見出し画像

シン・エヴァンゲリオン劇場版 を観て。


歴史とか哲学とか民主主義とかの観点で見てしまうんだけど、人類の運命って、いつも絶望に知や新たなもので悲しみや苦しみから救われようとして、それに振り回されて破滅していくのね。
宗教も知識として扱いだして権威と化して数えきれない苦しみを生み、人権もこれで人が人を支配し殺し合う世界から逃れられると皆が手にした後は民族や思想単位で殺しあう世界に変えたし、その人権が保障する知の探求は人の心の豊かさではなくそっくりそのまま爆弾の性能の豊かさになってしまったし。
すがりついたそれで、どうしても世界を変えたくなってしまうんだね。

その道はいけないといつもその時代毎に訴える人はいるんだけど、世界と人の殴り方を広める人を皆信じるんだよね。本当の意味で怖くて。そして権力争いも絡み、大切な声はかき消されていく。
キリストの教えも人のありのままの創造性や性を肯定した人は迫害され、エラスムスの訴えを知る人はほとんどいなくなり、細い糸でつないだその理念を人権に載せようとしたメアリも冒涜され、もう一度人としての愛と徳目を示そうとした人々は男並みを求めただけと決めつけられ、今や見てわかる通り人を肯定するはずだったものは皆、人を殴るものになってるんだよね。
ずっとその繰り返し。


エヴァでいうなら、知の探求の中で救いであり安らぎだったユイを見失い、ゲンドウはそれに耐えられなかった。そして知の道に救われようと進んでいってしまった。それは止めようがない。苦しみそのものだから。
大きな破綻を生む知への救いの求めという人類の特徴が重大なモチーフとしてまず置かれてる。

エヴァはこの映画まで救いのない迷い道なんだな。小さなともしびはあっても、喪失の苦しみまでは溶かせない。
ずっとその中で実は愛があったことも、自分という視野では見えない無数の他者の苦しみあったことも描かれてた。それでも救われない。
ただ、その混迷を解きほぐそうと決意したシンジを本当は信じていて守ろうとしてかばったミサトに、観る人は良かったという思いとともに何かに気づく。
知の壁の前の絶望と人類の物語のリミットを前にしながらシンジは一人ずつ問いかけ、問いかけきった後一人にならざるを得ないシンジを迎えに来たのは、並行して同じ戦いをしながらシンジを見据えてた彼女だったんだよね。
だから物理的にも運命的にもアクロバティックな救出劇だった。彼女にしかできない。すさまじく劇的なとしか言えないような。
負の宇宙まで行って人間のあの運命にケリを付けたシンジを連れ帰ったんだよ?

もしシンジのその様子をうかがい知れたら、綾波もアスカもシンジを迎えに行きたかったろうな。でも時間は経ちすぎてたし、綾波はなんと言ったらいいんだ、ユイの愛でもあったからというか、そこはなんと言っていいか分からないけど。
恋というか男女って、偶然その時に居合わせる運命みたいなものがあるからね。悲しいけど、好きだったって言えたんだな。

だからエヴァは人類の、苦しみから救われようと知に救いを求め苦しむ、その流れを繰り返す運命を乗り越えた物語だったんだよ。
その鍵は何かを「エヴァ」として観せた。
観せた示したなんて片付けてはいけないような作品、物語、アニメとして。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?