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ゲーム制作のための文学(14) ドン・キホーテⅡ、人生を楽しみ演じることの大切さを再び考える。

文学フリマとは自分達が文学だと思うものを持ち寄り、それを大きな会場で販売する即売会です。今月、5月29日に東京流通センターで文学フリマ東京が開催されます。

現在、文学フリマ東京に出品するために『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

ダンテ、ボッカチオ、ラブレーと紹介してきました。今日は、再びセルバンテスに戻り『ドン・キホーテ』を紹介しようと思います。

イタリアのダンテとボッカチオ、フランスのラブレー、そして次にスペインのセルバンテスに向かいます。

イタリア、フランス、スペインと国がばらけていて美しいです。

『ゲーム制作のための文学』『

第十三章 ドンキホーテⅡ(セルバンテス)

 第七章にて「琵琶法師と演劇」を扱ったときに、ギルドの職人たちは聖書の教えを誰にでも分かるように、文字ではなく視覚的に、楽しく伝えることを意識していると書きました。面白くてためになる。それは日本文学においても言えると思います。日本書紀を起源に、竹取物語から平家物語に至るまで、その思想の根底には儒教、神道、仏教を伝えることにあったのも間違いありません。
 文化とは宗教の表現なのです。
 ダンテの『神曲』は、この系統に属する物語であり、そこにはカトリック神学が確かに表現されています。
 難しいことを分かりやすく伝える。
 誰もが共有するべき重要なことを、広く伝える能力。直感的には、それはとても素晴らしい能力のように思えます。現代人に必要とされている能力であり、難しいことを分かりやすく伝える能力は誰もが必要とされている能力に思えます。
 しかし、ダンテ、ボッカチオ、ラブレーの三人を見てくると、私たちは別の発想をする誘惑に駆られます。逆の発想ができるような気がします。
 大切なことを広く伝えるのではなく、広く伝わること、そのこと自体に何らかの価値があるのではないだろうか?

 前回、私たちはラブレーの戦略を見ました。ダンテが『神曲』でキリスト教的神学による普遍的真理を問題にして、そしてボッカチオは『デカメロン』でギリシャ哲学を吸収することで人間を問題にするようになりました。
 創作とは真理を問題にするべきなのか、それとも人間を問題にするべきなのかという問いとは別に、楽しさを、ただ楽しいことを追求するという別の道があることをラブレーは私たちに教えてくれます。
 普遍的真理か人間存在か、ではなくて楽しさを追求する道もある。
 真面目な主題を扱うことだけが文学ではない。この発想には妥当性があります。
 しかし、前回、教養を身につける以外の道が大切であることは問題にしましたが、もっと根本的に、普遍的真理の探求や人間存在を深めること、教養を身につけることそのものを問題にすることはありませんでした。
 今日は、再びセルバンテスの『ドン・キホーテ』に戻ります。

 これまで触れてきた三人の文学者を列挙しておきましょう。
 真理のダンテ(一二五六年生まれ、イタリア)『神曲』
 人間のボッカチオ(一三一三年生まれ、イタリア)『デカメロン』
 娯楽のラブレー(一四八三年生まれ、フランス)『ガルガンチュアとパンタグリュエル』
 今日、取り上げるセルバンテスは一五四七年、スペインで生まれた『ドン・キホーテ』で有名な作家です。
 ダンテ、ボッカチオ、ラブレー、セルバンテスとちょうど一世紀ほど時代がずれているので分かりやすいです(ボッカチオとラブレーの間だけ大きく期間が空いていますが、だいたい百年に一人天才が生まれた計算です)。

 物語『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは、スペインをイスラム教からキリスト教の手に取り戻したレコンキスタの騎士、に起源を持つイダルゴ(郷士)の末裔です。レコンキスタが終わり、イスラム教徒を倒し、偉大なるカトリック教会がスペインを支配するようになった時代の貴族です。
 騎士の時代は終わっています。
 ドン・キホーテはやることがないので騎士道物語を読みあさり、ついには騎士道に目覚めて冒険に出ます。そして、彼は本で学んだことを実践し、現実と書物の区別が付かないために多くの人々に迷惑をかけます。
 彼は書物に書かれていることと現実が食い違っているときには、現実が間違っており書物が正しいと思う理想的な観念論者です。

 さて、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』においては楽しいことも重要だということを書きました。
 純粋な楽しさには真理がある。
 偉い学者になれるような素晴らしい学問も大切かもしれないけど、それだけではなくてただ楽しいことも大切です。ラブレーを読むと、よく学び、そしてよく遊ぶことが重要なのですと結論づけてしまいそうです。
 しかし、時代に乗り遅れて、騎士になるための素晴らしい本をたくさん読んで騎士を目指すドン・キホーテの存在はまた別の視点を私たちに与えます。
 スペイン人、ドン・キホーテは貴族を素晴らしいものだと考え、レコンキスタの騎士、イスラム教徒からスペイン人を解放してくれたレコンキスタの騎士を素晴らしい存在だと考えたかもしれません。
 騎士道は、それ自体が素晴らしいと思ったかもしれません。
 キリスト教徒として、カトリック教会の守り手として正しい生き方を目指す人にはそれなりの敬意が払われるべきだと考えたかもしれません。戦前の武士道を絶賛する日本の政治家のように考えたでしょう。
 キリスト教と騎士道は正義なのです。
 そして、彼は絶対正義であるキリスト教と騎士道を疑うことはありません。

 フランスのラブレーが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』で新しい道を見つけたときに、スペインのセルバンテスは『ドン・キホーテ』で古い道を絶ちました。セルバンテスが現れるまでは、ギルドの職人達は、そして多くの演劇家たちは聖書や古典の素晴らしさを疑う必要はありませんでした。
 聖書は素晴らしい、古典は素晴らしいと信じていれば良かったのです。創作するのは表現であり内容ではありませんでした。
 表現者は古典を模倣して、そしてそれを分かりやすく、人々を聖書と古典に近づけることを考えていれば良かったのです。
 模倣は常に正義でした。演技は素晴らしいことでした。私たちは、過去の偉大な人物の模倣により成功すると信じられていました。
 しかし、ラブレーとセルバンテスにより、表現の内容を古典に近づけるのではなく、むしろ内容を古典から表現に近づけなくてはならないという逆の発想に至ります。観客の感性に近づけるという発想になります。
 古典を面白い娯楽で伝えるのではなく、むしろ面白い娯楽作品が持つ何かを人々に伝えなくてはならない、少なくとも聖典やギリシャ古典の普遍的価値を素朴に信じてはならないという考えに至ります。
 この文脈におけるエンターテイメントを「現実(リアル)」と呼ぶことにしましょう。エンターテイメントが面白いのは、深い意味があり、そこに文学的な意味での現実が含まれているからと考えるのです。
 セルバンテスの『ドン・キホーテ』に描かれているのは、この時代にはレコンキスタが終わっているという現実です。そして、この世界には昔は素晴らしかったことだけど、今は必要とされていないことを今でも素晴らしいと信じている愚か者が存在すること、すなわち観念論者が存在しているという現実です。
 主人公であるドン・キホーテは悪い人ではありません。
 彼は実のところ貴族の生まれであり、読書家で、行動力と不屈の意志を持ち、優しくて悪を憎む人物です。つまり「良い人」です。
 しかし、彼は本の知識や伝統を愛しすぎること、「現実」が見えていないこと、その一点においてのみ迷惑な人となっています。
 ある意味で、努力家であることが彼の欠点なのです。

 以前、『ドン・キホーテ』を例にして演劇の、演じることの危険性というものについて触れました。主人公のドン・キホーテは、まさにレコンキスタの騎士を演じることによって迷惑な人物になっています。
 しかし、『ドン・キホーテ』を読めば明らかなように、問題は演じること自体ではなくて迷惑な人物を演じることです。
 むしろ、作中のドン・キホーテに欠けているのは演じることの過剰ではなくて、演じることの欠如です。彼は騎士道物語で頭がいっぱいになり、その場その場で適切な人物を演じることができないのです。
 騎士を演じなくてはならないときにだけ騎士を演じる、それができればドン・キホーテは素晴らしい人です。
 演じることのバリエーションを増やす。
 そこにRPGなどで重視されるロールプレイの本質があります。私たちは日本書紀や聖書などの宗教文章から始まり、文字で書かれた物語を経て、演劇、能楽や文楽、歌舞伎などの目に見える物語への歴史の流れを見てきました。
 そこで重要視されてきたことは、演じることで、まさに過去の偉大な人物達の思想なり生き方なりを吸収することでした。
 私たちの主観、人格、人物を神に近づける。
 文学は印刷と演劇により、書物を普及させて、演劇や能楽などの文化により私たちを聖書やギリシャ古典、日本書紀や仏典などの重要文献に導きました。教会や寺でのみ学ぶことができた宗教を身近にしました。
 しかし、セルバンテスにより私たちは新しい方向に向かうことになります。

 私たちが表現をするときに、情報源は二つあります。聖典や古典や伝統という学ぶことにより身につけるものと。日常生活の、感覚の向こう側からやってくる聖典や古典や伝統という宗教以上の何かです。
 こうして、リアリズムが始まります。そして、現実の発見は長く続く革新と政治的保守の戦いの序章となります。


』『ゲーム制作のための文学』

私たちが政治の議論をするときには、伝統と理想、保守とリベラルについて考えることが多いと思います。

しかし、セルバンテスは伝統と理想の中間にある「現実」という全く異なる次元を扱っています。

これは、後にマルクスとエンゲルスに引き継がれる視点です。

そのため、セルバンテスの『ドン・キホーテ』はただ文学というだけではなくて政治的にも重要な文献です。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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