人助けをしない・のは、明治以降の日本の天皇家とセレブの伝統です。
より
上記文抜粋
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人助けをしない日本人に「グローバル人材」は無理
英語力以前に「見識と教養」が決定的に足りない
今年10月、英国に本拠を置くCAF(Charity Aid Foundation)が、2022年版「世界寄付指数」を公表しました。
同指数は、世界119カ国を対象に、過去1カ月間に「見知らぬ人、もしくは助けを必要としている人を手助けしたか(人助け)」「慈善団体に寄付をしたか(寄付)」「ボランティア活動に参加したか(ボランティア)」などの質問を行い、その結果を指数化・ランキング化したものです。
日本は2年連続で最下位レベル
今年の1位は5年連続でインドネシア、アメリカは3位、中国は49位、日本はなんと119カ国中、118位でした(昨年は114カ国中、最下位の114位)。
日本は長年にわたり「グローバル人材の育成」を政策として掲げていますが、なかなか成果はでていません。この世界寄付指数の結果は、「なぜ、日本でグローバル人材が育たないのか」「育成すべき真のグローバル人材とはどのような人材か」を考えるひとつの示唆を与えてくれています。
日本では「グローバル人材=英語が話せる人」という思い込みが非常に強くあります。結果、グローバル人材育成というと、英語教育の強化や早期化に行き着きます。しかし、当然ですが、「英語が話せる人」=「グローバル人材」ではありません。アメリカでは、ほぼ全国民が英語を話しますが、「グローバルに通用する人材」はほんの一握りです。
日本人が海外でビジネスなどを行う際、英語は話せるにこしたことはありませんが、これはひとつの素養にすぎません。「真のグローバル人材」に必須な素養はほかにいくつもあります。
まず、最も重要なのは「差別」に関する見識です。日本でも「差別はいけないこと」と教えられますが、「内と外」を異様に区別する「ムラ社会」の特徴が今でも色濃く残る日本では、「差別はいけないこと」と頭でわかっていても、真に身についていません。
昨年の東京五輪では、女性蔑視発言や障害者差別、人種差別などを理由に、組織委員会会長や、開会式の演出・楽曲の責任者等が相次いで辞任しました。問題発覚当初、組織委員会や一部著名人から彼らを擁護するような発言があったことも含め、「差別」に関する日本社会の意識の低さを改めて世界にさらけ出しました。
以前、筆者は、日本の企業からアメリカの現地法人に赴任した際、現地で非常に徹底した「差別に関する研修」を受けました。赴任前に日本でも同様の研修は受けたのですが、歴史的背景なども含めた研修の内容は、より具体的かつ実践的なもので、それまでの自身の「差別」に関する見識がいかに不十分だったか思い知らされました。
英語ができる、できないの前に、人としての見識が問われるのです。日本社会全体はもとより、「真のグローバル人材」は、この最も重要な「世界の常識」をしっかり身につけることが必須であり、そのための教育のあり方をよく考えていく必要があります。
その大前提として、政治家などによる「差別発言」は、社会全体として、看過することなく、つど厳しく批判していくべきです。
社会貢献の意識が低すぎる
2つ目は冒頭に取り上げた「社会貢献」意識です。「社会」との関わりでいえば、日本人の多くは、小さい頃から「公共の場所では騒いではいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」としつけられているので、海外でも日本人の振る舞いに対する評判は悪くありません。
このこと自体はよいのですが、日本人に足りないのは、「社会に対する積極的な貢献」です。それが、世界寄付指数の結果に表れています。2011年の東日本大震災などを機に、日本でも「寄付」や「ボランティア活動」が増えましたが、諸外国と比較すると、日本はまだ低いレベルにあります。
特に、「助けを必要としている人に手を差し伸べる」という意識や行動は、ここ10年、社会全体でむしろ後退しているような気がします。車椅子に乗った人を差し置いてエレベーターに乗るなどといったことは、先進諸国だけでなく、どこの国でも決して許される行為ではありません。
人助けや寄付、ボランティアなどの「社会に対する積極的な貢献」は、少なくとも「グローバル人材に必須の素養」です。このことは、日本校を開講した欧米名門スクールが、「社会貢献」教育をひとつの柱としていることからもわかります。英語教育以上に早い段階から、「積極的な社会貢献」意識を養うことが求められます。
3つ目は「教養」です。恥をさらしますが、筆者自身、海外での「仕事以外」の会話には相当苦労しました。政治やビジネスの世界で活躍する諸外国の方々の「教養」には驚くほどの深みがあります。いわゆる「リベラルアーツ」の世界です。
リベラルアーツとは、「自由に生きていくための教養」で、哲学、歴史、社会科学、自然科学、芸術、外国語など、幅広い領域の教養を指します。欧米の企業幹部などとの会食では、シェークスピアの演劇や古代ギリシャ哲学の話題などがさりげなく出てきます。東南アジアでは、アジアの歴史、特に、近現代史などに関する相手の見識の深さに驚かされます。
大学からの勉強では遅すぎる
生半可な知識で対応しても、すぐにこちらのレベルを見透かされ、相手にされなくなります。日本の大学でもリベラルアーツをうたうところが増えましたが、「真のグローバル人材」に必要な教養のレベルは、大学から勉強すればよいといったものではなく、小さなときから、学ぶ、触れる、身につけるといったことがなければ太刀打ちできません。
日本における「グローバル人材育成」のカギは、英語などではなく、ここにあると思います。そのためには、日本社会全体の教養レベルの引き上げも必要なので、学者や専門家、修士や博士課程の学生などが、自由に研究・活動し、それを社会に還元できるような環境整備が一層求められます。
「グローバル人材」育成のための教育としては、ほかにも「自主性を養う」とか「自分で考える力やそれを表現し、相手を説得する力を身につける」といった点などが指摘されています。
しかし、まずは「グローバル人材=英語を話せる人」というステレオタイプから脱却し、世界の「グローバル人材」が、どのような価値観を尊重し、行動しているのかを理解することが重要です。
そのうえで、グローバル人材育成を阻んでいる日本社会の構造的な問題点を改善していく努力と、真のグローバル人材育成に向けた教育環境の整備が求められます。円安もあり、日本人の海外留学は高嶺の花になりつつありますが、世界のグローバル化は、さらに進んでいきます。
日本が「ガラパゴス化」し、世界から取り残されることのないよう、将来を担う「真のグローバル人材」の育成は、われわれ大人に課せられた最重要課題です。そのための議論をより深めていくべきと思います。
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抜粋終わり
日本人に教養は無用。あれば「天皇を早く廃止せねばならない」とわかってしまうから。それが帝政日本です。
あと、奴隷教育しか日本にはないからな。
上記文抜粋
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第2の理由は日本人の奴隷教育です。
奴隷教育とは日本では当たり前の次のような教育です。
・良い大学に入り良い会社に入るために勉強する
・成績が良いと褒められ悪いと叱られる
これは成績が良いと価値があり、悪いと価値がないという価値観で、実は奴隷に対する教育なのです
本来の価値観は「存在だけで価値がある」です。
日本人は「絆」は良いと思っていますが、元の意味は奴隷や動物を拘束する足かせ手かせで、マスクももともとは奴隷に着用させて個性を殺すためのものです。
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抜粋終わり
通俗道徳~自己責任論 は、基本弱肉強食なのです、修羅と家畜の思想なのです。
家畜でも助け合いはあるだろうが、修羅なので無いです。
まあ、ネオコン思想は、最初から鬼畜の修羅思想ですし。
天皇家は、そもそも「国民を守らなくてもいい」「民は草」だから、日本人など、草で餌なのですは。
まあ、そんなカルト列島なので、まともな人材など、いるわけがない・・
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
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