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なぜ僕は花火を撮るのか。ある個人史の始まりについて。

今日は台風。仕事も一つキャンセルになったので、ちょっと長い文章を書きたくなりました。それで思いついたのが、花火のこと。僕が花火を撮ることになった、その一番コアの部分の話を、今日は書いておこうかなと。本当に長い長い話ですが、僕にとっては一番大事な一瞬についての話でもあります。前半は脱線につぐ脱線です。本編は後半。よかったら後半「C. 1984年、ロードランナーの夏、ある爆発の輝きの記憶」からだけでも読んでみて下さい。ちょうどこのイントロのすぐ下に目次が出てるはずなので。

A. 2019年、花火についての妄想、トリストラム・シャンディについて大いに語る

花火がどかーんと弾けるあの画。何かに似てるなと思ったら、生命が発生するあの瞬間に似てるんですよね。

ヒョロヒョロと伸びる下線が弾けて、まぁるい花火が弾けてどんどん膨らむ的な。そう、受精卵の生成過程。

というところまで考えたところで、「おまえ、頭おかしいんか」と自分で自分に突っ込むんですよね。深夜3時、フィッツジェラルドが「魂の最も暗い時間」と呼んだ時刻に文章を書いていると、しばしば起こることです。

言い訳じみてるんですが、古来文学者ってのは、こういう発想、というか妄想をする傾向があるみたいなんですよね。例えば1759年に出版された『トリストラム・シャンディ』という小説は、主人公である語り手が、まだ生まれてもいない、誕生する「前」から語り始めるという、それこそ完全に(いろんな意味で)イッちゃってる設定になっているわけです。精子が語る小説ってのは僕はこれ以外には知らないんですが、これ、出版年は1759年。小説というジャンルが、まだ「小説」(novel)とさえ呼ばれていない無い頃、すでにもうその後に試みられるあらゆる「ジャンル破り」を全部やってる小説です。ページ全部を黒塗りにしたり、変な記号だけで埋めたりね。めちゃくちゃ。まあそりゃ、まだ理性も形成されていないはずの精子が語ってる体になっているんだから、仕方ないと言えば仕方ないことなのかもしれませんが、何が言いたいかと言うと、小説ってジャンルは、『トリストラム・シャンディ』のせいで、「始まる前にすでに終わってた」という、まさにもう『トリストラム・シャンディ』そのものような奇怪なジャンルってわけなんです。

この手の「入れ子構造」的なメタの視野からの思考の無限後退なんかも小説ってジャンルは大好きなんですが(例えばその最良の実現の一つは森見登美彦の『四畳半神話大系』なわけです)、つまりは「始まる前にしてすでに終わっている」ものに、20代から冒頭から30代前半まで、「研究」と称して全てを捧げてきた僕の人生も、たいてい終わっちゃってる気がしないでもないです。

花火の話?まあまあ、まだ脱線ですよ。文章ってのは、脱線してなんぼです。その脱線の逃走線の中に、乾坤一擲の賭けを見出す。まさに爆発の瞬間を今か今かと僕は待っている。

そう、まだ本論は先です。飛ばしちゃダメですよ、この世界に無駄なものは一つもない、とは京極夏彦の生み出した探偵 中禅寺秋彦のセリフです。逆に言えば、この世界に必要なものなど何一つ無い、とも言えます。論理学ですね。量子力学のホログラフィック理論では、我々は二次元世界の情報の投影でしかないわけですから、我々の存在自体が余剰みたいなもんです。脱線こそが、本線。

B. 2019年、ある日のiPhoneのプレイリストとキューティー・ハニーについて

ところで今日、車で音楽聞いててびっくりしたことあったんですよね。僕の車は、乗ってエンジンかけると勝手にブルートゥースでiPhoneに繋がって、それまで聞いてた曲が自動でかかるようになってて、そのせいでたまに人を乗せたとき、いきなりSlip Knotの”Spit it out”とか爆音でかかって、同乗者に引かれるような経験を多々しているわけですが、今日はまあ普通になんかの曲がかかって、あんまりゴキゲンな感じじゃなかったので、日本のポップスのプレイリストをシャッフルでかけました。そしたら来たのが倖田來未のキューティーハニー。ナイス、超ゴキゲン。ハニーフラッシュ

でね、一回聞き終わったんですが、あまりに「だってなんだか、だってだってなんだもん」と、ベースのリズムがぐいぐいとかっこいいので、もう一回聞きたくなったわけです。で、ハンドルについてる「一曲戻る」のボタンを押しますわな。最近の車は、iPhoneの制御がハンドルでできるんですよね。すごい。子どものときに夢見た未来感。

で、そう、押しましたよ。そしたら、二回おしてしまったわけです。最近40超えて厄年も終え、すっかり中年になってみると、だんだんと体の制御が下手になってきました。すると、こういうミスをよくやらかすわけです。「一曲戻る」のつもりが、二曲戻っちゃった。ありゃと。でも、この「キューティーハニー」が今日のシャッフルの一曲目だから、まあ二回押しても冒頭に戻るだけだろうって思ったんです。だって、そこが「開始」を押した時点だから。今日のスタートは、そこだから。宇宙開闢の瞬間、ビッグバンみたいなもんです。それより前には空間も時間も、「情報」さえない空虚の地点。そう思って、「まあいいか、中年だもの」と自分を慰めたと。

ところがね、かかったのはミスチルのイノセントワールドでした。プレイリストが無いはずの場所でかかる「無垢の世界」というのも、なんともおしゃれなアイロニーですが、それはそれとして、びっっっっくりした。果てしなく続くイノセントなびっくりです。だってそりゃそうですよ、「二回戻る」っていっても、一曲目は「キューティー・ハニー」のはずで、あのバリッバリブリブリにかっこいいベース音が入ってくると予期していたところに、べらべらにエモくて綺羅びやかなキーボードとギターのイントロが来るわけですから、ほとんど正反対っすよ。「なんでそんなにびっくりしてるんだ」と若いあなたは思うかもしれない。でもこの僕の驚きって、こういうことなんですよ。

僕がプレイリストの「一曲目」と指定した曲よりも「前」にも、プレイリストは曲の流れが作られていたということです。「開始」よりも前に戻ることができる。その強烈な「ルール破り」の感触、思わず興奮しちゃったんです。本線から、間違った道に入った感覚。ワクワクする迷走の予感。獣道への間違って入ったリスクに快楽が共鳴するあの危険な高揚。

いや、勿論、それは単なるプログラム上の処理なのかもしれない。「何をプレイリストのプログラム処理でそんな大げさな」と思われるかもしれないんですが、僕にしたら、一曲目の前、ゼロ曲目、マイナス一曲目、マイナス二曲目とたどっていっても、何食わぬ顔で生成されている「過去のプレイリスト」に畏怖に近い衝撃を受けたわけです。もし僕が今日、この瞬間、間違って「一曲戻る」を二回押さなかったら、それら「過去のプレイリスト」はこの世界に顕れることなく、量子力学の命じるところ、観測さえされぬままに存在しなかったことになったはずなんです。これってなんかすごくないですか。いわば僕は、何気ない行為によって「過去を生成した」ようなものです。

と、ここまえゾクゾクして興奮したところで気づいたんです。これって「シャッフル」を押した瞬間に、そのiPhoneにある曲の最後までその日のシャッフルリストが作られて、単にその最後の曲が逆方向のループで鳴っただけだって。僕のiPhoneには万単位の曲が入ってるせいで、今まで「シャッフル」の最後まで行ったことが一度も無いんですが、多分そうなんですよね。

でもまあ、事態は全然変わらない。人間が認知できる量の限界を超えた未来は、もはやもう「過去」と区別がつかないほど遠いもののはずです。もし僕のiPhoneに6754垓3451京7092兆1352億4328万曲入ってたとしたら、その「シャッフル」が作る最後の一曲が鳴る時、宇宙は多分終わっていると思うんです(そう言えば最近、一度スタートしたら2738年先まで止まらない時計が発売されましたね:参照 https://www.gizmodo.jp/2019/08/2738years-clock.html

その瞬間は、次の「過去」の始まりでもある。ビッグバンが来るためには、未来におけるビッグクランチが必要だと宇宙物理学者は言う。僕らは何度も何度も、自分の「未来」を生きてきたはずなんです。昨日の絶望も、今日の安寧も、明日の希望も、全てを何度も。今日僕は、多分未来のどこかで繋がっている過去の一端を、iPhoneの「シャッフル」の中に見出したんですね。倖田來未のハニーフラッシュとミスチルのイノセントワールドのおかげです。

トリストラム・シャンディは「生まれる前」のことから語りだすことによって、小説というものが「開始する前にすでに終わっている」という奇怪な物語を展開しました。僕のiPhoneは、「今日の一曲目」の前に、連綿と無限に続く、再生さえされずに消え去る「未来における過去」を準備していることが判明しました。

そうだった、今日の話題は花火でしたね。台風のせいで、随分遠い迂回を余儀なくされました。

花火が爆発する瞬間、それはまるで新たな生命の誕生のようで、その爆発は一瞬の煌きを残して再び暗闇の中へと消えていきます。その様は、この大宇宙の長い長い歴史の中で、人間の人生なんて一瞬の小さな輝きであることの隠喩に思えるほどの、儚い瞬間です。でも、その輝きの瞬間、この世界に来る前、僕らはその花火へと至る世界線を何度も何度も間違えながら歩いてきている。父や母、祖父母、曽祖父母、遠いところで人類の発祥を決定づけたミトコンドリア・イブにまで遡るであろう、長くて細い世界線を、傷つき、損なわれ、血を流しながら。敢えて語られることさえ無い運命を歩んで、今、ここに、僕らはいるわけです。

僕らはあの輝きの瞬間、みんなで夜空を見上げる。それはなんなのか。僕にとって「その前」に存在していた過去は、この一瞬の花火の煌きへと僕をつなぐ、ほのかな篝火として機能したはずなんです。それはなにか。

この2019年の未来へとつながる一瞬を僕は確かに覚えている。

=*=

C. 1984年、ロードランナーの夏、ある爆発の輝きの記憶

文学畑に棲む人間にとっては象徴的な年だ。村上春樹が1Q84と綴った世界と、1984という世界、おそらく我々の生きているいまの世界は、あの象徴的な年に世界線を「こちら」へと切った。スマホとSNSが世界を支配し、リアルが溶解して、奇っ怪な炎が遼遠の火となって魔女を焼き尽くすこの世界へと。Appleは「この1984は、あの『1984』とは違う」と、誇らしくMacintoshのCMを流したのも1984。全ての物事は、この年に起こる。

あの頃、父と母はあまり仲が良くなくて、年がら年中喧嘩をしていた。いや、喧嘩と呼ぶことさえ憚られる一方的な大攻勢。父は常に気弱で無口、母は常に饒舌で居丈高だった。父が何かを母に言い返したところを見たことがない。常に喧嘩は一方的に母の勝ちだった。そんな1984年。僕はまだ8歳。弟は5歳。

夏休みの直前、学校から通達が来たのだった。その年、僕の住む街で大きな花火大会が開かれるという。それまでせいぜい手持ちの花火しか見たことがなかったので、「大きな花火大会」といっても、想像力が働かない。「ああ、そうなんだ」程度の印象だったはずだ。開かれる日が楽しみだったという記憶さえ残っていない。それより僕が気になっていたのは、夏休みに入るか入らない頃に発売されたファミコンゲーム「ロードランナー」のことで、クラスメートの何人かが買う予定だったのを目ざとく情報収集して、夏休みが始まったらそいつらの家を巡回する計画を立てるのに必死だった。花火?え、なに、それ食えんの?それよりエイリアンを砂に埋めなければならない。大事なことだからもう一度言う。「エイリアンを、砂に、埋めろ。」世界を守る戦いを前にした戦士の高揚、それが1984年の僕の夏を包む基本的なオーラだった。

その日、8月8日も、多分僕はロードランナーをしていたはずだ。その年の夏、とにかく僕は砂を掘っては逃げ出してくるエイリアンに追いかけられ続けた夏を送っていた。そのロードランナー熱は、数年後発売された「チャンピオンシップロードランナー」という、鬼畜じみた難しさで帰ってきた続編のロードランナーまで続き、当時、そのクリアのための布石を書いたノートを発売元に送ればもらえる「ロードランナーマスターの証」が欲しくてほしくてたまらなくて、僕はひと夏の全てをかけてその「証」をゲットしたというスピンアウトエピソードもあるのだけど、それはまたいつか話そう。それもまた、僕の人生に必要な、重要な「脱線」なのだから。

そう、8月8日。まだ僕はチャンピオンシップロードランナーの悪夢を知らない。まだ余裕のあるあのノーマルロードランナーの夢の世界を、緻密に歩いていたはずだ。最低でも6250体ほどのエイリアンを砂の中に埋めたはずだ。さらば、異星人よ。静かに眠れ。

1984年8月8日。

友達の家から帰ったら、珍しく親父がステテコではない普通の服に着替えていた。母親もちょっと夏っぽい「おでかけ」の服を来ていた。こんな時間からどこに?と思った瞬間、夏休み前の教師の話を思い出した。そうだ、今日は花火だった。その頃弟は5歳で、すでに8歳の僕より身長が大きく、今なら「壁の巨人」とでも揶揄されそうな程に巨大だった。従って、家の中で一番のチビは僕で、「家族でおでかけ」は嫌な行事の一つだったのだけど、「花火見に行くよ」の一言で、少し心が揺れた。

風が吹いた。夏の生ぬるい、少し生臭い風。予兆を伝えるのにはそれで十分だ。

弟・母・僕・父

その並びで、県道横の歩道を湖に向かって歩いていた。母の手はじんわりと暖かく、父の手はあぶらっぽくヌルっとしていた。不快感と妙な恥の感覚、それから、認めたくはないが僅かな安心。3年生にもなって両親に挟まれて手を繋いでいることに少し苛立ちもあったが、仕方がなかった。街が開催するはじめての巨大な花火大会、沿道は人でごった返していた。迷子になっても家に帰れる歳だったが、この人混みではぐれるのは少し遠慮願いたいところだ。不承不承ながら、両親の判断に従って僕は両手を繋がれたまま歩道を歩く。周りは人混み。沿道両方は、雑居ビルがたくさん並んでいる。何も見えない。空には星も見えない。のどが渇いた。遅々として湖には到着しない。なんだかどうでも良い気分になってきた。

空を見上げる、何か細い光が、夏の夜の明るい黒をざりざりとゆっくりと切り裂いていった。

その瞬間に見た光景のことを、僕は生涯忘れないだろう。

ビルとビルの間、大人と大人の頭で遮られた視界の上、一筋の長い火線が登っていく。一瞬頭に浮かんだクエスチョンマークは、0.3秒後の強烈な閃光で上書きされ、永遠に消えた。

空全体を覆う巨大な花火が網膜に焼き付く。もっともっと深い場所へも同時に。

一瞬後に空は夜に戻る。でも目と心の両方に焼き付いた花火の光が、その「黒」の上に白い爆発を再現する。何度も何度も、一本の線と、そして爆発する炎の光が僕の中で反芻する。無限後退の様に、奥へ、奥へと。

父の手はさっきよりさらにぬるっとしていて、母の手もまた、汗ばんでぬるっとしていた。おそらく母の横で弟も。お世辞にも仲が良いと言えない1984年の家族が、その日、手を繋いで夜空を見上げていた。おそらくあの日以降、二度と無かったつながり。もう二度と繋がることの無いシルエットを誰かが見ていた。それは多分、未来の僕だ。「もう無い」、その感触を僕は確かにあの時感じていた。未来へと燈火を紡ぐように、僕はその記憶を魂の奥底に刻み込む。未来の僕の目に投げかける光として、いや、闇として。

その一瞬のことを僕はその後、何度も何度も思い出すことになる。その一瞬の内側にあった過去の一つ一つが、あの夜空の爆発につながる。その火線が、量子のもつれを飛び越えて、2019年の今これを書いている僕の未来へとつながる刻印を時間の中に焼き付ける。弾ける一瞬の花火の中に、僕が生きてその世界線を選んだ理由と、写真を撮る意味、そして常にその「場所」を花火とともに収めたいという「いま」へとつながるのだ。それが多分、僕が花火を撮ることの極めて個人的な「物語」なんだろう。だからこんなに高揚するのだ。

毎年毎年、性懲りもなく。


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