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● 自己紹介① 幼少期編_京都在住の画家

こんにちは。
京都を拠点に、絵を描いたり、アクセサリーを作って 生活しています
富永 大士(タイシ)と申します。

https://www.instagram.com/taishi_tominaga/ (日々のアレコレ)
https://www.creema.jp/c/aura_loco/item/onsale (アクセサリー)

この note では 画家 である私自身の体験を通して
「 観たこと / 感じたこと / 考えたこと 」を投稿していけたら、
と思っています。

自己紹介を少し。

私は、現在41歳。
1979年5月12日 ウエサク満月の日 に、熊本県天草で産まれました。
(ウエサク満月=ブッダが 悟りを開き、入滅したといわれている)

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大潮の時に産まれ、
海育ちの母は、私のことを「不吉な子」と冗談交じりに育てました。
祖父も祖母も親族全員、熊本の天草島の出自。

母方の旧姓は「鬼海(キカイ)」。
その名の通り、海に関係が深く
母は、鬼海ヶ浦(きかいがうら/地元の言葉では「きゃあぐら」)という
海沿いの集落で生まれ育っています。
「鬼」は「海賊」という説もあるので、遠い先祖は海洋系の民族かもしれません。

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確たる証拠はないのですが、父母共に
家紋から 恐らく「隠れキリシタン」の末裔の可能性が高いそう。
天草には、教会やコレジョ(神学校)の資料館、隠れキリシタンの痕跡が
未だにたくさんあります。
https://www.t-island.jp/spot/88

私は、大人になってから
父の蔵書の聖書に「クロスは永遠の魂である」という書き込みを発見しています。
→ 父は書き込んだ記憶はなく、もしかしたらこの聖書を譲ってくれた
前の持ち主の書き込みかもしれません。
ちなみに、両親も私も、信仰している宗教を持っていないので、
身近な物に 人の生々しい 信仰の痕跡(書き込み)を見つけた時は、
非常に驚きました。

私のハッキリしている最初の記憶は、2歳

当時父の仕事の都合で住んでいた大阪府茨木市。
阪急の駅前まで田んぼがあり、
夢中でカエルを捕まえて、どっさり持って帰り、
住んでいたアパートの風呂場をカエルだらけにしたこと。
(母からは こっぴどく叱られるw)

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(↑ 2019年 伊勢 瀧原宮にて。いまでもカエルは大好き)

不思議なもので、
カエルが田んぼから いつどのタイミングで飛び出すのか完璧にわかり
それが面白くてたまらなくて夢中になっていました。
何かに没入すると、自己と環境が同一化し、不思議なエクスタシーに包まれるという体験。

あとは、ロウソクが2本立っているバースデーケーキ。
断片的ではあるけれど、ベビーカーに乗って、見知らぬ女性からお菓子をもらった記憶も残っています。(おそらく1歳頃)

大阪の茨木市から引っ越して、

2歳から18歳まで、私は大阪の千里中央という街で育ちました。
日本で最初期に造られたニュータウン

オイルショックの時のトイレットペーパーの買い占め騒動は
この街から はじまった、といわれています。
(原因は、おそらく核家族化と、近所付き合いの希薄化
=自分の家族さえよければ良い、というイマジネーションの欠如)

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(↑千里中央、2019年5月に閉館したセルシー。たくさんのミュージシャン、アイドルの登竜門として、ここのステージでライブをしていました)

私が住んだのは、1970年 大阪万博の時に造られた団地。
団地の前にある小高い山からは、遠くに太陽の塔が見えました。

引っ越して、3歳頃から8歳頃までは、ひどい喘息アトピーを患いました。
特別 空気が悪かったわけではなかったので、精神的な原因かもしれません。

いろんな説があるそうですが、父親が仕事で忙しいと、家族のバランスを取って、
男児が喘息になるという話(迷信?)を聞いた事があります。
就寝時ちゃんと息が吸えなくて、死の恐怖を何度も味わいました。
身体中のかゆみ(アトピー)も たいへん辛いものでした。
(10歳頃には、だいぶ改善しました)

「漢字」がとても好きで、小学校に就く前に常用漢字を殆んど覚えてしまって、
自分で絵を描き、そこから象形文字をつくり、オリジナルの漢字を創って遊んでいたのを覚えています。
(おかげで、未だに常用漢字の書き順がメチャクチャです)

とても内気だったけれど、秋になると、近所の子ども達を招き、
家の周りにあった椎の木から実を採って、母親に茹でてもらい、
皆で外の原っぱでゴザを敷いて食べたりしていました。
(いまでも、友人を工房に招いてパーティをするのは好きです)

幼少期の頃から「死」についてよく考える子どもでした。
印象的な出来事は

● 7歳か8歳の時、当時TVドラマでやっていた「平賀源内」に会いたくなり、
すでに故人であることを知り、
「死」というものが、非常に暴力的に自分という意識をこの宇宙から消し去る
という感覚(よるべない自己)に襲われ、嘔吐したこと。
以後、ずっと「死」については、大人になってから自身の重要なテーマとなる。

● ほぼ同じ頃、家の台所では、ビニール製のアラビア模様のシートが敷き詰められていて、
それをボンヤリ眺めていると、模様が勝手に動き出して、自分がその紋様に埋没してしまい
脱魂状態になってしまったこと。

● 目を強くつむると、漆黒に黄色の格子模様が高速で絶え間なく動き、
その不思議な幾何学模様を視て愉しんでいたこと。

こんな暗い気質だったので(笑)、吃音で赤面症だったこともあり、
とても孤独を抱えた幼少期でした。

絵を描くのが大好きで、得意で、
内気な自分を表現する唯一の「救い」でもあったので、
美術高校(現・大阪府立港南造形高等学校)へ進学。

そして、デッサン力はあり、高校の担任の先生が偶然「推薦人」だったので
運良く 東京造形大学へ推薦入学することになりました。
*東京造形大学は、基本的な学力・技術力(デッサン・色彩構成等)があれば
「推薦人」のレターで、面接のみの試験が受けられました。
https://www.zokei.ac.jp/admission/selected_candidates/

どこもかしこも“ つくられた街 ” 千里中央から いち早く逃げたかったので
両親を説得し、東京へ進学することになります。
ここでも、高校の先生が東京行きを推してくださった事を今思い出しました。(感謝)

進学後は、
大学のある八王子には住まず(苦笑)、渋谷近くの「池尻大橋」に住み、
ほぼ毎日、表参道や渋谷、上野でギャラリー巡りをしました。
私が大学1年生だった1998年当時「ギャラリー360°」や「command N」など
フリーのキュレーターや、アーティスト達が運営するギャラリースペースがあり
次第に そういう場所にボランティア・スタッフとして出入りするようになりました。

特に「command N」では、
主宰の現代美術作家である 中村政人さんのスカイザバスハウス( https://www.scaithebathhouse.com/ja/
での個展の搬入のお手伝いをさせていただき、
10代の早い段階で現代アートの現場を肌で知ることができました。
今でも とても感謝しています。

*中村政人さんは、
現在 東京の千代田区で「アーツ千代田3331」をつくられ
作家のみならず様々な活動をされています。https://www.3331.jp

また、「command N」では、
故 針生一郎さん(美術評論家)や、山形浩生さん(評論家・翻訳家『21世紀の資本』等)、
藤浩志さん(現代美術作家・十和田市現代美術館元館長)
また、様々な国のコンテンポラリーアーティストたちとお会いする機会があり
19歳当時の私は若すぎたので、お話にもならなかったけれど(汗)
アートについて、決定的な薫陶を受ける事になりました。

長くなってしまったので、続きの自己紹介はまた別の機会に。
「大人編」として、アップいたします。

制作風景

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

なるべく面白い情報を共有していこうと思っていますので
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タイシ 於 京都  6/15 , 2020

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