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温泉むすめバッシング 考察と提言(えせ同和行為との類似など含む分析)その1

はじめに

 結論から言えばこれは引いてはならない段階にある。
「戦い」にしてはならないが。

 当事者が複数のため、個々の立場に対するそれぞれの結論(提言)がある。

 まず当事者である温泉関係の方々に向けての提言としては、今回いわれのない卑劣なレッテル貼りには毅然とした態度(法的な)を検討していただきたい。
 過去、"人権のため"などを掲げた業務妨害や悪質な圧力やレッテル貼りが一部地域で苛烈に横行した事があった。それと非常に今回の件は類似している。
 地域的にその社会問題となった事例や講じられた対策など詳しくない方々が多いはずであるため、その事例などを含め簡単な解説をしていきたい。

 キャラクターの製作者側、またバッシング対象とされる表現の部分に関する結論としては二点で、今回のバッシングは絵の表現や性的な犯罪などに一切関係のない、いわゆる特定の思想が背景に生じたものと捉えるべきという事。もうひとつはそれを踏まえてだが、バッシングがあったからといってルール作りやガイドライン作成などは現時点で一切考える必要は無いという事。
 これはシンプルな話で、古今東西で様々な物語(神話から当時ヒットしたものまで)は観光の目玉にされており、取り上げられる際は時代毎で登場人物もモチーフに作られたキャラクターも積極的に魅力あるものに描かれるものだからである。追求しなければ意味がない。
 人物を描く際に心血を注いで創造性を発揮するのは当然である。その発揮とは物語と現実の区別が付くからこそ可能となる複雑な芸術的作業であり、それに対して大々的に非論理的なレッテルを貼る行為は犯罪や人権侵害に当たる(偽計業務妨害、名誉毀損、また経済活動の自由、表現の自由等の侵害等)。
 今回の件で心理的な負担を負うことになった多くの善良な方々に向けては、慰めとなるかわからないが今回のような事柄にははっきりと人権理念が正当性を証明するものであることを説明したい。

 更に被害を受けている方々を様々な立場で深く心配しつつ見守っている方々へ。
 古くから、誤った三段論法の押し付けによって無数の人々が酷い目に遭ってきた。
"この表現は性的である 性的なものは罪を生む だからこの表現は罪同然である" 
こうした誤った三段論法が蔓延した結果、女性も男性も様々な文学も芸術品も文字通り焼かれてきたのは歴史的にも明らかなのはいうまでもない。
 それを防ぐための手立てと使い方を再確認すべき時である。その点にも触れていきたい。


 バッシングをしている者に向けてはもう伝える事はない。


問題のコアとその見抜き方

 下書き時点で心が辛いので軽めの例えを交えるのをお許しいただきたい。
 例えるならク○ノ・トリガーのボスの倒し方のような、問題のコア(核)部分の話である。
 とにかくボスを倒せというスローガンは無意味なのはお分かりいただけるであろう。問題の要とは「今回の件」自体や「発信者」そのものなどではなく、弱点の見抜き方、つまり論法を見抜くことにある。

 前述の通りそれは三段論法なのだが、そもそも三段論法とは数学的には正解を導けるものであっても、言葉として用いる場合はあくまで推論の導き方でしかない。
 例えるなら "丸いものは転がる あの人の性格は丸い だからあの人は転がるだろう" といえば分かりやすいだろうか。この例文を真に受けて人を転がそうとしたら問題なのは言うまでもないのである。
 しかし時として、人は間違った理屈もこの論法を使われると真に受けてしまう場合がある。それはこの考え方(推論の立て方)自体が人にとって自然な考え方の一つであり、先に権威的な意見や「認めない者は悪人だ」などの情報が先に提示されたりしていた場合にも、人は無意識的にそれぞれの結びつけをこの推論の力でしてしまう。
 つまり不確実なことでも「これは正しい」と断定的に思い込みを起こしてしまう場合があるのだ。

今回の件で行われている三段論法の大枠は次のようなものと言えるだろう。

(1) この女性の表現は女性を性的に見ている
(2) 女性を性的に見ている者が性的加害を行う
(3) この女性の表現は性的加害である

 ここにアレンジ的に、温泉むすめの説明(それぞれのモチーフから要素が取り入れられた紹介文)の中の性的あるいは年齢的な要素を抜き出し、性的加害という結論を補強する形で関連付けている。この理屈の積み重ねも三段論法の得意な部分といえる。
 性犯罪に該当する場合を想像させつつ、性的加害の肯定や促進また女性に対する差別性の証拠であるなどと結論部分に展開を持たせているのである。

 この理屈が明らかに成り立っていない部分を列挙するならば以下の通り。
・あくまで推論であるにも関わらず事実の断定がされている事
・定義(1) が証明されていない事(三段論法は始めがダメなら結論もダメ)
・物語の作者や画家は、第三者の作品に対する感想と関係性が無い
・対人的な加害行為があるかどうかの検証は適切なプロセスを踏む必要があるにも関わらず、省いて断定している事
(製作者側の意志の存在を無意識的に否定している点など認識に関する問題も明白なのだがひとまず以上に留める)

 このような乱暴な理屈を振りかざす者への反感は募るもののひとまず置いておくとして、論法の解説を続けたい。

 こうした三段論法は女性の差別や虐殺の根拠として用いられてきた。人種や性別問わない迫害においても同じなのだが、今回は分かりやすく「女性」を軸に説明してみたい。以下の例が挙げられる。
 "世界も女性も神の創造物 起きる事の全てを神は把握できる よって女性に自由意志は無い"
 "性的な逸脱は罪 女性は性的に作られている よって女性は性的な部分(女性性)を隠すべきである"
 この例は過去に実在した文言を参考に挙げるものである。他にも数多く似たような文言は存在している。
 子供を産む女性はこういう身体の作りだからこうすべきだ、女性はこう作られているからこういう時は悪しき会合に参加しているだ、罰する時はこうしろ、教育はこう、言葉遣いは、服装は、行動は……
 こうした理屈は現代の私達にとっては常識的に考えればおかしいと気づくレベルの理屈なのだが、今現に起きていることと照らし合わせてみることで、私達は気づかないうちに信じて受け入れてしまったり、はねのけるのが難しいくらいに社会に浸透してしまいやすいということがおわかりいただけたかと思う。

 こうした乱暴な論法を振りかざす状態はいわゆる腐敗と表すことができる。
 他者を軽々しく社会から排除しようとしながらも自身は正義だと装う人が、もし社会的な力を持っていたとするならば、それが該当することをご理解いただけるだろう。

 こうした事例の、歴史上の記録や様々な調査結果や文献をいくらでも確認できる時代に生きているにも関わらず、あからさまな差別や迫害の原因となった論法を駆使するとは言語道断であり許しがたいことである。
 ましてや「女性を差別から守る」などと掲げながらのこの行為は悪質さに拍車がかかっている。

 人権とは、こうした理不尽な論法により人が虐げられるのを防ぐためのものといって過言ではない。
 異様な嘘を見抜くために文献や歴史や論理や数学を学ぶ権利、探求する権利、自由な発想を持ちそれを言葉にして示す権利、出版の権利、おかしな政治を正す選挙権、請願権等々、いずれもそうなのだ。
 その「人権」また「被害者」などの言葉を曲解し悪用し、自分達の意見を広める権利は守られつつも他者に罪があると乱暴に断定してもいい、好き勝手に虐げてもいいと思っている。ここには見下してもいい他者という発想が思考の大前提に存在している。
 このような発想の実態がある。

 人は自分自身についても世界についても何かを知る事から思考が始まる。そのような内的な作業をしている他人の心など勝手に決めつけられるなどできない。
 この他者や世界に対する手探りの態度(懐疑論)と併せて他者の内面への敬意という要素が、元来人権理念に大きく含まれているのである。
(この部分がほとんど理解されていない)

 人権運動が広まりだしたころ、それまで軽視されてきた女性や子供達の教育が大いに振興された。その当時にこうした論法を見抜くための教育が行われていた記録がある(「全ての出来事は既に決まっている」という運命論は、論点先取という詭弁であると指摘する内容。メアリ・ウルストンクラフトの講師の記録)。
 ちなみに明治維新以降に女学校が多く設立された背景はこの流れを汲むものである。

 今行われているバッシングの卑劣な論法を見抜いて、そしてそれを共有していただきたい。
 ただただ見抜いてそして共有する事である。攻撃や批判の時間はもったいない。
 決して批判をするな我慢しろという事ではない。こうした人権侵害に対する適切な手立てが、この頃から現在に至るまで整備が続けられていることに気づいていただきたい。

えせ同和行為との共通点についてと考察


 人権理念を悪用した反人権的行為の具体例であり今回の件に対し非常に参考になるものである。
※追記:大切なのは"えせ同和行為"と誰かを短絡的にリンクさせるということではない。私達が「性犯罪者」や「性的加害を肯定している」などと決めつけられ、経済活動や様々な発表などへの圧力が"人権"を盾にして行われた時に、その非論理性を見抜き、また対応をする際の参考として捉えてほしいということである。
(論争で他者への反論や翻意を促すなどではなく、あくまで私達の対応力を上げることが肝心)

 法務省のえせ同和行為対応の手引きも目を通すのがお勧めである。類似点があるからというだけでなく、この問題は地域的に偏りがあるため日本国内で地域的な知識の偏りが生じているからだ。この記事の印象も様々なものになることだろう。
 人権や現代社会の基礎的なマナーとされるもの(風潮的なものも含む)は悪用されがちである。やっかいなのは人々の善意に漬け込む端的には否定しづらい話を持ち出すところにある。

 そもそも同和問題(部落差別問題)とは、明治以前に存在していた身分制度が背景となる差別問題を指す言葉である。個人的な話だが、私は福島出身で幼少期は祖父母の元で育てられていた。東北地方は部落差別問題自体がほぼ存在せず、地区という意味で「この辺の部落は〜」と日常的に使われており、差別意識を目の当たりにしたこともない。
(強いて挙げるなら戊辰戦争の戦闘や裏切りの怨恨話くらいでそれすら過去の話だった)
 よって資料ベースの話になる。


・朝田理論

 "えせ同和行為" の鍵といってもいいのが朝田理論である。
 人権理念に基づく差別解消を目的とした運動は、次第に差別解消のために設けられた公的資金の流用から、企業や公的機関に対する強要個人が対象の上下関係の強要や暴力、果ては地域単位で子供達の教育を制限するような真似にまで発展した。

 それぞれの要求をねじ込む強力な武器となったのが、差別に聞こえる言葉や表現をした人に対し「差別だ!!」と徹底して断定する理屈を突きつけ続け追い詰めるという手法であった。
 いくら差別のつもりで言っていないと弁解しても、第三者から見ても差別語と分類されるような言葉では無かったにしても、「被害者側が差別と思えばそれは差別(者)である」という理屈が横行した。この論法を提唱した人物の名を冠し朝田理論と呼ばれている。
※私に言わせてもらえばこれは論法にすらなっていないが、前述の誤った三段論法にあたる。

 例えば私が「うちの部落では」と言うと、「部落と言ったな!部落とは差別語だぞ!」となり、「は?」と返すと「お前は無自覚なまでに差別精神に満ちている!」と返す。そんな理屈の事である。果てはスピーカーで「高橋しょうごは差別主義者だ」と言いふらす。そんなやり方だったようだ。さて、スピーカーをネットに置き換えたとしたらどうだろうか


 人権を基礎とする日本社会において、解消すべき差別の被害者という立場は人権理念上の盲点となった。まさか解消すべき差別を結果的に補強するような、非人道的な振る舞いを当事者側(自称含む)がするとは想定されていなかったのである。

 「お前は差別している」「差別されている私だから差別だとわかる」
 こうした理屈は対人的な上下関係の強要や役所での優遇の強要に非常に有効であった。人権理念を当たり前に身につけている善良な人が相手なら尚更の話である。
 解消すべき差別精神の持ち主とスピーカーを用いて連呼し続けたり、監禁や暴力を振るいながら「反省しろ」「差別していたと認めろ」と怒鳴り続ける、性的な加害や「社会的に抹殺してやる」などの脅迫も行われたという記録が残されている。

 そして同和問題の啓発を名目に、子供達の授業の時間を大幅に削り同和問題の教育にひたすら当てるという行為が行われた。そして差別を受ける側と認定された集団の子供達には差別的に教育の優遇を行ったのである。
 復讐心の末の行為なのか差別精神がエスカレートしきった末の行為なのか、はっきりとはわからないが、とにもかくにもこうした一連の人権や人の善意を逆手に取った他者を根拠もなく加害者や差別主義者に仕立て上げ追い詰めていく行為の横行が社会問題として認知されていった。

 法務省は差別解消のために同和問題の啓発を行っていたが、今では同時にえせ同和行為についても併せて広めることとなった。
 今でも同和差別は存在しているらしい。
 しかし、問題を複雑にしたのは人権や差別への取り組みを逆手に取る卑劣な一連の行為であり、身分制度が廃止されて以降の非論理的な理屈による差別を見抜くための教育を受けている若い方々にしてみればひたすら迷惑な話である。

 では何度も決めつけられる「性的搾取」とは具体的に何なのか。
 性的加害行為や強姦や人身売買を、肯定的に表しているなど微塵も思っていない人々がなぜ加害者だとか肯定していると断定されなければならないのか。
 善意の人々の表現がなぜ根拠なき断定の憂き目に遭わねばならないのか。
 現代社会に生きている我々が義務教育を受けているのは、こうした理不尽さを見抜くためでもある(そうした意味で哲学が、人物名や論法の名称がテストで点数を取るためだけのようになっている現状は形骸化と言わざるを得ない)。

 少なくとも人を犯罪者や性犯罪を肯定しているかのように決めつけるなど、してはならない事だと真っ当な人ならば常識として身につけているものである。
 また人を貶める非論理的な理屈には直感的に違和感を覚えるようにも人はできている。それは身近な人が今にも貶められようとする様子を目の当たりにしたなら、「対処せねば」とか「抵抗せねば」という思いが瞬時に湧くようなものと想像するとわかりやすいだろう。
 しかし、「これは差別を醸成するから」「性的消費の表現だから」という"ささやき"を前もって見聞きしてしまうと、差別主義者や性的消費に当たるものと思考を止めて断定を差し込んでしまうのもまた人間なのである。そこにはもう被害者を生まないようにしたいという常識も働くからだ。

 この記事によって「えせ同和行為と同じにするとは」などと反論する者の登場も考えられる。その場合は徹底的に罪刑法定主義デュープロセスの理念に沿って立ち向かうまでである。
 無残な虐殺や性差別に立ち向かうためにこの人権理念と法理論を命がけで紡いできた人々と、それを社会制度として定着させるべく懸命に動いた人権運動の当事者を思えば、無限の勇気と力が湧くような思いがする。
 なにより当時の方々が遺してくれた人権が基礎となり、裁判を申し立てる権利が成立しているこの時代この社会で様々な情報の蓄積を参照し立ち向かえるのだ。
 これ以上何が必要というのだろうか。それぞれの権利は個人に備わっていると念押しまでされている。


 2011年の大震災の際、国から随分横柄な態度の大臣が岩手・宮城両県知事に面会しに来た時の様子を覚えている。横柄な態度と命をつなごう助け合おうとする県民の代表者に対する恫喝を「今のはオフレコだ、書いたらその社は終わりだ」と報道陣に向かって言い放ったのだ。
 よくも言ってくれたなと思うが、つまりは報道に対するこのような恫喝が通用する地域があるという事を意味する。この大臣は同和問題に取り組む組織を背景に持っていたそうだ。

 無実の人々を性的加害者、表現を「性的搾取」とする今回の行為は、マスコミが扱った際に公平な報道がされない可能性があるとは考えておいた方がいいだろう。


 現時点では、数多行われているレッテル貼りについてはメモや分析のための個人的な記録に留めるくらいにしたりする慎重な態度が重要と思われる。それは当事者の対応が複雑になるのを防ぐためだ。
 例えば第三者の個人による、攻撃的あるいは人々の注視をぶれさせるような突飛な行動(例えば抗議のビラ配りや直談判行為など)をすれば、今後応援の声になるはずのものが、事態の複雑さで困惑の声になってしまう可能性がある。ただでさえ内容な内容のため、これから知る人にとって正確な把握が難しい部分があるのだ。
 事態はいくつかの要点を抱えつつ推移している。冷静な態度を心がけるにこしたことはないだろう。

 もちろん常識の範疇の議論や批判を否定するわけではない。擁護や応援の声が挙がっていることからしても、言うまでもなく大多数の方は常識をわきまえている。様々な調べものも温泉旅行の計画を立てるのも、応援の声を送るのも当然良いことだ。
 そうした個別の具体的なことは私が事細かに言うべき部分ではい。
 この記事の情報的な部分を、皆さんのご参考にして頂ければ幸いである。

追記:今回この件に"今までと違った反応"が起きているのは、行政、クリエイター、民間企業の協力体制に非論理的なものが介入しようとしていることから生じた危機感のためと個人的には分析している。

追記:続き


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