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青識亜論氏及び氏のキャンセルカルチャーに関する記事の重大な問題点について

疑似科学である。


青識亜論氏とはこちらの(論客、フェミニスト等を自称する地方公務員の男性)方で、

青識亜論(せいしき・あろん)注射器注射器 @BlauerSeelowe

当該記事とはこちらの記事の事である。

私高橋尚吾は彼自身に関し思うところは何も無いが、以前より彼の主張に看過し得ないものがあると思っていた。彼の記事はまたたく間に賛同者が続出したが内容にまたしても重大な問題が見受けられた。
今回の記事はその問題の一連についてお伝えするものである。

結論を先にお伝えすると、まず記事に対する安易な賛同は控えた方がいい。そもそもいかなる主張も個々で精査するのが肝心である。

人権である言論出版の自由とは権力や社会批判を行う人としての筋道を意味するものであり、同時にそれは、学問の自由と教育の義務により磨かれた個々人の判断力に基づく吟味の作業と表裏一体のものである。

当該記事中の部分部分にうなづけるものがあると感じた方は多いと思う。ただ、それぞれの項目に重大な問題点がある。
 ・根本的な理念の部分に問題があるため説得術の意味合いとしての論法となっている
 ・「署名という民主主義」という捉え方や王道と断じている
 ・日本は人権を基礎とする民主主義でありながら「オタク」という曖昧模糊としたカテゴライズを主語としている
 ・反感を向ける手法の逆をやればいい「それがたったひとつの冴えたやり方」だなどと限定している  等々、数多である。

これら一連の問題点に理解がないままでいると何が生じるのか。
それは不完全かつ矮小化された「民主主義」「人権」の解釈によって右往左往し、信じた人が意志による行動すなわち勇気を損ねかねず、本来の民主主義と人権の持つ力を発揮することが出来なくなるという取り返しの付かない失敗、その可能性を引き起こすものである。

また別記事にて今回の事例に対し取るべき具体的対策にまとめている。
人権を用いた手法なのだが、「人権」が誤解されがちな現状を鑑みると誤った解釈の可能性が拭いきれず判断を要するため公表予定とさせていただきたい。方法の公表は注意深く行うべきと考える。
ただ、今回当該記事で「たったひとつの」と銘打たれていたのは「方法は限られている」という重大な誤解を引き起こしかねないものである。
この断定が急激に受け入れられていく様子を踏まえ、急遽問題点の指摘を決意した。

以下、出来る限り端的にそれぞれの問題点を指摘する。

署名運動=民主主義ではない

民主主義社会における署名には様々な場面と様々な意味が存在する。
今回は社会運動における署名が範囲となる。それは行政や議会や世論に対し、市民の意思の存在を証明するためのものと言える。

当該記事で語られている署名は、民主主義社会における「署名が組み込まれた制度における手続き」を指したものではないという点が重要な部分となる。
なぜ重要なのか。その理由は ”フェミニズム”や”オタク”といったカテゴライズで行われる対立その正当性を争う手段として”署名”が用いられているためである。
おそらく青識氏の個人的な先入観から、あえてもしくは無意識に行っていると思われるのだが、結果として民主主義社会で行われる署名の元来の意義を矮小化してしまっている。
最後の「たった一つの冴えたやり方」の項まで彼の解釈の範疇に留まった解決策とやらの提示になっており、ここには彼自身の基本的な考え方の問題点が垣間見える。(考え方の問題点については後述する)
民主主義社会における署名運動について確認すべきである。

そもそも日本は民主主義社会であるのに「民主主義をやる」と銘打つ理由がわからないのだが、とにかく署名を行う主体とは市民である。
一応「市民」に無用な印象があると思うので一言付け加えると、国家を構成する国民かつ権力に対し保たれるべき尊厳を有する個人を指すものと捉えていただきたい。つまり私達の事である。
フェミニストやオタクだのといった名称やカテゴライズなどより以前に、市民という前提は我々が平等である事を示すものなのである。

ご存知の方も多いと思うが、彼は松戸市のVtuberに関する署名の発起人である。彼は署名を募るページに、そして署名立ち上げ直後にこのようなコメントを残している。

※モザイクは今回の指摘と関係のない方の部分。
※現在「オタク議員集団」の文字は消されている。

行政つまり政治に対する署名や人権の回復を求める署名というものは、私達が尊重されるべき個人であり平等の存在である事を念頭に置かなければならない。
この要素を無視し勝手な解釈で行う場合、それは人権に対する冒涜である。民主主義社会における議員とは人権である参政権の行使を経て選ばれた市民の代表者である。フェミニストやオタクなどといったカテゴライズの中にある存在ではない。
 Vtuberの件とは、Vtuberという表現活動が認められた市民が、警察と協力し交通安全運動キャンペーンつまり社会的活動を行っていたのだが、それに対し特定の思想を掲げ連帯する議員集団が「女児を性的な対象として描いており」「偏見を助長」「性的対象物として描写」「性犯罪誘発」などの言葉を並べ「強く抗議し、当局の謝罪、ならびに動画の使用中止、削除を求めます」と排除を求め、それが達成してしまったという人権侵害問題の事である。
いかに人権侵害にあたるのかについては次の記事をご覧いただきたい。

私達はいかなるカテゴライズをされていても、お互いが理不尽な理屈で尊厳を否定されるような場合には助け合うべきである。
思想や信条が異なる場合でも、その信念を保持できる社会や一方的な価値観の押し付けで人間の持つ可能性を否定しない社会を維持するために、人権というキーワードとその概念で考えるべき時があるのだ。
民主主義社会における教育の意義とは、この概念を理解適切に用いる力を身につけるためというのが大きな要素の一つである。

つまり「人権」「民主主義」のねじ曲げ矮小化を彼はしているのである。

一応釘を刺しておくが、彼の言葉や署名に賛同した人が彼と同じ考えというわけではない。取る手段が限られている中、少しでもアクションをと考える人が大半と見るのが適切であろう。記事を短くするため詳細は省くが、それはほぼ間違い無いと言える。(ここに反論がある方は反論の根拠を文章記事にて公開していただければお応えする)

民主主義社会の市民の意思を示す署名とは、文字通り名を明らかに記す行為である。署名文の扱いは発起した側も受ける側も極めて慎重にしなければならない。

 例えば、関西のある市で起きた事例なのだが、保育園の人員削減への反対署名が市に提出された後に、署名にある人物宛に「署名活動を行った団体への批判を含む内容の文章」が市から送付されるという事があった。
これは市が取った反応としてはまずいものがある。行政の力で個々人に対し意見の反論を行うとのは公平公正さに欠ける。反論は万人が見える形で行うべきだった。そして「署名をすれば目をつけられる」という不安も与えてしまう。署名行為も人権に含まれるものだが、その萎縮を引き起こしかねない行為は問題と言わざるを得ないのである。
 これは行政の対応の問題とまとめられるのだが、これは巨大企業や巨大組織に対する署名においても同じような問題が起きている。
民主主義社会における「署名」という行為は危険なもの、避けるべきものであると経験的に社会に染み付いてしまうような事態には注意すべきなのだ。意思表示あるいは制度にある署名行為とは、こうした意味で慎重に扱う必要がある。

民主主義と人権の理念を守りながら行われるべきものが署名運動である。
署名運動が「民主主義をやる」と同義なのではない。

何も分かってない。

個々人の意思の存在の想定ではなくフェミニストやオタクなどのカテゴライズや対立の構図として扱うのは間違っている。個人の尊厳や平等性や意思の存在矮小化させてしまうからである。

彼の言葉に市民の人権侵害に対する指摘があるように見えるだろうか。民主主義と謳いながら署名や賛同にレッテルを貼るとはいかなる理屈に基づくものなのか。
署名は  彼の 表現物ではない。

彼の署名の捉え方に関する指摘すべき部分の重要な要素については以上である。
以上を踏まえながら考えていただきたい問題点を以下列挙する。

 その他の指摘

①何らかの被害の救済を目的とする場合、当人の賛同の意思が必要ということはない
 意思表示の困難な障害者や外国人等が冤罪被害を受けた場合などを考えればわかる。被害の大きさからもう事を荒立てたくないと被害者が押し黙る場合もあり得る。その押し黙ったのをいい事に加害側が好き勝手し出した場合、市民は署名を用いられないとでも言うのだろうか。
このような位置に当事者を据える理屈を唱えるのは、自説を補強するための論点先取(循環論法の一種)の疑いがある。
 当事者と定める方がかのような対応をしていなかったなら、おそらくこうは言っていなかったであろう。
署名を始めた後で最も重要なのはこれ(当事者の賛同/積極的発言)だと言うのは時系列的におかしな話だからだ。

②キーパーソンの存在を必要とする意味がわからない
 一言で言えばこれは署名運動の軽視である。キーパーソン(当該記事の意味合いで捉えていただきたい)がいない署名を軽視し、キーパーソンと定めた人物をオタクだのフェミニストだのといったカテゴライズで人々に捉えさせる恐れがある。
 民主主義社会において議員が協力するのならそれは人権理念に基づいて協力するのだ。これは利益誘導を行うような議員を市民は選んでいないという性善説的な指摘ではある。しかしそれでもこう捉えるのは民主主義社会において払うべき敬意だからだ。特定の思想や信条ではなく「公平公正な公のための行動」と捉えるべきなのである。

二重三重に(あともう一点あるが余計な知識を伝えたくないので伏せる)ふざけたものがある。

 ③”「政治」で殴られたから戦いは「政治」で行うことになる”は誤り

“「政治」で殴られたのだから、これとの戦いもまた、「政治」で行うことになる。”

当該記事より

 大紋だの使う言葉を選ぶことも出来ないのかと思うがそれはともかくとして、この点は政治つまり議会議員による活動による被害(に限らずだが)の場合にも制度的な手法が存在するという事である。前述の、署名が含まれている制度や議員や議会を通さず行った署名運動などの事と考えていただきたい。
つまり限定するのは間違っている
しかも王道だなどと。
また、署名に目的があるのは言うまでもない話である。
それでも限定するというのなら、上記の指摘をクリアにしてからにしていただきたいものだ。確認がなされていない個人的な理解に夢中になりすぎているのは明らかである。


民主主義や人権という言葉は随分好き勝手に使われてきてしまった。この日本においては。
それを逆手に取るような理屈の羅列である。


「相互確証破壊」と「キャンセルカルチャー返し」に関する彼の視野狭窄について

この項目は指摘というよりは私の提言的な要素が少し大きくなる。

破壊すべきは相手側の支離滅裂な論法ではないのか

もはや問題を引き起こす側に共通して見られるのは「創作物が性犯罪の助長している」「あれは排除すべきものである」などの物語である。
そういった物語に、現実との区別が付かなくなるほど没頭してしまった方々が引き起こしているのがこの問題(表現や表現者への攻撃事例)なのだ。

支離滅裂な論法の背景となっている物語を理不尽な非難者と同じくらいに批判して差し上げればよろしいのではないか。差し支えない段階と私は考える。
現実の法則や時系列を無視した理不尽な理屈の出どころとなっている、かの方々の好んでいらっしゃる物語について現実を示して差し上げるべきであろう。

 相互確証破壊は「例え」

提言が始まったばかりだが当該記事の内容を一点指摘しておきたい。

「理不尽な理屈で創作物の排除を求める人は、その人の好む分野の作品が排除されたら(自分が何をしているか)分かるだろう」というのは至極当然の発想である。
これは相手方の理解を促すという、あくまで批判対象を理解可能な人物と想定した上での説得的な 例え である。
これが当該記事中で例えと認識されず批判されている。

現に、問題を遺憾に思う方々が「BLなどを規制せよ」と提唱する動きを見せただろうか。
実際にそれをやっているのは東京都青少年健全育成審議会や女性BL作家を逮捕し懲役10年の実刑判決を下した国、表現を厳罰化した国、「萌え絵」の排除を言い募る人々などだ。
もう一度言うが「キャンセルカルチャー返し」のBL云々は 例え である。
例えと現実の違いがわからないのだろうか


 抵抗すべき『物語』の具体例

もし物語中の物理法則に反する部分を真実と信じ込んだり、物語の中の善悪を他人に当てはめ罰しようとしたりすれば、それはまともな状態ではないと思われるのが普通である。そして「現実と物語の区別が付いてたらそうはならない」とも大半の方は思うだろう。
しかし、悲惨な迫害の手引きとなった『物語』は残念な事に実在するのである。
その物語とは擬似科学の事である。

その実例として「魔女狩り」の手引書で有名な魔女に与える鉄槌という本とそのエピソードを簡単に紹介したい。これは排除すべき異端や妖術や魔女の行うことや見分け方などが記された本である。

注目すべき三つの要素
・排除すべき悪の定義(妖術や悪魔や魔女等)
・それらと人が関連して発生する事
(悪天候、不作、疫病、不和、不妊、産褥熱等)
・魔女の証明は悪評、状況証拠、目撃者などが必要で裁判を経て認定される

この三つは当時あったいくつかの学問分野から抜き出したものの組み合わせで作り上げられたのが現れている部分である。

悪魔学から排除すべき悪と引き起こされる不作や疫病等
魔法学からそれらを引き起こす手法(儀式の存在)
法学から裁判の必要な要件

これらの組み合わせで、無実の人を排除すべき悪と証明する方法を導き出したように見せかけている
本の著者は、異様な方法で異端審問を行い教会から追放された元異端審問官であった。

悲惨な迫害の被害については言をまたない。ただ、視点を変えるともう一つ別の被害が見えてくる。それはこの本により、ある種の迷惑を被ったそれぞれの学問の学者や裁判の従事者や教会関係者である。
本を根拠に繰り広げられる悲惨な迫害に対し、悪魔学、魔法学、法学、錬金術、教会関係者等々心ある人々の反論の様子もいくつか残されている。

しかし、悲惨な迫害は支配者の勢力争い権力争いと密接に結びついていた。
権威と恐怖により肯定された市民同士の監視支配体制の強化は、支配する側にとって都合がよいものだったのである。
権威に盲従する者に論理的な反論は通用しなくなっていった


この本のエピソードは、学問的あるいは権威的に認められた理論や関連する単語を組み合わせ作り上げられた擬似科学が、悲惨な事態を引き起こした事例と捉えることができる。

こうした展開に対しまず考えられる対策としては
単語の定義を確認する
レッテルを貼られた人を皆で擁護する
「理論があるから」と安易に断定しない
などが挙げられる。しかし、擬似科学を振りかざすものが学者であったり権力者であった場合、途端に打開が難しくなる。これが一番恐ろしいところである。

こうした展開の反省は、実は人権にも大きく反映されている。
その文脈で人権を捉え直すのは非常に有効な手段と言える。

※魔女狩りの反省が反映されていると言われているもの
・罪刑法定主義(法律違反に対する刑罰は予め決めておくという理念)
・デュープロセス(正当な法手続きの遵守を重んじる理念)

権力と宗教的権威の結びつきの反省として
・政教分離

人権の、これらの概念をつなぐ文脈として
権力と個人の関係性、正当な裁判を受ける権利、事実を検証し公表する表現言論の自由、信教の自由、学問の自由 等々が挙げられる。


こうした重要な要素を徹底して避け、あくまで「フェミニスト」や「オタク」や「戦略」といった自身の構想で語り続けているのが青識氏である。

 提言:『疑似科学』への抵抗 (※2021/12/12追記)


つまり、「キャンセルカルチャー返しをするな」という理屈が間違っている理由というのはこれである。
反撃すべきは表現の排除の根拠とされている疑似科学なのである。

これが今社会の中で力を持ってしまっているという状況なのだ。
他者の心中など簡単にわかるわけがないし、理論も精査しなければ正確なものかわかるわけがない。これは人権の重要な要素である。
しかし、疑似科学は検証の余地を許そうとしない。
 疑問を持てば即魔女、いや、現在の日本においては反フェミニストミソジニー表現の自由戦士性的搾取性的加害の容認者等々の断定が即座に行われる。そして弁明を聞く耳は一切持たず、ひたすら断定を根拠に異常者扱いしていく。
そして、社会活動からの排除を行っていく。今現に行われているものである。
当時の抵抗すべき『物語』が、形を変えてまた現れたと言えるだろう。
その本質は誤った三段論法(論点先取などの論理の基本構造)なのだが、それは検証のない理屈だけの断定を信じ込むものと言えばわかりやすいだろうか。

 『丸いものは転がる、あの人の性格は丸い、だからあの人は転がる』

こういった理屈と考えていただければ結構である。
論理の話も長くなってしまうのでこの辺りで留めるが、人を表現を排除せんと試みる人々の、信じ込んでいる物語が何か
はっきりと非論理的であり疑似科学だと示すのは急務と言える。

その疑似科学とは何を指すのかについては、
後半の青識氏の根本的な誤謬という項目内の『フェミニズムという言葉』という小項目にて述べていく。

(この小項目は記事内容を短くする過程で誤って削ってしまった部分である。追記となってしまった事を深くお詫び申し上げたい)

人権侵害を認識しない青識氏

また「魔女狩り」の話自体が何かに似ていると思った方はおられるのではないだろうか。
用いられている論法は当時も今も変わらない

「この絵は性的搾取だ」
「性犯罪や偏見を助長している」
「◯◯を受け入れないのは女性差別を容認している」

これらの断定はどこで証明されているのだろうか。

「性的搾取」「性的消費」なども定義や根拠が不明な言葉である。
もしされていたとしても、それらの言葉でレッテル貼りし絵画や身体を用いた表現などを排除するのは人権侵害である。
なぜなら、表現は人権として認められる行為であり、表現をもって行う経済活動や社会的活動も同じく人権にあたるからである。
(よく「公共の福祉のための制限があると知れ」と非難する者がいるが、反論者個人の思惑が対象の表現を制限する理由となる「公共の福祉」の定義とはならない。論点先取である)

彼は「フェミ議員対オタク議員の戦い」や「政治で殴られたから戦いは政治で行う」などとのたまっている。
人権が侵害されている当事者がいるにも関わらず
署名の多い少ないでようやく証明される事ではないのだ。1筆であろうと7万筆であろうと何百万筆であろうと人権侵害は人権侵害である
つまり彼は人権侵害の重大さを、署名の数の評価と組み合わせる事で人権侵害の軽視を広めているのである。おそらく無意識であろう。

再三言うように、「オタク」「フェミニスト」「戦い」など称するのは、人権の理念自体を損ねる捉え方なのである。
オタクやフェミニストだから戦うのだろうか。オタクだの萌え絵だのとレッテルを貼られた人は何万筆募っても平等の人権が侵害されていると認めてはもらえないのだろうか。

皆に言いたい事

私としても皆に言いたいのだが、なぜ人権侵害と捉えないのか。
明らかに女性が標的の人権否定が行われている。

女性を描いた絵がそこにあったとして、作者も設置した人も認めた人も性犯罪を助長しているなどと根拠なく断定されていい訳が無い。それは「性的搾取だ」などと言い募っている側も同じだ。彼ら彼女らが性犯罪を助長しているなどと根拠なく断定されていたなら、同じ市民として人権侵害を指摘するのが当然の事である。それは人として平等を守るべきだからだ。

今人権侵害の被害者を擁護している方々は、こうした事が言い難い事も人権を経験的な感覚で理解している事も私は理解している。
「女性の権利が否定されている」と言いながら絵やモデル業の人や迎合しない人を社会的に排除しようとする人の人権を「守るべき」と言うと、途端に「なら私に従ってあれを社会から排除しろ」と言い出すのはもはや自明の事だ。人権の意味がひたすら歪められ歪められきっているのも理解している。
しかしそれでも人権侵害は指摘しなくてはならない。皆で立ち向かわなくてはならないのだ。

もししなかったなら、現実に人権侵害された人は人権侵害を認定されず、歪んだ「人権」を唱える者の「人権侵害」がより野放しにされ力を持ってしまうからだ。
現に議員連盟という権力者集団ある女性の社会的活動を排除するという人権侵害を行っているではないか。

これが今そう言わなければならない理由である。
いかに署名の発起人が事態を軽視しようと争いの頭数に数えようと、署名に参加した方々の意志は被害者を助けるためであるのは誰が見ても明らかである。
青識氏という知名度のある人物がわかりやすい構図の署名を立ち上げる。それが社会的に力のある抗議方法になると判断するのも全くおかしな事ではない。それを否定するものでは一切ない。

ただ、青識氏の言っている事は極めて深刻な結果をもたらし得る。
人をわかりやすい構図の中に何万人と引き込んだからだ。これは後から、いや現時点から始まっているが「オタク」や「反フェミニスト」という定義付けがなされてしまう。人権や民主主義を理解しているならこんな真似は絶対にできない。

皆には自身の人権が青識氏のカテゴライズや戦いの頭数として矮小化されないよう動くべきとお勧めする。
その鍵は安易な賛同を示さず任せず人権侵害を指摘するの三点だ。
賛同の表明は行動や信条の柔軟さを阻害し思想対立の踏み台にされやすい(揚げ足取りもされる)。最小限の労力で誰かがやってくれるだろうはほぼ必ず予想外の結末になる。人権侵害の指摘は適切であれば自動的に自身や他者の人権の擁護と同義になる。
私の名前や記事など素知らぬふりでいいので参考にしていただければと思うばかりである。

私は名も顔も出さず誰かの権威をかさに口だけ出すのは臆病と思っていた。それが取り返しのつかない事の原因と失望していた。
しかし最近、静かな所に、被害者を上手く助ける手段を探し続けている賢明な方々がいるとようやくわかった。

青識氏の根本的な誤謬

この話もそろそろいい加減にしたいので端的に述べていく。

彼の発想は自称フェミニストの一種と言える。
それも元来のフェミニズムを別の意味で使い出した人々が敷いた路線を、忠実に歩むものである。

 フェミニズムという言葉

フェミニズムという言葉は19世紀後半のフランスにおける女性参政権運動、つまり人権運動の団体の提唱した言葉であった。
ウーマンサフレージ(サフラジスト)、婦人参政権運動と意味合い的に同じものと捉えてよい(人権運動の標語としてのカテゴライズ)。

それが社会学の中で、提唱する理論や思想のカテゴライズの名称に流用された。
社会学は社会段階発展説や適者生存といった理論を土台に展開されたものである。社会や人の動きは法則的なものであるとし、他の学問分野における発見を社会学的に応用して社会改善の理論を導き出そうという発想であった。
その応用(組み合わせで理論をつくる)手段に用いられるのが三段論法社会学的な意味合いでの弁証法と呼ばれる手法である。

これが第一波第二波という区分けやアップデートという概念やジェンダー思想が生み出された背景となる。
人権運動を第一波と定め「男並の権利を求めた」「失敗」と評価し広め続けている。そして当時の運動の成果は「私たちフェミニストのおかげ」としながら「最新のフェミニズム理論はこう」という形で権威的な発信が続いている状態である。
ちなみに現代では社会段階発展説や適者生存(社会学の解釈による進化論)は否定されている。その理由を簡単に説明すると、異文化の見下しや自文化や自説が優位とする証明のない思い込みの原因となったからだ。
カール・ポパーの反証可能性(提唱した説は検証による反論の余地がなくてはならないという考え方)の批判など有名である。
この反証可能性の有無が疑似科学かどうかの判定になるという、カール・ポパーの提唱である。
なお、疑似科学の判別方法や考え方はいくつか存在する。
関心を持った方は「疑似科学」や「反証可能性」で検索してみてほしい。

一応だが社会学全体がおかしいというわけではない
この項は元来の人権運動とそこが発祥となったフェミニズムと、社会学発祥の「フェミニズム」の違い、また後者に対する指摘についてのざっくりした解説である。

 社会学発のフェミニズム理論に基づく青識氏

青識氏の展開している理屈は、社会学発祥のフェミニズム理論を土台とするものである。
おかしさに気づいたのは以前Twitterのスペースという音声会議での応答だった。
私が「女性参政権運動は平和と穏健を重んじるものが主体であった」という事実(社会学的フェミニズムでは否定的)を述べると、彼は「それは解釈」「高橋のフェミニズム観」「説得力がない」と言う断言を繰り返す。
更に「フェミニズムという言葉は日々変化しているのが事実」と彼が言うので、私が「それは標榜でしょう」と返答すると「標榜と言うのも高橋の解釈だ」と言うのである。
私が「人権の意味合いやその運動を指す事自体は変わらない」「日本では意味がねじ曲げられ広められている」と言うと、彼は「うん、はい、それは、はいすいません、ありがとうございました」と会話を切り上げた。

一応、私は当時の主要な運動団体と参加人数や賛同者数などを検証した上で平和と穏健について述べている。

https://shogotakahashi.hatenadiary.com/entry/2020/02/11/194936

人権運動を指していると言っているのに「意味が変化する」とはどういった理屈なのだろうか。
彼のこの理屈は社会学的なフェミニズム観が非常に色濃いものであり、かつ非常に大きな問題がある。
それはフェミニズムの定義は変更可能と定める事により、人権の意味まで都合のよい解釈を加える事が出来てしまうのだ。
「婦人参政権の婦人には『名誉男性』を含みません」というような理屈と言えばわかりやすいだろうか。

都合よく「参政権成立は私達フェミニストの人権運動の成果」と言い、次には「あいつは名誉男性」とレッテルを貼った人物の社会的活動や表現物の排除運動を行いつつ「私たちフェミニストの権利を認めよ」と言う。
それぞれの発言でフェミニストや人権の意味合いが変化しているのをご理解いただきたい。

「オタクVSフェミニスト」のような表現や捉え方の極めて重大な危険性とはこの事である。

青識氏はこの危険性を隠しつつ、(社会学的)フェミニズムを(社会学的)アップデートをしているようにしか私には見えない。

民主主義(署名運動)、人権(社会的活動の権利)、人権侵害(排除を人権侵害ではなく対立と定める)それぞれの矮小化、人間(オタクやフェミニスト)や文化(否定された文化を対立項の要素と定める)の安易なカテゴライズ等々。
私は人権に基づく民主主義社会の市民として、迫害と人権の歴史と照らし合わせた上で、これはおかしなものだと判断した。

それと、「エンカレッジ・カルチャー」とか意味不明だし、名付けは危険すぎる。キャンセルカルチャーはいわゆる吊し上げ行為であり、コールアウトカルチャーと並ぶ海外の批判対象となった「フェミニスト」の行為である。
(書いていて気づいたが私も対象になった覚えがある)

応援で旅行やグッズを買うのも良いし、純粋に話題がきっかけで行うのも良い。なんでそんなカテゴライズされなきゃならないの?
もし用いる人が多くなれば、今度は「エンカレッジ・カルチャー」という言葉の定義変更が行われるだけだ。まず「オタクがフェミニストの真似をして抵抗しようとしている」とし、好ましい結果が出れば「フェミニズムの影響を受けて生まれたエンカレッジ・カルチャー」とされていくだろう。
フェミニストを自称する青識氏の鋭さ溢れるアイデアの流し込み方である。

私にしてみればそんな危険な行為は、条件が整わなければ恐ろしくて実行できない。
応援したいと思った人の心を勝手に定義付けするなと言いたくなる。定義付けで明示しなければならないほど、観光や表現物や人に感じる魅力とは弱々しいものなのか。それが正直な感想である。
ただ言語的な差異を考えると英語圏で別の意味で用いられる可能性はあるかもしれない。

それにしても、彼はセンセーショナルな言い回しが得意だなと思う。
私はできないというか、名付けによる意味合いの矮小化を忌避する性格である。

えせ同和行為との類似や女性を標的にした差別思想の蔓延の指摘をしながらこの発信力なのは非常に情けない。

おわりに

何が端的なのか。

気付けば11000字を超えている。読む人の苦労を考えられないのかと、とても嘆いている。

青識氏自身に個人的な感情は何一つとしてない。彼の行いや思想の危険性自体を示すべきだと判断したまでである。
皆さんが署名を通じ人権救済に進もうとしたのは勇気の提示である。
これまでどこに具体的な救済を求める声があっただろうか(人権侵害としない彼の捉え方は賛同できないが)。
いくら彼がカテゴライズや対立の頭数のように解釈しても個々人の意志の存在を否定することは絶対にできない。つまり、実質的に証明した皆さんは評価されるべきである。念のためだがこれは皮肉ではなく。
証明に力を持たせることのなんと難しい事か。

いずれにせよ、吟味せず安易に賛同を示すのは危険性があるものとご理解いただければ幸いである。

もし青識氏より反論があるならお応えする。
今までの経験上、この理念を持つ人は大体黙殺する。
あろうとなかろうとどちらでもいい。私が戦うべきものは沢山あるとよくわかったので。

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