近現代を考える二三のこと。
RTされて思い出した
— ネオ高等遊民🛺哲学youtuber (@MNeeton) October 17, 2019
能力主義、功利主義はニヒリズムの裏返しです。
この世界は何も意味がないし、何も価値がない。
無為に過ごすことに耐えられないから、金銭や能力といった善悪無記なものに価値をつける。
その価値に従わないものを「無能」「怠け者」「お前が終わってる」と中傷する https://t.co/PDX1SlSiUI
金銭や能力など、結局は市場=他者による評価にすぎないのに、そんなことに意味があるのか。
— ぐれびっち (@Mikoyan29) October 18, 2019
自分の人生に意味がないなら他者の人生にも意味はなく、その他者による評価もやはり無意味。
…とは考えないのが不思議です
全くおっしゃる通りです
— ネオ高等遊民🛺哲学youtuber (@MNeeton) October 19, 2019
・休みの日は有意義に使わないと
・仕事終わりに勉強しなきゃ
・通勤時間中も読書しなきゃ
人生を過剰に効率化する試みは危険です
内面を豊かにしたいからこそ勉強熱心なのに
実はどんどんハイスコア=善という思想を自分に植え付けてません?
善悪など無い。
あるのは、「生き延びるために、強くなる」ってことに過ぎない。
で
「強いから生き延びれるのではない。生き延びたから強かったとしか言えない」
のだよ。
あと「無用の用」だは。
義務論していいのは至極簡単に言うと「王侯貴族と経営者だけ」コレ以外は義務論しちゃいけんのよ
— 来世は工口触手@キール (@aoJvqLcHOrs7UWg) November 6, 2023
その義務論を雇用者とか、労働者・中間管理職・奴隷などにも強制しているのが「近代と地獄の始まり」
労働者や雇用者の義務と権利というのは「経営者の義務の一部」でしかないのよ、論理で考えれば
これを国がと抜かすやつは王侯貴族と家令の関係とを判断するのにどれだけの時間を有するか考えれば、ほとんど関係ないも同然だし
— 来世は工口触手@キール (@aoJvqLcHOrs7UWg) November 6, 2023
家令を黙らせる「義務と権利は王侯貴族が所有・占有」しているので文面整えれば幾らでも無野にできることでしかない
だから、何時次請っというのを置くんだろうが
権利や義務を、確実に理解し実行できるのは、それだけの富と時間がある「王侯貴族と経営者」だけなのです。
話は少し違うが、孔子でも「礼法」は全部はわからんかった。国家の廟堂の礼儀までは、詳細には把握できなかった。
それくらいに「王侯貴族・経営者」でなければ、把握し切れないモノってあるのだけど・・
権利と義務など、それを庶民や労働者・雇用主が、理解し実行できるか、かなり危うい。
特に庶民となると・・・
現実的な「時間」や「物資」も足りなけりゃ、さらにそれを知る教育も脆弱。
なら無理だは・・・
今日、自動車の免許更新に行ってきたが、更新の講習で「運転手の義務云々」って言ってたが、それだけ「大きなモノ・力」をもって運用すると、それに伴う「義務」が生まれる。
王侯貴族・経営者も、それだけの「富とそれによって発生する権力・権威」には、同然に義務や権利と発生させ、それで規制しないと、「庶民」という歩行者は、普通に跳ねられて死んでいくのですは。
ついでの話。
北朝鮮🇰🇵の方がよっぽどマトモだし、国家としての体を成している。かたや、日本🇯🇵や日本人はアメポチに成り下がり国家として、国民としての矜持も全くない https://t.co/nSkR5ofxX6
— ヤマトタケルノミコト (@zn5vmnv) November 7, 2023
自分の意志で外交ができない。主権がないのは、こういうことだよ。明らかにおかしいはずの二枚舌にも異論が唱えられない。同盟、同盟というなら、間違ってることはハッキリと諫めたらどうだ? https://t.co/GI4O4BW3Ie
— ヤマトタケルノミコト (@zn5vmnv) November 7, 2023
多少気づいたみたいね、このツイ主は。
もっというと「天皇家と米英の植民地が日本列島」という事実に気づくと、逆賊天皇を斬り殺して、米英を駆逐し、日本は独立できる。
日本では、超越的存在より「どう生きて、どう死に、どう受け継がれていくか」という点が季節と共同体行事で営まれてきたのに、国学者が「神道!」と言い、浄土真宗が猛反発し、「何かに属することが宗教」みたいになった。寺請制度に言及する向きもあるが、あれはキリシタンでない証明を地域の中心が担 https://t.co/lSMJyhGWaX
— 福廣 (@anchorworks1971) November 6, 2023
っていただけなので、浄土真宗の多数派と日蓮宗の一部みたいに排撃的姿勢がなければ「〇〇宗だから」という縛りは緩やかであった。比較対象がなかったと言えよう。また、神社も相当大きくないと専任神職である禰宜や神主もいなかった。村の神社は村の代表である鑰役や頭屋が管理していた。共同体で人が
— 福廣 (@anchorworks1971) November 6, 2023
ら、宗教というのは近代の思想であるのだ。神さまだって江戸時代後期に「日本はすごいはずだ」という思想があって「仏教伝来以前の日本!」とか言い出して(というか、漢字伝来と儒教伝来は同時だから儒教やん)ややこしいことになったし、今の仏教宗派は政府の管理で離合集散した結果なんだもん。それ
— 福廣 (@anchorworks1971) November 6, 2023
こそ、真言宗でも多数派となった高野山真言宗の寺だって元は御室末だったりするわけですよ。〇〇宗というより有力寺院の末寺という意識が強いわけです。
— 福廣 (@anchorworks1971) November 6, 2023
そう考えると、われわれの宗教観というものは、政府と声の大きい人の都合に左右されてきたんだなぁとしみじみする。
日本で、「無宗教」とか「宗教」とか、きょとんした顔をされるのは、基本的に「宗教で区別するのは馬鹿」という、宗教文化に生きているから。
もっというと「宗教で区別差別しない、他人の宗教を馬鹿にしない・排斥しない」ってのが、日本人の「宗教」でもあった。
そもそも「西欧の宗教」=バチカン教・新教とは、全然前提が違う。
他宗旨を認める能力が皆無なバチカン教・プロテスタンが、もっというと、異常すぎるのだよね。
なんせ、イスラムなど、儒教・道教・仏教の、中国と1000年ほど共存しているのだしね。
中国で、他宗旨と共存できない宗教が、異常すぎるってのが、一つの「指標」かもしれない。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
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