見出し画像

戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【4月12日~18日】

戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。

4月12日 戦国最強を謳われた武田信玄没

元亀4年(1573)4月12日(旧暦)、武田信玄(たけだしんげん)没。西上作戦中のことです。2月10日に三河(現、愛知県東部)野田(のだ)城を落とした信玄はすでに病が重く、長篠(ながしの)で休養後、甲斐(現、山梨県)に戻る途中の信州駒場(こまんば、異説あり)で逝去。享年53。上杉謙信(うえすぎけんしん)と並ぶ戦国最強武将の、志半ばでの死でした

画像1

4月13日 秀吉、稲荷大明神を脅す

慶長2年(1597)4月13日(旧暦)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養女で宇喜多秀家(うきたひでいえ)室の豪(ごう)姫が「狐憑(つ)き」に。秀吉は激怒し、稲荷大明神に手紙を書きました。「けしからぬことであり、今後二度と憑くでない。命に背けば日本中の狐を狩るぞ」。脅迫が効いたのか、豪姫は快癒します。

4月14日 聚楽第行幸

天正16年(1588)4月14日(旧暦)、後陽成(ごようぜい)天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行幸(ぎょうこう)。関白に就任した豊臣秀吉が京都に築いた邸宅兼城郭に、後陽成天皇、正親町(おおぎまち)上皇らを招いたものでした。天皇の行列には織田信雄(おだのぶかつ)、豊臣秀長(ひでなが)、徳川家康(とくがわいえやす)、豊臣秀次(ひでつぐ)、宇喜多秀家らが供奉(ぐぶ)しています。

画像2

4月15日 信長、武田討伐終了を細川藤孝に通知

天正10年(1582)4月15日(旧暦)、織田信長は細川藤孝(ほそかわふじたか)に通達。遠江(現、静岡県西部)掛川に至った信長は丹後(現、京都府北部)宮津(みやづ)城の藤孝に、武田討伐が早々に落着したことに我ながら驚いたこと、東国は余すところなく制圧したこと、近々安土(あづち)城に帰還したら詳細を知らせると伝えました。

4月16日 「米五郎左」丹羽長秀没

天正13年(1582)4月16日(旧暦)、丹羽長秀(にわながひで)没。織田信長に仕え、米五郎左(こめごろうざ、なくてはならない存在の意)と呼ばれるほど信任篤く、家臣の中で初の国持(くにもち)大名となります。本能寺の変後、羽柴(はしば)秀吉とともに明智光秀(あけちみつひで)を討ち、清須(きよす)会議では秀吉を支持。その後、123万石の大名となりました。

4月17日 幕府の礎を固めて徳川家康没

元和2年(1616)4月17日(旧暦)、徳川家康没。前年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)、武家諸法度、一国一城令を制定、徳川幕府による全国支配を実現しました。死の前月に太政(だじょう)大臣に任じられています。駿府城で病没。享年74。

画像3

4月18日 丹羽長重誕生、失意から復活へ

元亀2年(1571)4月18日(旧暦)、丹羽長重(ながしげ)誕生。長秀の長男で、父とともに羽柴秀吉に従い賤ヶ岳(しずがたけ)や小牧・長久手(こまき・ながくて)で戦います。父の死後、123万石を継ぐも、些細な理由で秀吉から大部分を剥奪されることに。関ヶ原では西軍についたため、改易(かいえき)。しかしのちに白河(しらかわ)10万石に復活しました。

画像4


【4月の戦国武将生没日】

4月7日・徳川秀忠誕生
4月7日・浅野長政没
4月8日・結城秀康没
4月9日・木下利匡没
4月9日・池田恒興没
4月9日・池田元助没
4月9日・森長可没
4月10日・後藤又兵衛誕生
4月12日・武田信玄没
4月16日・丹羽長秀没
4月17日・徳川家康没
4月18日・丹羽長重誕生
4月19日・佐竹義重没
4月20日・斎藤道三没
4月20日・中川清秀没
4月21日・石川一光没
4月21日・毛受勝照没
4月22日・細川藤孝誕生
4月24日・柴田勝家没
4月27日・毛利輝元没
4月29日・松平広忠誕生

いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。