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"フェミ議連と署名"それぞれの問題点

 フェミニスト議員連盟のしていることはフェミニズムではない。
一言で言えば「人権侵害」である。
その話にならない事からしてまずおかしいのだ。その指摘をできない我々に問題がある。
続いて署名は人権侵害を問題にしない点がおかしい。それどころか、フェミニストVSオタク議員などと煽りを加えている者がいる。それが署名の発起人なのだから話にならない。これではあくまでもフェミニズムではない「フェミニズム」の、解釈論争の範疇で騒ぎ立てるだけの道に進むも同然だ。
第一の定義が間違っていた三段論法の結論で討論をしているようなものである。
署名をした方々のこの問題に対し持つべきは、違和感や市民としての活動を守るための抗議として目につくのがそれであったからというスタンスがよいだろう。現状を見る限りこの展開で避けるべきは、プロパガンダとして流される「フェミニストへのオタクの文句」や「カルト」だのという印象操作の中でVtuber側が板挟みの状態になる事である。市民としては、決然と、いかなる印象や対立を煽る者がいても、交通安全という社会活動とその先にある子供達の安全を願ったその意志を守るためとすべきなのだ。

しかしこういって、人権侵害であると分からないどころか「あれはフェミニズムだ」と言ってそこから離れない者は多い。よってここに端的に述べさせていただく。何がどう人権侵害なのか、フェミニズムではないとはどういう事か、対立の煽りや三段論法によるレッテル貼りの何がおかしいのか。

長くないものも長いだの高橋(筆者)の言うのは「俺さまフェミニズムだ」だのと文句を言う者もいるが、個人が社会改善と政治に参加する平等の権利である人権「参政権」を求める運動が発祥である「フェミニズム」。その名を目にしながら、女性性に対し「性犯罪を誘引する」という理由で社会活動を妨害する事が人権侵害と気づけもしない者がおかしいのだ。
その理屈が通じない社会は異様である。

あの抗議は「フェミニズム」ではない

断じて違う。フェミニズムと銘打ったフェミニズムではない思想が跋扈しているが、はっきり言うべき所である。
「名乗っているから」とか「疑問に思うけれど本にそう書かれているから(そう呼ばざるを得ない)」と言う人は多いが、であればなおのこと、根本が何を指していたのかを大枠でも知っておくべきであろう。
この段は、大元のフェミニズムとは何を指すのかから、人権侵害だといえる根拠とは何かを一連で説明するものである。
それは人権のルーツから咀嚼し直すとわかりやすい。


ーフェミニズムのルーツである人権理念ー

まず人権理念の発祥は欧州である。近い概念は他国でも生まれていたという意見もあるが、近代国家や憲法の枠組みや日本語の「人権」の翻訳元としての人権は欧州発のものであることから、そこにフォーカスするものである。この点から始めることで、話の筋を逸らさず「フェミニズムかどうか」を明らかにすることができる。

大元のフェミニズム、そのバックボーンは哲学であるとまず言わなければならない。
ガリレオがその地動説によって教会から異端の判定を受けた事は皆さんもご存知であろう。異端審問は1600年頃の出来事だが、そもそも紀元前300年頃には地球の直径は計算されいた。そして紀元後400年頃には惑星の軌道が楕円であると導き出された上で天動説と地動説の両面の観点から探求が行われていた。
正確な認識とは何かという哲学を土台とした認識論と数学的に推測し検証を重ねる手法はそれほど古くから存在していたのだ。決して解釈による世界の定義が先ではない。
しかしその天文学や認識論の本場であったギリシャから、さほど遠くはないはずの西側ヨーロッパでなぜ何百年という長い期間、人の認識の力と人らしい純粋な疑問の押さえつけ(弾圧)に至ったのか。それは国そして人々を支配する権力は、聖書に対する教会の解釈によって裏付けるものとされてきたのがきっかけとなる。
これはつまり、神が世界を創り王の権力をその神が認めているとするなら、教会が聖書から導き出した世界観と一個人の世界に対する科学的な疑問が、その疑義だけでなく並び立つ事にでもなれば、権威に対する疑念へと途端になってしまうからだ。
そこから聖書を読む自由から、読むために言葉を学ぶ自由、検証を重ねた見解を公表する自由を制限するものとなっていった。
それはやがて、解釈を行う立場の権威性の肥大化を引き起こし、解釈は性別を基準にしたルール作りにまで及び、そして世界に向き合おうとする個人の自由意志までもが解釈の範疇へと矮小化するまでに至ったのである。それはすなわち、その解釈を前提とした考え方に基づいて、人を人とも思わない残酷な仕打ちを現実のものとさせた。端的に言えば魔女狩りや異端とされた者の虐殺などである。
このような弾圧が存在する世界でありながらも連綿と引き継がれた科学的な探求は1700年代のニュートンの時代に大きな転機を迎える。
ニュートンは「神は世界を創ったが、その世界は理性の力による解明が可能である」とする発想を持っていた。つまりニュートンの科学的な発見とその証明が揺るぎないものであることが、人間に備わる理性と意志の存在とその素晴らしさの証明となったのだ。そして友人であるジョン・ロックはその時代に、その発見と並び立つかのように、国家権力がその人間の理性と意志の力を抑えこまず、個々がその力を発揮をして国家を運営する思想、すなわち人権思想を唱えたのである。
これがアメリカ合衆国の建国やヨーロッパ諸国の革命、そして近代国家と憲法を生み出した原動力となった。
この人権思想も、科学の探求と同じように、戦争や弾圧を食い止めるため積み重ねられた法理論の精華であるとも言える。

人間が、国家という大きな力や権威的な解釈にその力を制限されたり規定されたりすることがないように、そして個々の人間がそれぞれに備わる力を発揮して社会を構成しようという理念こそが人権の理念なのだ。

よって、学問、宗教、表現、経済活動、社会活動などの個人が社会に関わる権利人権である。政治に関わる権利、参政権人権である。

この参政権における性別的な不平等に向き合ったのが女性参政権運動である。世界的な動きとなったこの運動の中で、フランスのある団体が掲げた標語的な言葉がフェミニズムなのである。


元来のフェミニズムとは


近現代の、そして日本の、基本とする理念は人権である。
ここでまた西欧の話に戻るが、極めて長い間、人々に浸透したその解釈に基づく規範そして世界観や性概念は簡単に覆るものではなかったのだ。様々なものが挙げられるが、本筋に絞って言うなら人権の対象は男性(白人男性)という解釈が広まった事が挙げられる。
これは相次ぐ戦争も原因ではあったが、欧州の言語の構造として人を指す際はの2つを使い分けるという影響も大きなものだった。

元来のフェミニズムとはこの部分に根幹がある。
人権を指す言葉として男性と女性両方に備わるという併記が元であった。

その証拠として分かりやすいのは
フランス人権宣言
Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen に対する
オランプ・ド・グージュの女権宣言
Déclaration des droits de la femme et de la citoyenne
(市民と同義であった男性を意味するHommeをFemmeに置き換えた)


メアリ・ウルストンクラフトの女性の権利の擁護
A Vindication of the Rights of Woman これは
A Vindication of the Rights of Manという著作が前段にある。

これらは両方ともフェミニズムの文脈としてよく挙げられるものであるのだが、ひどい話だが「女性の権利」と訳されているのだ。
翻訳やそう言わざるを得なかったニュアンスとしてはわからなくもないのだが、正確な意味合いとして、前者は「オランプ・ド・グージュによる男女併記のフランス人権宣言(の提唱)」と説明すべきであろうし、後者は「女性の人権の擁護」とすべきであろう。
双方ともに、女性のとか男性の権利という誤解を払拭するためにどれだけの苦労をしてきたことか。オランプ・ド・グージュは国の体制を定める国民投票を呼びかけ、裁判を受ける権利が人権であることを市民として体現するために国王の裁判の弁護を名乗り出て、そして「女性には断頭台に上る権利があるのだから、議会の壇上に上る権利もある」と訴えた。その結果が独裁と恐怖政治に至った革命急進派による「反革命」というレッテルでの刑死である。それも弁護人なしの裁判によってだ。

この覚悟を笑えるものだろうか。市民は法の下に平等であり、階級が彩った人物でさえ平等であるべきとし、性別によって左右されることなくそして市民として社会参加を行うべしと言った彼ら彼女達でさえ、このような憂き目にあった。

もし現代の民主主義社会の議員が当時の現場に居合わせる事ができたなら、当時の元来の理念に基づいて必死の弁護を行うものだろう。そうでなくてはならない。人権に基づく社会の議員であるなら。
いかなる思想であろうといかなる風貌をしていようと、見た目が男性や女性であるからという理由で、社会貢献の活動を妨害しようとする思惑などには徹底的に立ち向かわなくてはならないのだ。それは例え女性性を排除する思想を持った者が議員であったとしても。

フェミニスト議員連盟の過ち


残念ながら「フェミニズム」という言葉には解釈が加えられてしまった。それは社会学の影響が大きいとは言えるのだが、実質的な責任は「フェミニズム」という言葉に、積極的に偏った思想に基づく時系列を無視した解釈を加えてきた人々にある。日本で「フェミニズムとは何か」を教わった多くの人は、その説明した人が、大元の背景や「フェミニズム」という言葉に解釈が加えられていった経緯をあえて省いている事など知る由もなかっただろう。しかし、それでも私達は調べてたどり着かなければならない。それは人の尊厳を守るためにである。

Vtuberとはまさしく現代的なアイデアである。伝達と社会的な活動を電子的な映像や音声を介するもので、その姿は人間を表すひとつの表現技法によって描かれたアバターをもって行うのだ。いずれは立体的に投影されるなど予測はされるがそれはともかく。
例えば女性が顔や名前を晒して社会活動をすれば排撃されるような時代に、ペンネームやマスクあるいは架空の肖像画をもって表現する、そのような市民像があれば、フェミニスト議員連盟は「公的機関がそのような人物を用いるとは言語道断」と言うだろうか。
おそらく言わないだろう。なぜなら権威性の着飾りを加えた言い回しによって言わなくなるような細工がこの文章にはあるからだ。
ではこれを更に進めて、時代を経るに従い、高度化する情報伝達や性別に左右されず影響しあう人間の表現技法、更に世界中で行われるであろうはずの自由なファッションと更に独創性を加えたようなデザインが反映されるのは人の世として自然であると示したとしよう。あるいはある国では許されないような女性性の表現が行われる舞台のものであると説明したとしても、フェミニスト議員連盟は「公的機関がそのような人物を用いるとは言語道断」と言うだろうか。

なぜ、人権が存在するその大前提となる人命を、子供達の命を、守るための交通安全活動を行ったVtuberが性的犯罪誘発の懸念があるという理屈で排除されなければならないのか。

女性がやっと○○という職業に就いた、○○に参加する事ができたなんて話は時代遅れである。市民がその時代の表現方法を用いて社会に貢献し、公的機関がそれと共同して行う。それは当たり前の事ではないのか。むしろ日本的な文脈でいえば、新しいものやそれまで女性であるなどを理由に排除されてきたところへ、時代に合わせ女性が登場したならば喝采が起こるところなのでは?

というより、連盟からの抗議文その要旨は、中世的かつ特殊な性規範を現代に再現するものであったと言っても過言ではないだろう。何より、女性性を理由に公から排除しようとするムーブがそれである。「性的だ」と鼻白む人はいつの時代にでもいる。常識的と言えるような人がふと口にする事もある。「性的だから」とはそういう言葉だ。
それが個人が公に認められた所に、横から妨害を加える際に用いられるところにまでなってしまえば、それはもう異常と言って然るべきであろう。男性女性、誰の行いであってもそうである。

それを議員として行ってしまったのだ。あまつさえ連盟という形をもって。

ここまで言ってしまったからには決定的に私に反感を持つ人も出てきかねないだろう。黙殺の可能性が高いか。
私はフェミニスト議員連盟に所属あるいは支援者の人と話したことがある。その経験の限りにおいて皆常識的な方々であった。
性的に見えるものを排除しようという発想を持つ事自体は誰も咎めるものではない。それを市民の人権擁護を代表して行う議員の立場で行ってしまった事に問題があるのだ。
フェミニスト議員連盟は単純に、「こうこうこうした思想が正しいと思う。しかしそれを理由として、警察と市民が協力して行う交通安全運動から一市民を排除せよという動きを議員として行ってしまったのは間違いであった。勇み足であった」として撤回すれば、こじれの根本的な部分は整う。
排撃になった点は決して軽いものとは言えないのだが、様々な思想を持つ人が存在するという事実と、議員としてあるべき市民の社会活動を応援する立場という切り分けを今できたなら、その時点で理性的なのである。
いかなる意識も平等に存在し得る社会を目指す、人権を基礎とする民主主義社会の議員としてであればその原点に立ち返るべきである。


署名側の問題


上記の通り、まず今回のフェミニスト議員連盟の行った行為はフェミニズムではない
問題の根本は市民の社会活動の妨害という人権侵害、そして性的犯罪を助長すると断定された名誉毀損である。

「フェミニズム」という言葉をもってこのような行為が行われている事からして、フェミニズムという前提が定まっているかのように事を進めるのは、フェミニズムの定義論争を行っているも同然である。
五千歩譲ってフェミニズムには様々な定義をする人がいるとしよう。それでも私達が立ち返るべきは、市民として行われた社会活動を議員が連盟という形で妨害を加えたのが問題という指摘、その一点に尽きるのだ。そしてそれは大元のフェミニズムの理念、人権理念と一致する。
日本語としてフェミニズムを頑張って訳して「女性の云々……」と張り切ろうとするからよくない。端的に切り分けるべきだ。純粋に参政権運動が端緒の言葉であり、性別に左右されない人権の提唱だったのだから。そもそも女性参政権運動自体の前段となる動きは、社会問題改善のための市民による社会運動である。様々な問題に取り組む無数の団体が、参政権の不平等が市民の社会改善に重大な支障をきたしているという問題点の共有により、大きな動きとなった運動であった。

オタクだとかフェミニストだとか、そうした名称は全く関係ない。関係ないと断言できる市民こそ、被害を受けたVtuberのありのままの活動を応援することができるだろう。

オタクとフェミニストの対立であるかのような解釈や煽りには断じて注意し切り分けなくてはならないのだ。なぜなら、その解釈論争とその論争のエスカレートにVtuber当事者や我々を巻き込むことになるからである。

極めて重要なのは、フェミニズムという言葉が人権と直結する言葉である点である。「フェミニストなのに女性の妨害を〜」「これがだめでなぜあれがいいのか〜」という論争は、人権の背景である人間の理性や主体性という尊厳に関わる部分を、解釈論争の俎上に乗せ細かく切り刻む行為と言って過言ではない。それがエスカレートすると人を人と思わなくなっていく
反応もしなくていい人間がいる、見下していい人間がいる、社会活動を妨害してもいい人間がいる、あいつはこういう人間だ、こういう事をする奴らが相手側にいるのだという経験を大勢が積み重ねていく事になる。
そうなる原因とは、本質が忘れられた状態で、第一の定義に解釈が持ち込まれている事を意識できないまま事態が進むことであり、その流れが大きな問題を生み出すのである。

しかし、事もあろうに署名の発起人がこの煽りを行っているのを見た時は、正直なところ深く憤りを覚えた。理由はこの一連の文章を書いている者からすればという事でご理解いただきたい。
https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1437254528567427072
https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1437346398207307779

長くなってしまっているので、この段の結論を端的に申し上げるとするなら、署名に参加した方々が取るべきスタンスは、「フェミニスト議員連盟に対する抗議行動として目についたのがこの署名であったから参加した」「発起人の対立論やフェミニズム解釈に乗るつもりはない」こういった観点を持つことであろう。言い換えるなら持つだけで良いのだ。なぜなら、この署名行動もまた誰も、署名したあなたの意志を単なる数字とは規定できないからだ。そういう事をするのは、人権(フェミニズム)に解釈を加える者や発起人くらいだ。
極めて大多数の抗議をしたいと思った方々の願いは、戸定梨香氏が今後穏やかに、かつ今回の出来事を弾みに大きく飛躍してほしいというところであろう。
こんな論争に、騒動のエスカレートに、巻き込まれて欲しいなど誰も思ったりしない。妨害があったとしてもそれを乗り越えて「良かった」と思えるような事になって欲しいと、皆は思っているはずなのだ。


まとめ

人権など大した言葉ではない。検証の積み重ねと科学的な推論を、そして分からないものは分からないと言える常識的な態度を重んじる、人としての常識さの事だ。それは他者が自由な発想で公に出る姿を見守ることでもある。
ただそれだけの事ができなくて、多くの人が苦しんだ。
1500年代に「聖書を読みたいから勉強したい」と言っていた女性がいた。
1700年代にも「聖書を読みたいから勉強したい」と言っていた女性がいた。
なぜ私達はこんなにも言葉で苦しむのか。ただ今を生きて、この時代にある方法でできる限りの表現をするだけだ。何百年も後にはきっとおそらく信じられないような表現方法がある事だろう。私達のできる事はそれから比べれば極めて限られたものなのに、あくまでも権威と結びついた解釈が今の私達の自由を小さくしようとするのだ。

くだらない対立の構図や煽りこそ意味がない。騒いで人を見下そうと、抗議を無意味なものと解釈しようとする者こそ無意味なことをしている。

今踏み込んでいるのは、歴史に明確に記されている人を人と思わなくなる解釈論争のエスカレート、その一線である。現に人を単なる数として扱い、オタクだのカルトだのフェミニストだの(戸定氏を擁護する側は冷静な方が多いとお見受けするが)レッテルの張り合いが目立ち始めている。この動きのエスカレートが行き着く所は殺人である。誰かが言い出した「取るに足らない連中」という格付けに、軽口で排除や殺してしまえと顔を隠して言う者が現れ、そしてその言葉を真に受ける者が出てくるのだ。皆がそうなってほしいと思っていなかったと言い募ったとしても、言葉の広まりは止める事はできない。そのエスカレートを食い止めているのは、人権運動を行った大元の方々、今「フェミニスト」と言われた当時の方々の遺した「法を守る市民の理性的な態度」という常識さなのである。
そして当時の方々はフェミニストとは名乗っていない。市民として社会運動に参加しただけだとその多くは言うだろう。「フェミニスト?ああサフラジストの事ね、それなら私もそう」と言うようなものだ。「女性だから」という理由で排除されるその理不尽さに立ち向かったのは、「性別など関係なく平等だから」という理念に他ならない。そしてその活動の成果とは、現代に生きる私達が性別に左右されずお互いを尊重し、戸定氏を当たり前のように擁護する「常識さ」が備わっていることだといえる。
言葉には解釈が加えられてしまった。はっきりとフェミニズムは性別に左右されない人権運動だと言えない世の中になっている。それでも「フェミニズム」を掲げながらの「女性性」の排除に私達が違和感を覚えているこの事実が、その理念の本質が私達に伝わっている証拠である。

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