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心の悩みと宗教

心療内科へ行くことは僕にとっては無駄な時間である

今日も行ってきました、心療内科へ。

この先生に何をどう言っても意味がないだろうなあと内心感じながらも
「このままいなくなりたい気持ちが強い」
「早く仕事を辞めたい」

なんてことを伝えました。しかし、結局はお薬がちょっと増えただけでした。そんなもんです。これが心療内科です。

ここでも書いたとおり、お薬を渡すのが心療内科医のお仕事です。明確な原因があって、その症状に対して軽減したいということであれば心療内科がベストですが、僕みたいにアホみたいな人生の悩みにアプローチをかけるためには心療内科ではなんにもなりません。

心療内科はあくまで症状を緩和して、自分で問題を立ち向かわせるためだけに存在する医者です。

(少なくとも僕の)心療内科医は僕の悩みを聞いてくれるわけじゃなくて、頭が半分イカれた自分に対して症状を聞いて、数式にxを当てはめるかのように薬を処方するのがお仕事です。

他の心療内科医へ行ったときも結局は同じような対処療法的な流れのお仕事で回されてしまったので、僕は心療内科医の仕事とはこういうものなのだということを肌で感じています。

やっぱり心療内科医は薬を出すことが仕事なんだと。

悪口でもなんでもなくて、それが心療内科の役割でしょうし、そこから体調を持ち直せば自己解決するかもしれません。

しかし、ナイフで刺されている傷口を必死に包帯で巻くことが心療内科ならば、永遠に僕は刺され続けることに耐え忍ばねばならないのかと感じます。

確かに薬を飲めば吐き気は収まった。眠りも浅いけどとれている。しかし僕は今もなお刺され続けて、とにかく痛い。


宗教がある理由がなんとなくわかる

刺されるたびに僕は「誰か助けてくれ」と情けなくも叫びます。優しい友達は話は聞いてくれるけれど、なにか決断を下すようなことはもちろん言いませんし言えません。そう、これは僕の人生だからです。

だから宗教みたいなものがあるんだろうな、と改めて思いました。「改めて」というのは中学生の時「生きている理由がわからない」と親に言ったとき、「じゃあ宗教でも入れば!?」と吐き捨てられたことがあったからです。

宗教は何らかの方向性や、人生の指針を与えてくれます。

正しいかどうかなんて客観性なんぞどうでもよくて、ただただその人に「神のために捧げればあなたは必ず救われる」と示してくれます。第三者に捧げるという行為は多分にですけど自分以外の誰かを支えるという意味で”責任”なるものが発生し、人を縛ることになります。

人は縛られればそのなかで努力し生きようとする。

人を共通の理念で動かすためには、神のような存在が必要なんでしょうね。だからこそ、神は生まれたのかもしれません。今だって中東で自爆テロなんかを敢行している人たちは神を本当に信じて、死んだら天国へ行けるなんて思っているわけで。

彼らはそうしないと生きていけないほど追い込まれていたり、そう教育されているのだと感じざるを得ないです。

本来、宗教が生まれたのは別の側面があって自然科学の分野において未熟だった時代において、何らかの意味付けをするために神は必要だったと言われています。

例えば日照りになったり、突然雷がおちたとき、科学技術が発達している時代であればなんぼでも理由付けはできますが、かつてはそうもいかなかった。人々が怯えて混乱することを抑えるためには為政者たちは「神がお怒りになっているのだ!」なんて意味づけすることで人は納得したと言われています。

神そのものは(残念ながら?)この世には存在しないとは思うのですが、今なお宗教が生き続けているのはそうしなければ「生きていけない」人たちがこの世にいるからなんだろうと思わずにいられません。



でも、別に宗教に入りたいわけじゃない

確かになにかにすがりたいのはあるのかもしれないです。ただ、それが宗教なのかと言われるとそれは若干違うような気がします。

ここは確たるめいた何かを示すことができずに恐縮なのですが、僕は死ぬ勇気なんてありませんし、「フッ」とこの世から存在が消えない限り死を選択することは難しいかなと思ってます。

それらの理由としては、生きる目的がない僕が、生きるために努力を強要されるこの世の中が辛いというところにあります。なにかにすがりたいというところはあるものの、「今縛られているものが自分にとって意味があるのだろうか」という疑問が一番のうつっぽい症状の根幹かなぁなんて思ってます。

生きる目的を(色んな意味で)与えてくれる宗教は確かに僕の悩みにはマッチングするような気はします。しかしそれよりも直近の仕事の悩みについては宗教は助けになりそうにないです。

だからよくわからん宗教に身を委ねるつもりはあんまりないんですよね。もちろん、そういった意味さえも宗教が僕に与えてくれるならば信奉する意味はあるのかしら…まーでも、なんか違うような気もする。

ちょっと何言ってるのかわからない人、申し訳ないっす。僕も頭がうまく整理できてないですね。


来月から2ヶ月目の勤務

月曜日からまた憂鬱の仕事が始まります。新たに僕をプロジェクトに投入するとの上司からの話がありました。憂鬱です。いつでもうつ病診断の紙は出せるようにと、まるで離婚届を忍ばす夫のような気持ちで毎日を過ごしていますが、それがいつまで耐えられるのやら。

というか、耐える理由ってあるのか?毎日自問自答です。

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