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18の時の永劫の夜

18の夏、古都に独りで旅をした。

三十三間堂も法隆寺も歩いて回った。

新幹線などには乗らずに急行とかで、旧南部の壬生義士伝の田舎から。

夏休みも終わり、前期試験があった。

入院時に知った結果は、「心理学」「哲学」が良し。他はすべて悠々誘惑の摩天楼だった。

入院前に永劫の夜を生きたか、死んだか、わからない程、兎に角、明けないのではないかというのが実感だった。

自分は狂を生きていた。

パラレルワールドは現実だった。

友人の行動の意味と自分の理解があった。

世界は救われた。多分‥‥

世界が自分に呼応していた。

大声で笑ったり、塀を乗り越え脱走し、車で探しに来た男性看護師に大人しく従った。

サッカーなどをして、ボールが消えて現れる様に見える奇跡のカラクリを直視した。

様様な人たちの悲哀、喜び、嘆き、苦しみなどを垣間見た。

外泊といって、一時自宅に泊まったが、このまま退院はしない、と何故か、決心というかわかった。

半年ほど入院して、電気ショックを受けた夢を何度も体験した。

自分にはまったく記憶にない行動を後で、女性看護師から聞いたが、罪は犯してはいなかったらしい。

復学したが、志望の行動科学科へは最早人員が埋まってて、一年遅れになると言われ、コースを変更して、本命の哲学科へ進んだ。

倫理学の6年生の先輩まで、何故か、新入生の自分のことをご存知で、様様お話をした。

専攻科は先輩もとてもフレンドリーで、同輩は風張とお龍さんの二人。後輩は工藤他数名。

年配の小池先生には将棋を付き合っていただき、年少の中村先生の引っ越しには学生皆でお手伝いし、よく、ご自宅で皆でトランプなどをして遊んだ。

風張が車で通ってたので、お龍さんや工藤などと遊園地に遊びに行った。

4年の頃にも、再入院し、6年で漸く卒業し、政治学科の阿部にじゃじゃ麺を奢って貰った。



幾年月、星霜を下層の労働者として過ごし、母によく「むしょく透明の人」と云われ、共に笑った。

漸く、院が設置されたと聞いて、1年間で岩波の『哲学小辞典』を丸々筆写し、12問から2題選択して、筆記し、ほぼ完璧な回答を書けたと想う。

運転は下手だが、金曜に現場から研究室まで中村先生を迎えにあがり、ご自宅へ行く前に酒屋へより、先生は自分のためにジュースも求めてくださった。

奥さんの握られたお寿司がとてもおいしかった。

翌日は3人で出かけ、温泉やレストランでご馳走になった。

先生は夏休みも冬休みも来るように、とおっしゃってくださった。

冬の蕎麦屋への駐車場で自分の肩に手をかけて歩まれた先生の恐々とした足の運びを今感じてて、
「なんて幸せな恵まれた人生か」
と、僥倖が頬を伝って鼻からは切なさが湧いてくる。

こんなに恵まれた男がいるだろうか、心底感じ入る。

修士論文の発表会では終わりの方で、『世界でひとつだけの花』なども間に挟み、アジア史の深澤先生には
「2年間は幸せでしたか」と尋ねられ
「はい」



おらあ、ほんとに幸せな男だ。

だって、「哲学(者)研究者になれなかったから、生まれついての哲学者である自分」に気づけたから。

話はここで終わる。

昨日、図書館で読んだ、J.K.ローリング著の『吟遊詩人ビードルの物語』はいい。

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