高く、統一されにくい。
入れ墨の習慣。縄文人の布の服、女性の様々な装飾品、弥生人は近隣国の戦乱の影響で、質素な服や道具。


各家は収穫高に応じて初穂を神社に奉納し、神社は保管し貸付など行い、災害時には分配する共同財産のシステムがあった。豊年満作を祈る春のお祭りと収穫に感謝する秋のお祭りを神社で行い、神様への祈りを捧げて、国家の法をきいた。神道、単純年齢順を重んじた。全国の神社がネットワーク化されていた。

聖武天皇時代、仏は災いを除去する存在、神はその怒り(天変地異の原因)に対し許しを乞う存在だった。国家の徳化や災厄は天皇の徳不徳が原因とされた。この天皇の位置付けは、律令制を可能にしていた。
国家の安定のための仏教は、地獄極楽の因果関係によって人を縛る過剰な罰の体系だった。

神に捧げる歌舞は古来、神と直接対話ができる特権をもつ女性が行うものだった。

歌舞は、死霊・悪霊を内世界から切り離し、外世界に送り出す役割を持っていた。そこから踊念仏へと発展。(新しい死者の霊は祟りやすい荒御魂のため、踊で鎮めはやく送り出さなければならない)
他に、祭りなど神の来訪によって神の位相を形成し、時を切り世を更新する役割もあった。近世に集中。

日本の神々は、それ自体が信仰対象ではなく、降臨して新しい世界を形成するのが役割である。古代完成した天皇制についても同じシステムだった。



日本人固有の身体運用


身体運用は、集団的なやり方で制度化されている。完全な個人の自由意志では、一挙手一投足動かせない。

近世まで、武士と町人のように、社会では性別、年齢、立場などにより身体の使い方に細かい取り決めがあった。


痛みは、文化的社会的なもので、時代や文明によっても違う。身体経験の知覚は、その人が何を信じているか、どんな哲学や宗教をもつかによって変動する。

地面と人がどのような関係を結ぶかという課題に対する答えが、歩き方。多様で自由である。

日本列島の住民は、すり足を作り出した。
ひとつは、温帯モンスーン地域の深い泥濘を進むため身体の重みを足裏全体に分散させるため。
また、足裏で豊かな食べ物を贈与する地面と親しみ感謝して、触れ合うため。
逆に、足拍子を踏むのは儀礼などで地の神への挨拶だったので、普段は目覚めさせないように滑るように地面を歩んだ。

日本の伝統的身体文化は、武道、能楽、禅と念仏など鎌倉期発祥が多い。
人知を超えた大地に向かい、整えた身体でその力を制御する修行が、この時期に専門特化したため。大地の霊との交感である。

「神おろし」とは、何かの誓約や祭事の際に日本の神を呼び招くことで、鐘の音や声、煙と香り、神水を飲み交わすなどされた。


アイヌと沖縄の日本人


アイヌ、かつてのオホーツク人は、独自の歴史、文化や言語をもつ。その身体特徴は、漁撈活動や交易活動に長けており、北方系民族の影響を受け、縄文人的特質も強い。


沖縄諸島の人々は、独自の歴史を歩んではいるが、縄文弥生時代に南九州から拡散した人々、その後東シナ海から日本海にかけて九州や本州から流入した人々が混じり、言語も日本語の流れをくんでおり、身体特徴も変わらない。



奈良平安時代〜鎌倉室町時代の身体観



十二世紀末の後白河法皇のもと作られた、病者を描いた「病草紙」より
都の貴族中心に、病は、社会的交流を正常に行えなくなる恐怖の対象だった。
近づくのを避ける一方で、珍しい病を見たい好奇心、知る優越感、自分と棲み分けができたときの笑いもあった。


穢れ、外見的汚さは、その人の現世か前世で犯した何らかの罪に起因するという仏教理論があった。死に関わることも穢れとされたが、その範囲は近さや年齢などで違い、内世界に属する人が主だった。伝染するものとされた。穢の体系は十世紀に完成する。

穢が発生すると、大祓(おおはらえ)が行われた。人と神との関係が損なわれた場合にその修復のため、あるいは国家や集団を特定の位相から切り離す場の転換のために行われた。


非人集団が生まれる。癩(らい)病など病人を多く含む。彼らは死に近い位相の仕事をした。
牢獄で身体の一部を切り落とされる慣わしにより、罪ー穢ー異形のイメージが生まれた。仏教で、見た目の穢さは罪が原因とされたため。古代から中世にかけて、非人は外世界の異人から内世界の被差別民へと社会に組み込まれていく。

赤の装は、穢・罪を清める者の色とされていた。
癩病の者も、赤の一種である柿色の衣で、自らの穢を排除すると考えられた。
湯屋や遍路は、浄化、無差、そして神仏降臨の場だった。そこには、穢れと神仏、罰と恩恵が複合する矛盾があった。

市とは、外と内世界の境界で神仏降臨の場、ものや人の属性が切れるため、交易や歌垣、処刑や外国のもののキヨメが行われた。一揆も同様の特殊な位相。


頭髪を隠す装いなど、身分や属する場に沿った装いをすることにより、内と外世界の分類、中世身分制度を現していた。


新田の開墾の百姓をまとめるものとして武士の登場。御恩と奉公関係の成立。


平安時代中期に「田楽」の成立。神事である田植えを女性が行い、男性はお囃子でその疲労軽減にあたった。鎌倉時代から武家も庶民も鑑賞や舞を楽しむものに。
それと猿楽が合わさり、南北朝時代に「能」が生まれる。能が武士道を形成させた。


江戸の日本人の身体観


江戸時代の一般的な日本人の体格について
身長は、男性でも158センチほどしかなく著しく低い。(人々の身長が最も低かった時代)
四肢が特に短く、先に向かう遠位骨ほど相対的に短い。
顔は寸詰まりの丸顔、反っ歯ぎみで口元が出た、頭でっかちで寸胴の六頭身。
BMIも26〜27と、身長の割に体重があった。

食生活の変化で、現代人よりも虫歯が多かった。
運動の習慣がなく、加齢による疾患が目立つ。

都市部人口急増によって、男性中心に梅毒の大流行、幼少期の流行病などで14%と死亡率が高く、女性は妊娠出産期に死亡率が高い。インフルエンザや麻疹、結核など流行していた。逆に八十代まで生きるものも3%いた。



人間の身体を一つの空間と捉え、臓器に気が宿り、全身を流れ続ける気こそが身体と精神全ての機能を司っているという概念。

一方西洋医学では、身体は神に造られたもので、機械的に動くものと認識されていた。(機械論的医学)血液循環、心臓が中核で、それは創造神によって始まるもの。

蘭学者たちは、身体を機械としてでなく液体としてみる身体観を持ち続けていた。


病院は、気によるものという曖昧な観念があり、公衆衛生の重要さはまだ広まっていなかった。




明治時代からの身体観



かつてはお腹が出ていることは、福の神布袋のように価値あることで、肥満薬があったほど。
精神にまつわる力の源泉がある、呼吸により気を充実させられると考えられていた。

近代的な富国強兵などの国家政策、東京オリンピックのため、国家が身体管理をするようになった。
武芸に変わり、体操が採用される。
腹を出す代わりに胸を張るのようになる。
肥満は不健康、心のたるみとみなされるように。

同時に呼吸により腹を鍛えるブームや重要性は、近代も変わらずある。


1912年以降、体質・体格に向き不向きの陸上競技が勧められていく。まだ西洋人との比較は概念になく、科学的根拠も乏しかった。


衛生・清潔に対する考えも、今とは違い毎日入浴は最近までない発想。特に女性の手入れの大変さから、洗髪はさらに回数が少なかった。
病原菌、細菌の考えも初期には無かった。

昭和初期まで妊娠出産の禁忌は多く、特殊な位相が死や火事など別の位相と重なることは出産に災いが起こるとされていた。

婚礼儀礼も、実家から道中、婚家へと女の位相を移行させる意味がある。葬送儀礼も死者成仏と魂が内世界に留まる混乱を防ぐために、宮参りは赤子を外世界から内世界へ位相移行させるため、同様の考え方。死者や精霊、赤子は、白(=雲)の位相。

その中で、いてはいけない位相にいるときには被り物をしたり、火や門や足洗いによって位相の断ち切りがなされた。


茶道の身体観

室町時代に体系化され、戦国時代に完成した茶道。

五感全てを使う身体の使い方。

茶事が目指す、一座建立(いちざこんりゅう)の精神とは、亭主と客の全員が、精神、技量ともに深く同調し、互いに満足して運営されること。
賓と主の区別が渾然となる状態が、究極的な主客のあり方。呼吸や脈拍、身体感覚の同期は、共同体を高める。

炉中の炭火は、原始的感覚を呼び覚まし、全員の距離を少し縮める作用をする。入り口の躙口での四足歩行、共食の流れで、共同の身体感覚を掴んでいく。

大切な考え方である、亭主七分の楽しみとは、自分自身を愛して大切に扱う(自身の身体感覚に敏感に反応してより良く適応させる)ことにより、ホスピタリティの基本を満たして、結果的にお客様も楽しめるということ。


武道の身体観

はじめに敵対状況を作り、そこから次元を切り替えて相手を含んだ統一体、複合システムを作っていく。

この能力を極めたものが、「治国平天下」
自身の身体を超え、大人数に体感を送ったり、周囲の人と合わせたり、感覚の制御に優れた人が統治者となっていった。


刀を持って、対象を斬ろうと思うと斬れないが、その先に用事があって通過する時には、途中のもの全て斬れる、不思議なメカニズムがある。
据え物斬りは、技術や腕力でなくマインドの問題で、私と刀と対象を調和的にどう捉えるかという世界の見方の問題である。

不快な身体の感覚から、嫌な感じをゼロにする方向への身体感受性を大切にする。

西洋のスポーツはあくまで条件の下での勝敗で、安らぎは宗教や聖書が別に担う。合気道など日本の武道は、一方で勝敗を超越した人間の命の働きのところにある。


能の身体観


シテとワキは、はじめワキが現実世界に現れるところを、シテが鳥瞰的視点の真中から彼方へと連れて行く、真逆のベクトルの劇的緊張が見どころとなる。

全ての型を暗記した上での稽古、動作と逆方向の力を意識、呼吸でのお腹の力に意識を向ける。

囃子も、「コミ」という丹田の力ませを、互いに体感で伝えて合わせることで舞台が生きてくる。
音の振動、響きは、多くの宗教の中にあるように、共振共鳴によって世界や宇宙との繋がりを感じられる、命の力を高める方法である。


文楽人形遣いの身体観


基本は一体の人形に、主遣い(おもづかい)、足遣い、左遣いの3人が担当する。
主遣いは「腰の当たり」で身体的接触により足遣いに、「頭」をみせて左遣いに、指示を出す。

人形という虚の中心に向けて、個々が一体化していく。人形の体感に同調するのが、身体の使い方の理想。

稽古なしでいきなり本番という、凄い情報量を浴びる環境で、身体性を高めていく。



相撲の身体観



直立でインナーマッスルを使い、全身の筋肉をバランス良く使い、力を抜くことが強い体となる。
狭い土俵では、身体の中心からの素早い動きを身につける必要がある。


しこを踏むとき、足の高さを競うように型が変化してきているが、本来は足裏を見せない形とされる。
股関節と肩胛骨の刺激で、身体機能を覚醒させる。

手の内、足の裏、身体は柔らかくが理想。
相手の力をいかに受けないかが、身体開発の方向性である。


芸能で、神事で、スポーツでもある。
江戸時代の勧進相撲は、相撲団体が各藩お抱えの力士を派遣してもらい、興行を行なっていた。

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