岡潔「日本の教育への提言」⑶

<「情と日本人」(1972年3月12日、奈良自宅にて)>


 日本人は「情」の人である。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風な分かり方ではさっぱりことは進展しない。

●幸福・道徳と情の関係
 戦後、幸福ということをよくいう。幸福とは何か。知情意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。そんな幸福、どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。
 人には人の情というものがあるから信頼できる。こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。
 そうすると道徳とは人本然の情に従うことである。背くのが不道徳です。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在しえないでしょう。人に情があるが故に道徳というものが存在し得るのです。
 儒教は形式は分かっても、内容は分からない。儒教の内容は「仁」です。仁とは何かというと、情の中から不純なもの削り去って、良いところだけを残して、これを「真情」ということにすると、真情が仁です。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。
 知情意を比べてみると、情は自分の体だけど、知や意は着物のような、そういう感じがするでしょう。知的や意的に分かったって、本当に膚で分かってないという、そういう気がするでしょう。
 人の本体は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである。教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞には一つもなかった。情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だか分からないのですね。

●「子を思う母の情」のエピソード
 情の中で大脳前頭葉で分かる部分は「感情」ですね。これは極く浅い情です。もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)と言っている。これが情です。深い情とはどんな風なものか。一例をあげよう。
 お母さんと子供が住んでいた。子供が13歳になり、禅の修行をしたいと言い出した。いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れても良い。しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後ろ指を指されるようになったら、私を思い出して、私の所へ帰ってきておくれ。
 それから30年ほどたった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。郷里から使いが来て、お母さんは年をとって寝たきりである。お母さんは何も言わないが、お母さんの心を推し量ってお知らせに来た、と言った。
 それで禅師は家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。そうするとお母さんは子供の顔を見てこう言った。「この30年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったのだよ。」
 私はこの話を聞いて、涙が流れて止まらなかった。これが情の本体です。この情を魂と言っている。この情が幸福なのであって、道徳は情あるが故にあるのである。明白なことです。

●「理」が分かるのではなく、「趣」がわかる
 戦後日本は情というものを非常に粗末にしている。情が非常に濁っている。自己中心的なもので濁っている。その上干からびている。これは改めなければいけない。日本人は情の人だけど、その自覚がない。それを自覚することが非常に大事です。
 自覚するとは「情の目」で見極めること。知や意では自覚できない。知の働きは「わかる」ということですが、今の日本人は「理解する」という。しかし、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。
 松が松と分かり、竹が竹と分かるのは全く「理解」ではないでしょう。理解というのは、その「理(ことわり)」が分かるということ。しかし、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは、「理」がわかるのではなく「趣」がわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。情的にわかるから言葉、形式というものが有り得た。
 これがわかっていないから、今の教育は全然駄目なんです。上滑りしてしまって、形式しかわからない。「悟る」というのは、本当にわかって自覚する。これは情の目で見極めることです。
 芭蕉は「散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし」といっていますが、見止め聞き止めるのは、情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが「悟る」「自覚する」ということです。そうすれば存在して消えない。存在を支えているものは情だけです。大勢の人がそれが分かったなら、教育は一変に改められます。
 公害がうまくいかないのは、情の濁りから取り去らないからです。情から綺麗にしていかないと二つの点でうまくいかない。一つは、情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。それで企業が公害を取り除くことに反対します。政府も産業を優先する。
 もう一つは、情が活き活きと働かなかったら、存在というものがない。すぐに公害を忘れる。この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、情をよく働かすようにするより仕方がない。

●本居宣長「漢意清く捨てらるべし」
 日本歴史をずっと見てみますと、応神天皇以前はうまくいっていた。本居宣長の頃になって、「漢意(からごころ)清く捨てらるべし」、そんな風になって来た。儒教は形式一点張り。仏教は難行、苦行が多い。大体、意志の修行です。単に濁りを取るということに留めて、情を積極的に育み育てるということを全然しない。つまり、情操教育をしない。
 人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当はずれの教育をやっている。本居宣長は「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ。情緒が大事であると思っているんでしょう。
 日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。
 生きるということは活き活きすることです。それがどういうことであるかを見たければ幼児を見れば良い。情は濁ってはいけない。情緒は豊かでなければならない。教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ、知も意もよく働かない。
 意志といというのは知が働いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから、地図がぼんやりしていれば、意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまくいかないのです。その基は情です。
 情はエゴイズムで濁ってはいけない。宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。今の日本は情が濁って干からびてしまっている。これを早く変えなければ、大変なことになってしまう。

●家庭教育の課題と世界を救う道
 情が流れていると音楽を感じるんですが、流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在まで行かない。見極めるには自分で情を動かさなければ。人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。自分の情を動かす。自分で見極めなくてはいけない。それをやってほしい。
 情が本体であることを知って、真っ先に教育を変えなければいけない。学校教育もですが、家庭教育を変えなければならない。成年くらいまでずっと「懐かしさと喜びの世界」に住むようにするのが家庭教育です。
 世界を救う道は、結局は情が人であると教えることです。カントの「実践理性批判」は理性が道徳に近いというが、見当違いです。赤ん坊は理性など働かしはしません。こころ、情の世界に住んでいる。真情の命じるままですね。それが道徳であり、それが幸福なんです。
 


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