天皇が破壊する日本人。

より

上記文抜粋
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「うるせぇんだヨォ、ついてくんな!」3歳の子どもに回し蹴りする母親も…80年代以降、急速に進んだ「母親の劣化」

子育て電話相談から見えてきた母親の変容

人間も哺乳類で、発情期があったとのだと再認識したのが、80年代から90年代のドラマ『金曜日の妻たち』や『東京ラブストーリー』『ラブジェネレーション』などがヒットした頃でした。トレンディーなファッションと会話、自由奔放な若者たちの生き様、略奪愛や不倫愛、告白やら自己チューが盛り沢山のイケイケ脚本で、それまでのドラマがくすんでいるというか、古風に思えたりしましたね。

昭和人間から見れば、「節操がない」し、「両親の立場や世間体も考えないと」だし、「板挟みになっている子どもが可哀想」なストーリーなのですが、「あんなふうに自由に主張して、行動してみたい」「母親である前に女でありたい」思いが吹き出していたと思われます。

筆者は80年代から出版社の子育て電話相談を22年担当していましたが、毎月、データ集計や分析検討会を繰り返していくうちに、当時の社会背景や事件、小説やドラマに影響されるのか、「相談の内容や母親の発想やライフスタイルのタイプ&パターンが5年単位ぐらいで変化していく」と感じていました。

例えば「我が子なのに可愛くない」という相談は、80年代前半では「子どもを愛せない自分を許せない、努力して変えたい」という自省的で、まっとうな人がほとんどでした。それが80年代後半のバブル最盛期には「子どもから離れて息抜きしたい、勉強したい、友達と会いたい」と、まだ希少で料金も高額だった訪問型ベビーシッターに関する問い合わせが増えます。「無料の託児付き」の公民館や劇場、音楽会の催しはいつも予約が満杯になりました。

母親の残業や、不規則な就業時間の仕事に就く女性のために繁華街や駅近のビルの一室を利用した24時間営業の「ベビーホテル」が乱立して社会問題になりましたが、行政は「必要悪」として見て見ぬふりでした。

共働きを継続したい妻&継続してほしい夫

この頃、子どもが同級だったり、スポーツクラブのチームメイトだったりする縁を生かして、「ママ友」グループの共助が母親たちの孤立を救います。お互いに子どもの預かり合いをして通院や突発事故などに対応し、趣味や学習の時間を作りあうなど、モーレツ仕事人間のパパの不在をカバーしあっていました。

90年代に入ると「素人の自分より、子育てのプロである保育士に任せたい」と産後1ヶ月すぎると6畳一間にベッドが5つ置かれた無認可託児所に預けたり、親がいるのに乳児院(!?)への入園を希望して打診する人が続々と現れます。バブル景気は崩壊しましたが、「子持ちでも稼げる」経験をしているし、家計不安もあって出産後も収入を減らすことなく「共働きを継続したい妻&継続してほしい夫」が増えたからでしょう。

入園期でない年度途中で産休明けの乳児を預かる保育園は少ない上に、(巷の噂では)0歳児保育の対象は正規雇用の教師や公務員が優先されているとのこと。翌春の入園を待機するため、乳児のみ預かってくれる保育ママ宅を探し求めたり、条件が悪いのを承知でベビーホテルに入れたりもしました。探しあぐねて祖母や親類縁者に自宅まで通ってもらったり、遠ければ泊まり込んで世話をしてもらうことも珍しくありません。ワーキングママにとって、暗黒時代の夜はまだ明けていませんでした。

今では当然の権利とされる「育休」は、1991年に「育児休業法」として義務化されるまで、「母子の身体的回復と、親子の愛着関係を作るのに時間が必要」という概念すら世間にはありませんでした。「産休」は産前6週、産後6〜8週でしたが、職場では祝福されるより迷惑がられる雰囲気が強かったそうです。切迫流産や切迫早産などの療養は法律で守られているはずなのですが、「子どもの命の方が大事だろう」と周囲に迫られ、泣く泣く職場を去ったケースも数知れません。

順調に妊娠→出産と運んでも、短期間で職場復帰できるまでに産婦さんの健康が回復するかどうかは個人差がありますし、赤ちゃんの生育状況にも影響されます。産休の3ヶ月間で全部解決!というラッキーなケースでない場合、母親たちの人生航路は大きく変わっていきました。

「ボキャ貧」な母親の増加

20世紀に共通していたのは「男は仕事、女は家庭」の役割分担が浸透していて、「仕事なんか辞めて育児に専念すべき」という同調圧力が凄まじかったことでしょう。カルチャーセンターに女性たちが殺到して、才能と鬱憤の発散場所になっていたのもこの頃でした。

筆者の体験ですが、20代で2度の出産とも妊娠高血圧症でダウン。退院後は家事の手伝いもないまま産後の肥立ちが悪くて10kgも痩せ、睡眠不足と不慣れな育児の疲れで、「育児ノイローゼ(産後うつ)」になり、仕事に復帰できたのは3ヶ月後でした。ワンオペ育児で何度も高熱を出して倒れては夫の家族に「ハズレの嫁」と嫌味を言われ、ボロボロになりました。

身近に子どもを一時的に預けて熟睡できる「無料のママおやすみ場」があったら……、安価な「ママ食堂」があって、産後の回復期に家事・育児からいっとき休めて栄養価のある食事を一日一食でもとれたら……、もう一人産めたかもしれないと、今でも思います。

(注)産後に鼓舞激励されても、崖っぷちに追い詰められたような孤独感でいっぱいになる体験は、狩野さやか著『ふたりは同時に親になる』(猿江商舎)にも夫婦のズレと一人ブラック企業で崖から落ちかける状況が詳しく描かれています。

母親のタイプですが、90年代に入ると「ボキャ貧」と呼ばれる人が増えました。彼らは言葉で自己表現をするのに慎重に語彙を選ばず、現代ならスマホで既成の絵文字を添付するように、ポンポンと口から感情的な単語を発します。「アタシ、子どもって大嫌い!ギャーギャーうるさいし、手間かかるしぃ、消えて、死んで」なんて稚拙な表現をする母親もいたのです。

筆者もショッピングセンターの入り口で、泣きながら後追いする3歳ぐらいの子を「うるせぇんだヨォ、ついてくんな!」と回し蹴りしたヤンキーっぽいママと大喧嘩をしたことがありました。本人曰く、「愛はある、ヨロシク!」「消えろ、ババァ」と、たった4語の省エネ喧嘩で、明らかにボキャ貧。一緒に暮らす子どもの方は年齢的に「ボキャ貧」だろうから、泣く以外に伝える手段がなかったのでしょう。

そのショッピングセンターには客が買い物しやすいように一時間だけ乳幼児を預かる保育室があったのですが、何時間も置いてきぼりの子が増えて閉鎖になりました。公的なことと私的なことの区別がつかないか、混同している。「恥ずかしい」という意識が持てないし、自分を表現する言葉にも詰まります。

タバコと酒を求める母親たち

「母親だって子育て中に遊ぶ権利があるし、酒もタバコものみたい」という本音が噴出したのも90年代半ばのこと。「どのくらいの酒量なら母乳にアルコール分が含まれないか」「タバコは何本まで室内喫煙が許されるか」という科学データの問い合わせ相談が毎日のようにきました。

「本当はタバコの本数やビールの量を尋ねているのではなくて、触れて欲しいのは別のことではないか?」という疑惑が相談室スタッフの話題になりました。

ともかく「ボキャ貧」なのです。自分の考えていることが、単語は出ても文章にならない。できれば周囲に察して欲しい。ついでに誰かに文章化して欲しい。そうすれば難しい単語や熟語で文章を組み立てないで済む。まるで、外国に行って単語だけ並べて、なんとか意思疎通するような雰囲気です。

対話だけではなく、人間関係も頭を使わない省エネで済ませれば、ゲームや遊びや楽しいことに時間を使える。その省エネのループが現代の子ども世代に受け継がれて、説明や話し合うより突然の場当たり的反応をして問題を起こしているのではと懸念されます。

社会学者らが「今日の日本の若い女性たちは精神性のミドルクラスとアンダークラスに分化しつつある」と懸念したのも80〜90年代でした。ミドルクラスが「資産や生活が豊な中産階級」で、アンダークラスが「貧困、下層階級」という経済的な意味の分類ではありません。

精神性で分けるなら、「まっとうな育ち方、生き方、暮らし方をして、社会や家庭での自分の役割に責任を持ち、自活力、自律心を備えた人」と、「親の育児態度、環境に問題があり、子どもに自己肯定感が育たず、成育後の生活態度が不安定。依存性が強く、対等な人間関係を作るのが苦手な人(負のスパイラル、貧困のスパイラルとも言う)」に分化します。

80年代初頭の概念では、女性の2割は社会参加して「男性並みに」能力を求められ、責任のある地位や役職でバリバリ活躍し、1割は「かったるくて」沈んでいたアンダークラス。中間の7割はミドルクラスで、素養やコミュニケーション力に長けて「しっかりもの」と評価される「大人として成熟した」人たちでした。

「賢い母」たちがいた時代

この7割がドーンと中核に存在したのは、1960年代までは見合い結婚が半数以上あり、見合いの必須条件として女性側に求められたのが「精神的な成熟」だったからでしょう。あの頃は「花嫁修行」と言いましたが、お花もお茶も踊りも洋裁も、別にプロ級に達する必要はありませんでした。

目当ては「世間一般の常識やしつけ」に詳しい年配の「お師匠さん」や人柄の優れた「先生」に礼儀や会話、仕草、作法を習うことでした。親の言うことは反抗して聞かなくても、人生の先輩から教わることで、世間の決まり事や一般教養が身についていったのも事実です。

1969年にニューヨークから赴任して比較文化を教えたブルワ教授(女史)は「日本にはなんと多くの賢い母たちがいるのだろう。しかも、中産階級、下層階級の全てで賢い母親が多数派を占めている。目覚ましい戦後の復興は、正直で、誠実で、他者にフェア(公平)な自立心のある母親たちが、子どもらにも同じ資質を与えて育てたからできたのでしょう」と褒めまくっていました。

また、当時筆者の恩師だった国際関係学の井門富二夫教授は学生に「同年代の女性の中で、四年制大学で学ぶ機会を与えられたのはたった5%である。国の税金から教育補助や奨学金を与えられた君たちは、卒業後は自分の利益のみを追求することなく、社会の人々のために役立つ義務があり、各分野で次の日本を引っ張っていく人材やリーダーを産み育てる責任がある」と喝破していました。

創始者・津田梅子先生の薫陶「豊な教養と専門性を持ち、広い視野を持ったオールラウンドの女性であれ」がバッチリ刷り込まれていましたから、1970年の英文科209名の卒業生は全員進学か就職をし、その後188名が結婚。大多数が「義務と責任を果たして」次世代を育成し、世に送り出しましたが、こちらは50年前の話です。

90年代には「金のためなら何でもする。ブランドと高価なものがステイタス。女の武器はセックスアピール。バブルは再来する」と根拠なく信じて、バブル期のライフスタイル(荒稼ぎや浪費)を続けた人たちがいて、その結果、「喋る能力もあぶないが、新聞を読むのもかったるいレベル」の母親世代が出現しました。見た目もアホなら中身もアホで、情報も知識も断片的で不正確。自分に不都合なものは見ようとしない。見なければ「無い」のと同じという軽いノリの自己チューです。

「見合い結婚」が衰退した理由

バブル景気崩壊後に「男性と同等の分野」に挑んで翔んだ女性たちもいれば、経済的に、退廃的に沈殿していった女性たちもいて、その結果、7割の「まっとう」だった若い女性の層が分化(今で言うと「分断」)していきました。出産と子育ての中核を成していたミドルクラスが減って、アンダークラスがぐんと増えます。

思えば女性に限らず男性も、20世紀後半までの日本社会では「人間性豊かで教養や学識や品性を備えた人の層」が分厚くありました。その中から芸術家も起業家も社会的リーダーも補佐も出たのです。世界中から日本人の特性と評価された「勤勉さや協調性」「頭脳明晰」は「まっとうに育てられた人」がいかに多かったかという証明でしょう。

まっとうな人が多かったのは、学歴とは無関係に「地頭(じあたま)のいい女性たち」が社会に進出できず、活躍の場がないまま、才能とエネルギーを夫や子供に注ぎ込んだからとも言われます。

つまり、社会でそれなりの立場にいる男性には、「気が利く秘書と意欲的な保育士と教養ある家庭教師」の能力を兼ね備えた「妻」という人がいて、子育てを丸投げできたから自分も活躍できたのですが、それが標準仕様だと思い込み、妻が特別な能力者だと気づきもしません。女であれば多少トロかろうと、語彙力や社会性に欠けていても、母親になりさえすればれば「母性愛が出て育児力がつく」と錯覚したのでしょう。だから、政治家も企業家も、とりあえず赤ちゃんを「増産」して頭数を増やすことしか念頭に無かったのです。

90年代半ばですでに「援助交際」はコスパのいい素人のアルバイトになっていて、それを恥ずかしいとも、人倫に外れているとも思わない層が出現していました。売春の時間は月に数時間ですから、日常の生活の陰に隠れてわかりづらいため、精神性のアンダークラス、つまり沈殿層は目立たたないように増えていきました。

この時期に個人の仲人さんを介した見合い結婚が急速に減りました。世情に通じた良識人にすれば、まっとうな育ち方をしている「しっかり者の娘さん」が少なくなったこともありますが、見た目で「隠れアホ娘」なのかどうかの判別がつきにくくなったのも本当で、「お見合い」から手を引いた方が無難と判断したからではないでしょうか?

2023年の現時点では、この時期よりもっとミドルクラスが上下に分裂してきて、「正直で誠実で他者にフェアである」人物がむしろ愚直に思え、金稼ぎがうまくて自己愛が強い弱肉強食の方を良しとする風潮ができてきたようにさえ思えます。アプリで探す結婚相手の条件が男も女も「経済力」がトップだそうですから、「次世代育成の義務と責任」などは思いつきもしないか、どこかに吹き飛んでいるのかもしれません。

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抜粋終わり

社会でそれなりの立場にいる男性には、「気が利く秘書と意欲的な保育士と教養ある家庭教師」の能力を兼ね備えた「妻」という人がいて、子育てを丸投げできたから自分も活躍できたのですが、それが標準仕様だと思い込み、妻が特別な能力者だと気づきもしません。

女であれば多少トロかろうと、語彙力や社会性に欠けていても、母親になりさえすればれば「母性愛が出て育児力がつく」と錯覚したのでしょう。だから、政治家も企業家も、とりあえず赤ちゃんを「増産」して頭数を増やすことしか念頭に無かったのです。

男尊女卑のミソジニストが、内助の功~っていうか実質的な人間の本業を、軽蔑したことが一因で、

発狂したフェミニストと天皇により脳が破壊された大和なでしこが量産された。

より

上記文抜粋
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なぜここまで短い言葉で若者たちは闇バイトにはまり込んだか?その理由は絶望的な「国語力」にあった
石井光太ルポ

20って20万ですか?やりたいです

闇バイトの存在が、日本全国で起きている特殊詐欺や強盗事件とかかわっていたとして、にわかに注目されている。

俗にいう闇バイトとは、SNSを介して主に2通りの方法で行われる。犯罪集団の方がSNSで略語を使って募集する方法と、SNSで家出や自殺願望についての発信をした個人に対して犯罪集団の方がメッセージを送ってリクルートする方法だ。

共通するのは、犯罪集団が何の関係性もない人間を、ある日突然支配できる点だ。だからこそ、彼らはその人間をコマのように扱って乱暴な指示を出したり、簡単に切り捨てたりする。

実際のSNSで行われるリクルートのやり取りが次だ。

〈運びのバイトあります。1回即金で20保障します。年齢地域不問です〉
〈20って20マンですか〉
〈そうです。リスク対策万全です〉
〈やりたいです〉
〈ケータイ番号、住所、身分証の写真を送ってもらえますか〉
〈はい〉

大半の人からすれば、なぜこんなSNSの短い言葉に簡単に騙され、重大犯罪を起こすのかと不思議に思うだろう。その背景には、彼らの語彙のなさ、理解力の乏しさ、コミュニケーションスキルの脆弱さがある。

私は『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)で、少年院に入っている少年たちが抱える子供の問題について詳しく見てきた。犯罪と言葉という観点から、日本のダークサイドで起きていることを考えたい。

女子少年院で私が尋ねたこと

本書の取材で、東日本にある少年院で、特殊詐欺で逮捕された10代の少女と出会った。

彼女は劣悪な環境の家庭から逃げ出したいため、ツイッターにそのことを書いた上、割のいいバイトをしたいと発信した。犯罪集団はそうした書き込みをリアルタイム検索で巡回していたのだろう。すぐにダイレクトメッセージが届いた。

提案されたバイトは、〈1回につき25万円〉だという。〈1カ月で100万円も夢じゃない〉とも書かれていた。少女はバイトの内容さえ確認せずに飛びついた。そして言いなりになって住所など個人情報をすべて教え、特殊詐欺に加担させられたのである。

女子少年院でインタビューをした際、私と少女との間に次のような会話があった。

――怪しい仕事だと思わなかった?
わかんないです。

――1回25万円は高額だよね。
そう言われたからそうだと思った。

――危険を冒してまで家を出たかった?
たぶん。

常識的に考えれば、こんな割のいい仕事があるわけがない。だが、この言葉からわかる通り、彼女はSNSで届いた言葉を鵜呑みにし、何の疑問も抱かずに言われるままに動き、そして逮捕と同時にトカゲのしっぽのように切り捨てられたのである。

短文でのコミュニケーションは、他の闇バイトの世界でも当たり前のこととして行われていることだ。高額報酬という割には、驚くほどの短文でやりとりし、会話にしたら30秒ほどの内容で、数十万、数百万という単位の闇バイトに引きずり込まれる。

集団自殺の勧誘なども同じだ。相手が誰なのか、なぜ集団自殺を持ちかけたのかといったやり取りすらなく、現場へ向かっていく。

こうした短文でのやり取りに、深い思慮はまったくといっていいほどない。だから、一般的には理解できないほど容易く最悪の事態が起きてしまう。

十分な語彙を獲得できない

私が本書で明らかにしたのは、なぜこうしたことが起こるのかという点だ。

少年院の法務教官など更生にかかわる多くの人たちが指摘するのが、彼らが劣悪な成育歴から十分な語彙を獲得できず、言葉を使いこなせていないということだ。

本書では、これを「国語力」と呼んでいる。文科省は、国語力について、年齢相応の語彙をつけながら、情緒力、想像力、論理的思考力を育て、それを適切に表現する能力と定義している。

人が生きていくには、言葉によって自分の内面と向き合い、物事を想像し、論理的に物事を思考し、それを表現していかなければならない。それができてはじめて周囲に自分を理解してもらい、様々な壁を乗り越えていくことができる。国語力とは、そんな全人的な力なのだ。

なぜ、闇バイトの犯罪に巻き込まれる若者たちは、国語力が劣っている傾向にあるのか。大半の関係者が、その原因を家庭に求めている。

統計によれば、少年院にいる子供たちは、一般と比べて有意に劣悪な家庭環境の中で育っている。それは男子の場合は4割、女子の場合は7割が虐待を受けて育っていることからも明らかだろう(虐待以外の要素を含めれば、親が依存症だとか、親戚の家をたらい回しにされて育ったなど、9割以上は何かしらの問題家庭で育っている)。

こうした家庭では、子供が国語力を高めることは望むべくもない。

たとえば、虐待親から子供が何の理由もなしに四六時中殴られていたとしよう。

そうすれば子供たちは「なぜ叩かれているのか」を考えることも、「なんで叩くのか」と聞くこともしなくなる。理由を考えても答えが出てこないし、親に聞いても殴られるだけだからだ。

あるいは、親が外で遊び歩いてまったく家に帰ってこなかったとしよう。ネグレクトである。

そうなれば、子供は絵本の読み聞かせや会話のやり取りで言葉を育むことができないし、学齢期になっても夜中まで孤独な時間を過ごさなければならなくなる。

見知らぬ人間のDMを信用して

こうした子供たちは、親子関係が良好な家庭で育つ子供たちと比べて、明らかに語彙の量、自分の感情を知覚する力、見知らぬ世界や他者への想像力を広げる力、物事の因果間関係を志向する力が弱まる。つまり、国語力という人間が生きていくのに必要な全人的な力が脆弱になるのだ。

先の女子少年院の少女も同様だ。彼女もまた、親との不適切な関係によって、言葉で物事を感じ、考え、表現する力をつけることができなかった。

それは、幼い彼女にとって家庭での悲しく不条理な日々を生き抜く術だったはずだ。だが、思春期になった時、それは「無思慮」「思考停止」という形として現れ、むしろ社会で生きていく上での足枷となった。

だからこそ、彼女は何も考えずにSNSに不用意な書き込みをし、見知らぬ人間からのダイレクトメッセージをいとも簡単に鵜呑みにし、警戒心を失った状態で指示通りに行動してしまったのである。

こうした人たちは、他人どころか自分すら大切にすることができない。思いやりもまた言葉によって生まれる感情だからだ。ゆえに、彼らはお年寄りをターゲットにし、大金をむしり取り、時には暴力を振るうことにすら無頓着でいられるのだ。

では、こうした国語力の弱さを社会はどうサポートしようとしているのか。非行少年たちの更生の最前線の取り組みについては後篇《少年院で使用されている幼児教育向けの「表情・感情カード」がヤバすぎる…犯罪と国語力の関係について》で詳しく述べたい。

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抜粋終わり

国語が、はっきりしないのは、天皇制だからね。

なんせ「言上げしない」のが、美徳なら、「言語や言葉の厳密さ」や「論理の整合性」など、放置され軽視されるのは必然ですからな。








上官の命令責任 とか



最良証拠主義 とか







国語力が有れば「なんか変だよ日本は。天皇が無謬だから、官僚に過ちが無いってことだろうね。恐ろしいね天皇カルト!」

とわかるだろうからな。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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