見出し画像

地域ミュージアム・トークセッション[1]

「コロナ禍の中の地域ミュージアム:北斎・熊野筆・世界遺産-ローカル・ミュージアムの現場から-」

はじめに

「地域文化は知恵の源-Fountains of Wisdom-」
地域に生きる私たちにとって地域文化はアイデンティティであり、そこで生きるための知恵の源です。そして、それらが集積した地域ミュージアムを拠点に、地域文化の価値とミュージアムの存在を高めていきたいと考えています。
コロナ禍の今、人が集う地域ミュージアムも困難を迎えています。北斎・熊野筆・世界遺産のまちのミュージアム経営者が語る、今とこれからをご紹介します。

ゲスト
市村 次夫 氏(一般財団法人北斎館 理事長)
石井 節夫 氏(一般財団法人筆の里振興事業団 理事長)
仲野 義文 氏(NPO法人石見銀山資料館 理事長)
ナビゲーター
藤原 洋 (全国地域ミュージアム活性化協議会 事務局長理事)

どんな地域ミュージアム?

藤原:本日のテーマは、「コロナ禍のなかのミュージアム」です。まずは、自己紹介とそれぞれが運営されるミュージアムについて、お聞かせいただきたいと思います。市村さんから、お願いします。

市村:市村次夫と申します。一般財団法人北斎館の理事長をやっております。当財団の設立は昭和51年で、今から44年前になります。私は、設立後2、3年目に理事に入っておりますので、かれこれ40年以上この美術館には携わっていることになります。

市村さん①

美術館「北斎館」のはじまりは、当時、小布施町が民法34条に基づいてつくった開発公社にさかのぼります。いわゆる公用地拡大法に基づく開発公社と違い、わりといろんなことが自由にできる開発公社でした。この開発公社は、人口増加策として宅地分譲を行い、実は、その余剰金で「北斎館」ができたという経緯があります。なぜそこにこだわったかというと、行政の一般会計で整備すると、どうしても行政の企画になってしまう。町の開発公社なんだけど、限りなく民営に近いものにしていこうとしました。開館以降、非常に幸せなことに、館蔵品ゼロだった美術館が、入館料収入で少しずつ北斎の作品を購入し、現在は七十数点になりました。しかも、この四十数年間の間に、建物も2回にわたって増築をしました。これも自前の資金ですから、公的な資金と言えば、最初の建設費だけです。これも民法34条による法人ですから、人口増加策がある程度成功した30年前に解散しており、最初に設備投資をした公社は現在はないという、非常に不思議な形で運営しております。

画像1

そういうわけで、自由度の大きい美術館で独立採算でやってきたわけですけれど、昨年の台風19号で、すぐ近くの千曲川が決壊致しまして、以来、観光客ゼロ、そこへもってきて年が明けたらコロナ禍がやってきました。5月ぐらいまではオープンはしていましたが、ほとんど入館者はゼロで、ようやく夏ぐらいから、例年の3割、4割、現在は5割ぐらいに戻ってきました。ですから、単年度で考えたら赤字という状況ですが、職員は一人も解雇することなく、明るく将来に向かっているというところが現状でしょうか。

ちなみに、この美術館は北斎の肉筆画だけを集めています。版画も何点かありますが、それはすべて展示品ではなく、参考資料という位置づけです。とりあえずは、そんなところでしょうか。

藤原:今年はオリンピックの予定があり、日本文化の紹介として、かなり北斎が取り上げられるという評判がありましたが、実際にどうだったんでしょうか?

市村:事実、「北斎館」そのものよりも、オリンピックに備えて去年から今年にかけて全国の美術館で北斎の展覧会が多かったんです。加えて、北斎は1760年生まれですから、生誕260年になるというのもありました。残念ながら、今年前半の入館者数は伸びなかったという美術館が多かったと思います。

もう一つ、実は、オリンピックにちなんで「北斎」という映画が出来上がってるんです。だけど、発表を来年にずらしていますので、全国的にオリンピックの影響は、かなりあります。

画像2

藤原:続いて、石井さん、お願いします。

石井:はじめまして。広島県熊野町の「筆の里工房」の財団・理事長の石井節夫と申します。平成7年の設立当初から事務局長、その後、常務理事を経て、この4月から理事長を務めております。

石井さん①

広島県熊野町は、広島県の南西部、広島市に隣接した場所にあります。人口は24,000人、江戸時代の後期から筆づくり、昭和40年代にかけては広島市のベッドタウンとして発展した町です。位置的には、広島市、呉市、東広島市に囲まれた高原盆地のような地形をしています。熊野筆は、江戸時代の末期から昭和にかけて書道用の筆がメインだったのですが、平成以降は、6割以上が化粧筆に生産がシフトしております。現在は年間110億円ぐらい生産しています。

(一財)筆の里振興事業団は熊野町が設立した財団で、当初は民法34条の財団でしたが、公益法人改革により今は一般財団法人です。事業団としては、「筆の里工房」という筆を中心としたミュージアムの指定管理業務と「熊野筆セレクトショップ」という熊野筆の専門店の運営をしております。

「筆の里工房」は、平成6年に当時のふるさと創生事業を活用して熊野町が整備したものです。総事業費約21億円で、当時、町予算の3分の1ぐらいをかけ、さまざまな軋轢がありましたが、やっと26年目を迎えて、ミュージアムとしての体裁を整えてきたというところです。「筆の里工房」という名前なので、筆の製造業者と思われることもありますが、実際には筆を作っておりませんで、美術館と博物館、展示と体験という構成がメインの施設です。
筆のミュージアムということで、長さ3.7メートル、重さ400㎏の世界一大きな筆があります。ギネスに申請したんですが却下されました。その理由は、イギリス人が言うに「ホウキと見分けがつかない」というものでした。

(さいご)

社会見学に小学校4年生、5年生が年間4,000人~5,000人来ます。筆のミュージアムなので、筆のコレクションの数や質では世界を見渡しても類がないほど、26年間かけてやっと集めることができました。常設展示では、筆の収蔵品の展示のほか、日本の文字の文化、漢字が日本に伝わってきてひらがなやカタカナができていく、その変遷の中で筆がどのように関わってきたか、など、デジタル社会の中で手書きとか筆とかアナログ的なものを大事にしていこうと、筆の未来を感じていただけるように常設展示をしています。

企画展も年に3回~4回開催し、筆で表現する書・絵・アニメ、工芸の絵付けなど、日本文化を陰で支えてきたツールとして、北野武さんの作品、琳派の作品、竹久夢二、京都の「陽明文庫(近衛家の至宝)」など、国宝や重要文化財も展示ができるような施設になっております。

画像6

筆づくりの町なので、民家を模した場所で伝統工芸士さんに毎日筆づくりを実演いただいております。他に体験のスペース、レストランがあり、ミュージアムショップでは、筆アートや筆記を紹介しています。「熊野筆セレクトショップ」では、1,500種類の筆を販売しています。何を選んでいいかわからないぐらいたくさん並んでいます。

建物の構造としては、鉄筋2階建て、延べ床面積3,357㎡、年間の入館者数は5~6万人、多い時で8万人ぐらいです。事業規模は、「筆の里工房」は指定管理料1億7千万円ぐらいで、従事している職員がプロパーと契約社員を含めて16名。施設の館長は、広島電鉄の社長にお願いしています。

「筆のセレクトショップ」は、もともと小さなショップが館内にあったのですが、規模を大きくして、平成13年7月から館内の本店と、広島駅のJR系のホテル、銀座の広島県のアンテナショップに出店し、インターネット販売を含めて令和元年度の決算は2億2~3,000万円ぐらいで、職員は20名です。事業団全体としては36名の職員が働いています。熊野町は「筆の町」という特徴を活かした地域のミュージアムを運営していこうということで財団をつくり、展覧会や情報発信に取り組んでおります。

藤原:一番素朴な質問ですが、なぜ、熊野町で筆なのかというところを、簡単に触れてもらえますか?

石井:諸説あってよく分かってないのですが、江戸時代の終わりに、筆や墨を近畿地方から仕入れて、それを九州の辺りに売りに行くという、農閑期を利用した行商きっかけになったということです。この町に(筆の原料である)動物の毛が取れるわけでもないですし、軸にする竹がたくさん生えているわけでもなく、原材料は99.9%中国から輸入で、製造技術だけで成り立っています。その時代に広島藩の産業奨励もあったようで、この町が筆づくりを始めたのはだいたい200年ぐらい前になります。

藤原:ありがとうございます。では、続いて、仲野さんお願いします。

仲野:みなさん、こんにちは。石見銀山資料館の仲野と申します。資料館に勤務して今年で27年目になります。もともと学芸員でこの石見銀山資料館に入りまして、その頃、世界遺産登録という話があり、しばらく学芸員として調査・研究をやり、その後に館長、今年4月からNPO法人の理事長を務めるようになりました。

仲野さん①

せっかくなので、パワーポイントで写真をみながら、石見銀山資料館や我々の活動についても簡単にご説明したいと思います。
これが石見銀山資料館です。最近は、この資料館のコンセプトとして、「遺跡と資料をつなぐインターフェイス」という言い方をします。石見銀山資料館のある所は、島根県大田市で、世界遺産の石見銀山遺跡があります。かつては日本屈指の大銀山でした。2007年に、「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録されました。現在は、国内に23の世界遺産がありますが、石見銀山はちょうど、中ぐらいの平成時代に登録された世界遺産です。鉱山が世界遺産に登録されているのは、東アジアでは石見銀山だけですので、そういう意味では世界的に注目されています。

石見銀山資料館外観


石見銀山を空からとった写真です。「仙ノ山」というのが石見銀山の本体です。その横に「要害山」というのがありまして、戦国時代、毛利氏や尼子氏が石見銀山の争奪にあたって築いた城になります。その谷あいに広がっているのが大森の町並みです。銀山本体には鉱石を採掘した跡があり、これらを間歩(まぶ)と言って、900か所ぐらいあります。外から見ると普通の山にしか見えませんが、実際に中に入っていくと、戦国時代から江戸時代、明治、大正期に開発された鉱山の遺跡を見ることができます。

石見銀山

大森の町並みは、重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、一般的には町並み保存地区と呼ばれて、約1㎞にわたって古い建物が建ち並んでいます。瓦が赤いのは、この地域の特産品の石州瓦です。江戸時代にタイムスリップしたような町並みが続いています。この中には重要文化財の熊谷家住宅があり、江戸時代の終わりから明治の初めぐらいに建てられたもので、石見銀山の中では最も大きな商家として公開施設になっています。そのほか、白壁の家は県指定文化財の金森家で、江戸時代から大正、昭和初期にかけての町並みがあります。

江戸時代には幕府の直轄地になり、代官所が置かれます。代官所の門がこのように残っているのは全国的にも珍しいそうです。この門だけでなく、周辺には代官所に勤めていた役人の官舎「中間(ちゅうげん)長屋」も残っています。この代官所の中に、1902年に建てられた旧迩摩郡の郡役所を、石見銀山資料館として利用しています。約120年の建物です。

石見銀山資料館は昭和51年に開館しましたが、その発端となったのは、この旧迩摩郡の郡役所が老朽化したため、市役所ではこの建物を取り壊して、ここに庭を造ろうという計画が持ち上がりました。これに対して、地元の人たちは町のランドマークであり、貴重な文化財であることから、何とか残してほしいと保存運動を起こし、行政とかけあって、最終的にはこの施設を無償で譲り受けることになりました。最初は、株式会社でこの資料館を運営しようとしましたが、議会で通らなかったため、大森観光開発協会という任意団体に資料館部会を設けて、そこで運営をしてきました。以来40年近く、任意団体でこの施設を運営してきたということです。そして2年前に、より公益的に博物館としての活動をしっかりやろうということで、NPO法人にしました。

昔から石見銀山に関する調査・研究、資料の収集・整理・保存、展示公開、教育普及活動も行っています。過去には、地元の山陰信販地域文化賞も受賞しました。基本的には、地元に残された一次資料を保存しており、世界遺産の普遍的な価値の裏付けになった資料を展示しています。世界遺産の全体的なガイダンス機能は、大田市が整備した世界遺産ガイダンスセンターが担っています。

最近は特に教育に力を入れており、「世界遺産の学びのバリアフリー」を提案しています。世界遺産は、平和について考え、自然を考えたりと、多くの人たちに様々なことを学んでいただける教科書です。私たちは、学びのための様々なバリアを取り除いていこうと取組んでいます。例えば障がい、例えば言語、なかなか来られない遠くの人などへ教材を届けようと、学びのバリアフリーというのを提唱しています。地元の高校生や子どもたちと一緒になって、多言語化であったり、聴覚障がい者に対して手話で説明するような動画や、16か所の動画をつくっています。これから、さらに、ふるさと教育が地域で重要になっているので、基本的には教育に力を入れた博物館としてやっていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?