戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【6月1日~6日】
戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。31日はありません。
6月1日 信長、本能寺で茶会
天正10年(1582)6月1日(旧暦)、織田信長(おだのぶなが)は京都本能寺(ほんのうじ)にて茶会を開催。公卿、僧侶ら40人を招き、安土(あづち)より持参した名物を披露しました。また同日午後の日食を京暦(きょうごよみ)は予知しておらず、信長は暦の不備は天皇に対し不敬であると指摘、三島暦(みしまごよみ)の採用を主張して、公家らは困惑します。
6月2日 本能寺の変
天正10年(1582)6月2日(旧暦)早朝、明智光秀(あけちみつひで)が織田信長の宿所・本能寺を襲撃。「是非に及ばず」と口にした信長は、近習(きんじゅう)らが必死に防戦する中、炎に包まれた宿所の奥に消えました。また二条御所(にじょうごしょ)では、息子の信忠(のぶただ)も明智勢と戦って討死。光秀の謀叛の動機は、いまだにわかっていません。
6月3日 羽柴秀吉、本能寺の変を知る
天正10年(1582)6月3日(旧暦)夜、備中高松(びっちゅうたかまつ)城を囲み、毛利輝元(もうりてるもと)と対峙(たいじ)する羽柴秀吉(はしばひでよし)は、光秀が本能寺の変を知らせる毛利宛ての密使を捕え、驚愕します。秀吉は黒田官兵衛(くろだかんべえ)と相談の上、まずは早急に毛利と和睦し、明智光秀討伐のために軍を上洛(じょうらく)させる方針を固めました。
6月4日 真田昌幸没
慶長16年(1611)6月4日(旧暦)、真田昌幸(さなだまさゆき)が配流(はいる)先の紀州九度山(きしゅうくどやま)で没。二度の上田合戦で徳川(とくがわ)の大軍を翻弄(ほんろう)した、戦国きっての智将でした。関ヶ原合戦後、長男信之(のぶゆき)の助命嘆願で次男信繁(のぶしげ)とともに流罪(るざい)に。昌幸が豊臣(とよとみ)家に招かれて大坂城に入ることを、徳川家康(いえやす)は最も恐れていました。
6月5日 中国大返し、始まる
天正10年(1582)6月5日(旧暦)、前日夕方に備中高松城を発した羽柴秀吉は、野殿(のどの、岡山市北区)に至り、沼(ぬま)城を目指します。「中国大返し」の始まりでした。講和後に本能寺の変を知った毛利方は追撃しようとしますが、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が制止したといいます。
6月6日 羽柴秀吉、柴田勝家らに勝利したことを通知
天正11年(1583)6月6日(旧暦)、羽柴秀吉は豊後(ぶんご)の大友義統(おおともよしむね)に通知。柴田勝家(しばたかついえ)、織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(たきがわかずます)らとの戦いに勝利したことを伝えました。またその前日には、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおける一番槍の恩賞として、加藤嘉明(かとうよしあき)が3,000石をあてがわれたと伝わります。
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