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戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【3月29日~4月4日】

戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。
毎週日曜日に更新する予定です。なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。31日はありません。

3月29日 信長、将軍足利義昭に圧力

元亀4年(1573)3月29日(旧暦)、織田信長は15,000の軍勢で入京。対立する将軍足利義昭(あしかがよしあき)に圧力をかけました。信長は知恩院(ちおんいん)に布陣。柴田勝家(しばたかついえ)は吉田郷、丹羽長秀(にわながひで)は聖護院(しょうごいん)、明智光秀(あけちみつひで)は賀茂に布陣して二条御所の義昭とにらみあい、京は騒然となります。

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3月30日 上杉景勝、国境守備を命令

天正6年(1578)3月30日(旧暦)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)は越後坂戸(さかど)城主の深沢利重(ふかざわとししげ)に命令。上野国(こうずけのくに、現、群馬県)との境目守備を厳重にするよう伝えました。2週間前の上杉謙信(けんしん)逝去に伴い、上杉家中では景勝と景虎(かげとら)による跡目争い「御館(おたて)の乱」が勃発し、争いは翌年まで続きます。

4月1日 信長、安土城の石垣及び天主建築を命令

天正4年(1576)4月1日(旧暦)、織田信長は近江国(おうみのくに、現、滋賀県)安土(あづち)山に石垣の構築を開始。また石垣上に唐様(からよう)の「天主(てんしゅ)」を建てることを命じます。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・畿内の諸侍に普請役を課し、京・大坂・堺の大工、職人、瓦職人の唐人一観(とうじんいっかん)らを招集しました。

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4月2日 上杉謙信、感状を発給

永禄5年(1562)4月2日(旧暦)、上杉謙信は高野佐渡守勝氏(たかのさどのかみかつうじ)に感状を発給。この度の信濃国(しなののくに、現、長野県)伊那(いな)郡における武田軍との戦闘、及び昨年の第四次川中島合戦における武功に対してでした。高田5,000苅(かり)他、小田、平柳屋敷などの土地を「永代宛行(えいたいあてがい)」としています。

4月3日 信長、本願寺籠城中の男女の退去を指示

天正4年(1576)4月3日(旧暦)、織田信長は明智光秀、細川藤孝(ほそかわふじたか)に命令。大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)を攻撃中の両名に、麦の刈り取りと、籠城中の男女は赦免(しゃめん)するので早急な退去を求める立て札を掲げることを指示しました。ただし「僧侶以下、再起を期す者は許さず」としています。

4月4日 将軍足利義輝、毛利・尼子の和議を斡旋

永禄3年(1560)4月4日(旧暦)、将軍足利義輝(よしてる)は毛利元就(もうりもとなり)に通達。毛利・尼子(あまご)両家の和談を勧め、石見国(いわみのくに、現、島根県西部)における戦闘を停止することを求めました。また折よく聖護院門跡道増(しょうごいんもんぜきどうぞう)が逗留(とうりゅう)中なので相談すること、両家の和議は天下静謐(せいひつ)の基(もとい)であるとしています。

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【3月の戦国武将生没日】

3月1日・南部信直誕生
3月3日・筒井順慶誕生
3月3日・織田信秀没
3月3日・前田利家没
3月5日・直江景綱没
3月6日・松平信康誕生
3月10日・足利義輝誕生
3月11日・武田勝頼没
3月13日・上杉謙信没
3月13日・鍋島直茂誕生
3月14日・毛利元就誕生
3月17日・立花道雪誕生
3月20日・黒田官兵衛没
3月20日・上杉景勝没
3月21日・小笠原秀政誕生
3月24日・上杉景虎没
3月24日・龍造寺隆信没
3月25日・鳥居忠吉没
3月25日・宮部継潤没

【4月の戦国武将生没日】

4月7日・浅野長政没
4月9日・池田恒興没
4月9日・森長可没
4月10日・後藤又兵衛誕生
4月12日・武田信玄没
4月16日・丹羽長秀没
4月17日・徳川家康没
4月19日・佐竹義重没
4月20日・斎藤道三没
4月22日・細川藤孝誕生
4月24日・柴田勝家没
4月27日・毛利輝元没

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