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ノートの勧め——その1

 前回は、目下取り組んでいるフランスの若手作家の『7』というタイトルの作品について触れました。一九八一年四月の生まれだから(ウィキペディア情報)、今年で四十三になる計算です。
 この歳になって、自分の娘たちとほぼ同世代の作家の翻訳をすることになるとは思ってもみませんでした。この若さのエネルギーたるや、凄まじいものがあります。この年代の自分を振り返ってみても、怖いもの知らずというか、何もかも怖いから目を閉じて突っ走っていたというべきなのかわからないが、若さというのは、とにかく空恐ろしい。
 こうして今、フランスで注目の若手作家の翻訳に取り組んできて、強く思うことは、この若い作品を、日本の若い人たちに、いやもっとターゲットを絞るなら、小説家を志している若い人にぜひ読んでほしいということです。
 ああ、自分もついにそんなことを願う歳になったのかという感慨のような、諦念のようなものが湧いてこないでもない。だとしたら、それは幸せなことだというほかない。ここまでこの仕事を続けてこられたのだから。
 ならば、この note においても、なにか若い人のためになるようなこと、とりわけ翻訳家を志している人——あるいは漠然と作家に憧れている人でもかまいませんが——にとって、ためになるというより具体的に役立ちそうなことを書くのも一興かと、そんな思いが頭をかすめた。
 そこでずばり、タイトルどおり、ノートについて書いてみることにします。
 ここで言うノートとは、ふつうのノートのことです。ただし、対象範囲は思い切り広い。学校で使う学習用ノートから、メモパッド、手帳、アジェンダ、すべてを含みます。その人の好みやライフスタイル、仕事次第でどのようなものを使ってもかまわない。
 ただし、デジタルノートの類は含まない。あくまでもアナログの、紙と筆記用具を使って書くもの。
 どうしてアナログでなければならないのか?
 なんのためのノートか?
 能書はともかく、とにかく始めてみよう。

 数年前に、パリ十九区のマナン通りにあるパスカル・キニャールのアパルトマンを訪れたときのこと。
 私はこの敬愛する作家に対して、いつも無礼だったと思う。思い出すと、冷や汗が出たり、穴があったら入りたいと臍を噛んだりすることばかりだ。
 なぜ無礼だったか。理由は単純明快、洗練された挨拶とか、気の利いた受け答えとかができるほど会話の訓練をしてこなかったから。いつも単刀直入、いきなり本題に入るしかなかった。
 その日もそうだった。私は藪から棒にこう尋ねた。
「あなたにとって、ポール・ヴァレリーとは何なのですか」(Qu'est-ce que c'est Paul Valéry pour vous ?)
 顔を顰めるかと思ったら、彼は満面に笑みを浮かべて立ち上がった。
「ちょっと待て」(Attends un peu.)
 彼は隣室に消えた。すぐに戻ってきて、小冊子を差し出した。彼が幼年期を過ごした北の港町、ル・アーブルで開催された国際学会のために用意された小さなアルバムだった。タイトルは『パスカル・キニャール——ル・アーヴルの幼年期』(Pascal Quignard --- une enfance havraise : Les Éditions l'écho des vagues, 2013)。彼自身のエッセイ、彼に関する小論文、そしてナチス・ドイツの空襲を受けて壊滅状態になった市街地の記憶をとどめるモノクロ写真の数々。
 彼はその一ページを開いて、私に示した。
 空襲を受けて半壊したプロテスタント教会と隣接する男子リセ(著者が通っていた高校)の写真に並んで、地元の美術学校で開催された展覧会の案内状と当時の新聞の切り抜きが目に飛び込んできた。案内状のキャプションには、「若きパルクとその詩的創造展への招待」と記されており、新聞記事の見出しには「ジュリアン・キニャール氏による傑出したヴァレリー研究」(一九五七年十二月二十日付「パリ・ノルマンディ」紙)とあった。
 私は絶句したまま、しばらくその記事を読み、途中で目を挙げて、ようやく口を開いた。
「あなたのお父さんはポール・ヴァレリーの専門家だったんですか?」
「ウィ。あのころ自宅のサロン(リビング)の壁には、「若きパルク」全編が張り出されていたなぁ」
「若きパルク」(La Jeune Parque)とは、ほとんど伝説化された二十年におよぶ文学的沈黙を破って、ヴァレリーが文芸誌『NRF』(新フランス評論、ガリマール社)に発表した古典主義的な長編詩のことだ。
 でも、私が絶句したのは、この長編詩のせいではない。
 ヴァレリーは、一八九六年に『テスト氏との一夜』(小林秀雄訳)および『ドイツの制覇』を発表して以降、ほぼ二十年の沈黙に入る。雑誌に寄稿するとか、本を出版するとか、そういう文学活動と訣別したのである。
 その間、彼は何をしていたか。
 ふつうの生活をしていたのである。
 結婚をし、設立されてまもない通信社の社長に私設秘書として雇われ、ふつうの給料取りとして生活していたのである。『NRF』の創刊者の一人アンドレ・ジッドに請われて、ふたたび詩を書き、エッセイを発表するようになるまでは。
 その間、文学を放棄していたということか?
 そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
 どうしてか?
 彼は何も書いていなかったわけではなかったから。
 毎朝、夜明けとともに起き出して、思索ノートをつけていたのである。
 これをフランス文学者たちは「カイエ」(cahier)と呼んでいる。
 なんのことはない、ただのノートのことである。日本語なら帳面。
 ただし、そんじょそこらのノートではない。
 この詩人・思想家の思考の原形のようなものが凝縮されている。彼はそれを何かの媒体に発表することを前提にして書いていたわけではなかった。彼は「純粋思考」のようなものを追い求めていたのである。そのためには詩とか小説とか、あるいは哲学とか、そういう形式的なものが邪魔になったのである。あるいはそういう形式的なものに絶望したと言い換えてもいい。
 私の手もとには、彼がこのノートをつけはじめてから(一九八四年)ほぼ百年後に本の形になったものがある(CAHIERS 1894-1914 : Éd. Gallimard, 1987)。この本が出るまでは、ヴァレリー研究者たちは、ファクシミリ版と呼ばれる刊本(われわれがふつうフォトコピーと呼んでいるものを本にしたもの)をまるで聖典のように崇め奉っていた。
 どんなノートだったのか。もちろん、私はヴァレリー研究者でもなんでもないから、このファクシミリ版の実物を見たこともないし、パリの国立図書館に出入りしたこともない。
 この投稿のヘッダーに掲げたのは、ガリマール社版で再現されている一八九四年の最初のノート、その表紙裏と第一ページである。この版では、ヴァレリーの手書きの文字をできるだけ活字に置き直し、デッサンや挿絵のたぐいはそのまま凸版で印刷されている。ページを開くと、実物がおぼろげながら脳裏に浮かぶように工夫されている。
 巻末の註には、ノートの原形や寸法が詳細に記されている。

カイエNo.1は、オレンジ色の紙の表紙がついた判型230 × 185mmの学習用ノートである。タイトル Journal de bord(航海日誌)は、表紙に引かれた曲線と直線の組み合わさったアンダーラインの上に記されている。p.46(ヘッダーの左ページ)は表紙の裏面である。

 パスカル・キニャールの作品を翻訳するようになってまもないころ、すでに私は彼もまた読書ノートをつけていることを知っていた(何を通じて知ったのか、もうわからないけれど)。しかも、彼もまた夜明け前から起きて、このノートに向かっているのである。すぐにポール・ヴァレリーのことが思い浮かんだ。そして、このノートのことがずっと気になっていた。
 そして、このとき——つまり、私が無礼にも「あなたにとってポール・ヴァレリーとは何なんですか?」と尋ねたとき——、彼は正直に、自分の読書ノートもヴァレリーの影響かな、と認めたのである。
 私が絶句したのは、なぜ自分がこの作家にのめり込んでしまったのか、このとき雷に打たれたように合点したからである。
(つづく)

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