諸悪の根源が「明治維新」「天皇」にあるのがわかる。


より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

変態的な性癖を持つ者も数合わせで戦線に投入…戦時下の日本が“大量動員”に踏み切った“異常な背景”


「改善の余地がある、これでは墓穴と同じだ」という現場の指摘も無視…戦時下に起こっていた日本組織特有の“致命的な問題” から続く

 太平洋戦争において、日本軍特有の「戦い方」が敗因となったと思われる事例は数多く存在するといわれる。軍事史専門家である藤井非三四氏の著書 『太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方』 (集英社新書)では、同氏がそうした日本軍の「戦い方」を詳細に分析、現代社会にも通じる日本社会との構造的共通点を指摘する。太平洋戦争を通じて明らかになった日本人の組織ならではの特徴とはいったいなんだろうか。ここでは、同書の一部を抜粋し、戦時下における日本の向こう見ずな動員戦略について紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

日本の動員戦略

 日本陸海軍は各国軍と同様、動員戦略を採っていた。平時から戦時所要の兵力を維持し続けることは財政的にも不可能だから、平時は教育主体の部隊を維持し、そこから生まれる予備兵力の厚みに期待する。平時から維持して教育訓練にあたる平時編制の常設師団を動員によって戦時編制の野戦師団とする。平時の最後となる昭和12年度を見ると、平時編制の常設師団は人員1万1858人・馬匹1592頭となっていた。これが戦時編制に移行すると、動員により人員2万5375人・馬匹8197頭に膨れ上がる。

 そして出征した師団の残置人員を核として、もう一個の野戦師団を生みだす計画を持っていた。これが「二倍動員」と呼ばれるものだ。これによって生まれた師団は「特設師団」と呼ばれていた。大正14年から常設師団は17個となっていたから、戦時編制では2倍の師団34個が上限という計算になる。明治40(1907)年に定められた「帝国国防方針」では戦時所要を50個師団もしくは40個師団としていたが、現実を見ればこれは日本の国力では到底達成できない数値目標だとされていた。

 ところが昭和12年7月に日華事変が始まり、用兵側から師団の増勢が強く要請された。そこで臨時編制師団という形で師団を編成することとなった。しかも同年9月から臨時軍事費特別会計が議会を通過して軍事費が青天井になると、師団の新設は急ピッチで進んだ。本格的な動員が始まると昭和12年末で24個師団となり、13年末で34個師団、14年末で42個師団、15年末には50個師団となって、30数年来の数値目標をあっけなく達成してしまった(藤井非三四『帝国陸軍師団変遷史』国書刊行会、2018年)。

 日本陸軍では師団を戦略単位と位置付けていたが、その師団数を4年で3倍にしたのだから、それを支える戦略基盤の拡充を同時並行的に進めなければならなかったはずだ。ところが「一銭五厘」と「国民皆兵」の呪縛から抜け出せず、兵員はいくらでも集まるものと安心していた。加えて「暴支膺懲」などのスローガンに眩惑されたのか、それとも数値目標を闇雲に追求する体質からか、「なんだ、鉛筆の先だけで戦略単位を生み出せるではないか」と安易に考えるようになった。

小銃不足の深刻化

 そこで生まれた致命的な問題は、すぐにも露呈することとなる。装備の基本中の基本である小銃の不足で全軍が悲鳴をあげる事態となってしまった。長年にわたって想定していた対ソ戦では、人口過疎の広漠地において一定の戦線を形成して押し出していくのだから、自然と後方部隊は掩護される形となる。ところが中国戦線では、民衆の海のなかで作戦することになるため、後方諸隊も十分に自衛しなければならなくなり、小銃が不足するようになった。死傷者が残したものが部隊や患者集合所などに集まるものの、縁起が悪いといってだれも手にしたがらないし、それを回収して再交付する準備が整っていないから、小銃不足はすぐにも深刻化した。

 こうした事態を受けてまずは保管装備を回し、次に学校教練で使っているもののうち状態がよいものを回収して戦線に送っていた。ところがその程度では、需要を満たすことはできない。さらに間が悪いことに、昭和14(1939)年に口径7.7ミリの99式小銃が制式化され、生産ラインが口径6.5ミリの38式歩兵銃から切り替わる時期がちょうど迫っていた。国内ではとても対応できないとなり、昭和13(1938)年末に三菱商事を代理店として緊急輸入を行なうという話になった。すぐに駐独武官がチェコスロバキアのブルーノ社に向かったが、納期の問題から商談はまとまらなかった。小銃も満足にないのに戦争を始めるとはと、これを知る者だれもが嘆いたという。

部隊の質の低下

 大量動員による戦略単位数の増加は、用兵側にとっては満足すべきことだが、一方で常に質の低下を意識しておかなければならない。大正軍縮以来の常設師団一七個の場合、甲種合格の現役兵が回されてくるから、兵員の質は高いレベルが期待できる。それでも損耗を埋める補充兵のなかには、未教育兵も多いのだから、部隊の質は低下し続ける。

 日華事変当初の特設師団では、編成当初の要員の多くは昭和16年10月まで後備役が主体だった。すなわち甲種合格で2年在営し、それから5年4ヵ月は予備役を務め、次いで10年の後備役となっている者たちだ。一応は甲種合格の現役兵として入営し教育訓練は受けているが、30歳を超えた家族持ちとなると精鋭とは言いがたいだろう。昭和12年9月、特設師団の第101師団が東京で編成されたが、これを視察した参謀本部第2課(作戦課)の部員は、兵員は年をとり、各級指揮官に現役が少ない、これで大丈夫かと懸念したそうだ。この戦力が懸念された部隊を上海戦線の激戦地に投入するのだから、無責任きわまりない話だった(井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1978年)。

 早くから大陸戦線にある第一線部隊では、どうしたら応召兵の士気を維持できるのかが話題になっていた。現場の声としては、戦地勤務はできれば半年以内に止め、長くても一年で復員させればどうにか士気が維持できるとしていた。ところがそんな声は、中枢部には届かない。耳に入ったとしても、「国民皆兵」だからと気にもとめず、大所高所からの評論に時を過ごす。極端な場合、軍馬の調達のほうが心配だという声すらあったようだ。

変態的な性癖を有する者らも員数合わせという混沌

 動員率が高まれば、軍隊の質が低下するのは当然だ。体力的にも、性格的にも軍務に適さない者が多く入隊してくるからだ。日露戦争で日本は約109万人を動員したが、この時の動員率は2.2パーセントだった。最大の激戦となった旅順要塞攻略戦では、第一線の歩兵大隊が3回も兵員を総入れ替えするほど大損害を被ったが、それでも軍紀崩壊という事態は避けられた。動員率が3パーセントに達しなかったので、兵員の質や部隊の団結・士気といった軍隊組織の根本である建制が維持されたからだ。

 これに対して日華事変が始まって3年、昭和15年に入ると日本陸海軍は合計で約157万人に達し、日露戦争中の動員率を超えた。これから先は日本にとって未知の領域となり、よほどの注意を払わなければならなかった。さらには中国戦線は民衆の海のなかでの非正規な戦闘だから、軍紀の保持がむずかしいことも念頭に置いていなければならなかったが、どうもそのあたりの認識が甘かったように思われる。

 動員率があがったことによって、本来ならば徴集してはならない者、出征させてはならない者までも公民権があるからと徴集して戦地に送ってしまった。そして再犯を繰り返す犯罪的な性向が顕著な者、反社会団体の構成員、知能に大きな問題を抱える者、変態的な性癖を有する者も員数合わせで混沌とした大陸戦線に投入したのだから、問題が起きないはずがない。しかもそういったアウトローを統制する仕組みがないのだから、これらが軍隊に流した害毒は深刻なものとなった。とくに敗戦後、俘虜収容所の多くが暴力に支配されてしまったことは、問題の大きさを明確に証明している。

 明治時代はいざ知らず、昭和に入れば国民の教育程度も向上し、いつまでも「滅私奉公」というかけ声だけでは済まなくなった。社会の構造も大きく変化し、農村出身の純朴な青年だけを相手にしていればよい時代は過ぎ去ったにもかかわらず、そうした認識が軍にはなかった。とくに都会の部隊は、各階層の人が入り交じって統率がむずかしくなり、不祥事が多発する事態となった。

補充が容易ではない「神様」

 戦前の日本では、技術者と呼ばれる人の多くは職人特有の徒弟制度で育てられ、長年にわたる修練の末に「神様」の領域までにいたった人間国宝級の名人がそれぞれの分野に君臨していた。陸海軍でも戦力発揮でキーになる部分は「神様」に委ねていた。この「神様」を育成するには時間もかかるし、だれもが「神様」になれるものではない。そのため補充がむずかしく、大量動員で部隊の数が膨れ上がると、キーとなる部分に練達した人材がいないという事態に陥る。

 海軍で「神様中の神様」といえば、戦艦の主砲の照準を定める方位盤を囲むトリオだとされていた。方位盤とは、正確な射撃に必要な諸元を歯車で入力する機械式コンピューターとも言うべきものだ。これに入力された射撃諸元をもとにして、左右照準の修正を受け持つのが旋回手、自艦の動揺を修正するのが動揺手、そして上下照準(射距離)の修正をしながらこの3本の指針が重なる瞬間を見定めて引き金を落とすのが射手で、とくに方位盤射手と呼ばれていた。

 この特務士官や兵曹長のトリオこそが戦艦の戦力発揮を担っており、ひいては連合艦隊の命運を左右する存在だった。その技量は、戦艦「大和」では次のようなものだった。口径46センチの主砲が9門、その最大射程は42キロで、発射から90秒後に弾着する。そして1発1460キロの砲弾九発が500平方メートル、すなわちテニスコート2面分に束になって落達する。この精度で試射を2発して目標を挟めば、次の斉射で確実にそれを撃沈するという技量だ。そうでなければ、こちらが轟沈しかねないのだから、艦長はもちろん、司令官までが方位盤射手には敬意を表し、名字に「さん」を付けて呼んでいた。

「神様」は主砲だけではない

 そこまでの技量に達するには、長きにわたる修練が求められる。徴兵検査で甲種合格して海軍を志願して海兵団に入り、二等水兵の時に選抜されて横須賀の砲術学校普通科に入校して修練の道が始まる。そこでの成績が飛び抜けて優秀な者は6ヵ月課程の補修員に進み、このなかから「砲術の神様」が生まれる。そして戦艦の主砲分隊に配属されて砲塔の砲手となる。それから艦艇勤務を挟みながら、砲術学校高等科、特修科と進み、場合によっては砲術学校の教員を務める者もいる。

 そして、方位盤の動揺手、旋回手としての実績を積み重ねて射手となり、連合艦隊の主砲射撃戦技訓練で実績を示し、これでようやく国宝戦艦「大和」と「武蔵」の艦橋のトップに位置する方位盤を囲むトリオとなる。育成にこれほどの時間がかかるのだから、戦時だからといって速成はできない。戦艦が次から次と就役することはないから、どうにか対応できるということになるのだが、この「神様」は主砲だけではなく、高角砲、水雷、見張り、機関と艦艇のあらゆる部署に存在していたのだから、戦争が長引けば質の低下に関する悩みは海軍でも深刻だったはずだ。
陸軍の砲兵科・歩兵科にも「神様」
 陸軍の砲兵科は、科学と勘が併存する世界だから、ここにも要所要所に「神様」が鎮座していた。砲側から視認できない目標を砲撃する間接射撃の場合、砲側のそばに測地の基線を設けるが、その両端には目印となる赤と白で塗り分けた標桿を直立させる。これをしっかりと正確に直立させることからして年季がいる。そして巻き尺も使わずに、これまた正確に200メートル先に標桿を素早く直立させる。ここからして砲撃の「神様」の登場だ。

 そして砲兵の表芸が弾着の観測だ。砲弾の信管には、瞬発、短延期、瞬発と短延期の二働、曳火、硬目標用の弾底延期など各種ある。瞬発信管ならば弾着点に白煙があがり視認しやすいが、すぐに風に流されてしまう。短延期信管の場合、いったん弾着してから跳飛して空中で炸裂するから、弾着点がどこかを割りだすのがむずかしい。曳火信管は空中で炸裂し、それを地図上に標示するには習熟が求められる。そして修正した射撃諸元を砲側に送るのだが、これまた熟練を要する。そしてこれを受けて諸元を修正して素早く射撃する。測地、観測、通信そして射撃の「神様」がそろっていなければ、話にならないのが砲兵の世界だった。

 熟練した兵員がいなければ戦力が発揮できないことは、程度の差こそあれ、どの兵科も同じだ。技術の面の問題がそう大きくない歩兵科だが、ここにも「神様」がいないと困る場合が多い。日本陸軍において歩兵の火力を支えた擲弾筒(手榴弾を投射する簡便な迫撃砲)を自由自在に使えるようになるには、徹底した錬磨が求められた。重機関銃の射手も同様で、火器の整備補修にも名人がいる。ほとんどの故障をヤスリ一丁で直してしまうのだから、これは名人というより「神様」だ。

 このような世界で大量動員ということになると、育成に時間がかかる名人芸の職人が足りなくなる。名人級がいないと戦力を発揮できないといって、新編部隊はその割愛を求め続ける。既存の部隊は新編される部隊に優秀な人材を割愛するというのが「編成道義」だが、これはまず守られない。有能な者を転出させてしまえば、自分たちの任務遂行に差し障るという立派な理由があるからだ。

 とくに前述した砲兵科では、この傾向が顕著だったようだ。その結果、新編部隊には腕がよい者が回ってこないことになり、戦力発揮が期待できない結果となる。そこで新編部隊は、あれこれ手間がかかる間接射撃を敬遠し、砲車を敵前に引っ張りだして直射するばかりとなる。日華事変という非正規な戦争を続けたことで、軍隊の質は劣化したが、そのなかでもっとも問題だったのは砲兵科だと指摘する声が多かった。

 急激に膨張した航空の世界も、陸海軍ともに大きな問題を抱えていた。航空機の搭乗員の育成には長い時間と多額の経費を必要とし、平衡感覚など適性の問題があってだれでもよいというわけにはいかない。そういうことで平時は大量育成は無理とされ、錬磨主義により「一騎当千」を育てていた。こうした事情は世界各国で共通していた。日本は徒弟制度による職人の育成は得意の分野で、空中戦、雷撃、急降下爆撃、水平爆撃、偵察、航法とどこにも達人がいた。また、各航空隊、飛行戦隊にも「神様」がいて、隊長の名前は知らなくとも、「神様」の名前を聞けばどこの部隊かわかるぐらい広く知られていた。

自動車の運転で機械に馴染んでいたアメリカ

 これに対して米軍は、空軍の急速な拡張のためにパイロットの大量循環・大量育成に挑んだ。もともとアメリカの青年は自動車の運転で機械に馴染んでいたため、これが米軍の強みとなった。米軍では第一線で実績をあげたエース・パイロットを後方に下げ、教官として後輩の育成に当たらせるシステムを作り上げた。これは『呉子』治兵篇が説く、「一人学戦、教成十人、十人学戦、教成百人……」=[1人が戦いを学べば10人を教え成し、10人が戦いを学べば100人を教え成し……]の実践だ(前掲『中国の思想第一〇巻 孫子・呉子』)。米軍が採用したこの育成手法を知った日本軍は、これを機械主義と名付けた。

 この要員の大量養成と航空機の大量生産とをもって米軍は、日本軍を航空消耗戦に引きずり込んだ。当初は日本軍の錬磨主義と米軍の機械主義が拮抗していたが、いつしか多勢に無勢の「数は絶対」となり、どんなに卓越して神の領域に達していた搭乗員もいつかは食われてしまう。これを補充しようにも、とにかく「神様」なのだからすぐにとはいかず、部隊の戦力は低下の一途をたどる。

 では日本はどうすべきだったのか。空戦の達人を1年も南方戦線に縛り付けて消耗させてしまうのではなく、機を見て内地に呼び寄せ、休養を取らせつつ後進の教育に当たらせ、また戦線に復帰させるというローテーションを確立させれば、また違った結果となっただろう。優秀だからといって一方的に負担をかけ続ける戦い方は、一時的には成果を収めるだろうが、永続的にとはいかない。才能のある者ばかりを酷使し、結局戦力をなくしてしまったのが日本軍だった。

(藤井非三四/Webオリジナル(外部転載))

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

動員率があがったことによって、本来ならば徴集してはならない者、出征させてはならない者までも公民権があるからと徴集して戦地に送ってしまった。そして再犯を繰り返す犯罪的な性向が顕著な者、反社会団体の構成員、知能に大きな問題を抱える者、変態的な性癖を有する者も員数合わせで混沌とした大陸戦線に投入したのだから、問題が起きないはずがない。しかもそういったアウトローを統制する仕組みがないのだから、これらが軍隊に流した害毒は深刻なものとなった。とくに敗戦後、俘虜収容所の多くが暴力に支配されてしまったことは、問題の大きさを明確に証明している。

これも明治維新の毒であろう。

そもそも日清戦争も、日露戦争も「しなくても済んだ戦争」であり、日露戦争は特に「しなくても、交渉を続けていたら、熟れ柿が落ちてくる」って状態だった。


でも潜在的英国領日本=天皇カルトは、戦闘奴隷であることが、命令され、天皇・皇族はなんせロンドンに留学。
まあ植民地ですは。


で、敗戦後に、「殴って黙らせるのが正しい」って軍隊で覚えたものが教壇に立ってきたのが、日本の学校教育なのですは。




無謀な動員を続けて、それの動員兵を統率できない軍隊。

いや、急に膨張した軍隊を統御するのは、至難の業。

もっというと「上官の命令責任」があいまいで無いような「法治の機能が壊れている」天皇制においては不可能である。

今の「教育の崩壊・学校の荒廃」も、「天皇」という邪神を奉じ続けた結果なのである。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?