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富士山に登ったって話

大学生活最後の夏も最終盤にさしかかり、とうとうほんとに大学生終わりに近づいてるんだなーと感じている今日この頃。そしてつい先日、人生のうちに一度は登りたいと思っていた富士山に、高校の友達4人と登った。

なんで登りたかったのか?

結論から言うと、なんかずっと直感的に登りたかったから。
静岡県で小・中・高校と20年近く育ってきて、毎日ではないけれど、天気の良い日は学校から富士山が見えていた。どこか遠出をするとき、特に母方の実家の山梨に行くときや、東京に行くときは自然と富士山を横目に通り過ぎていた。

自分の生活の中になんとなく遠いようで身近にあって、でもその実態がわからない山。それが僕の中の富士山だった。
だからなんとなくずっと直感的にこいつ一体なんなんだろうって直感的に好奇心が湧いていた。そして大学生になって、日々の日常や生活が完全に「自分のもの」になり、自分のしたいことややってみたいことに時間を使うようになったからこそ、4回生になってすごく富士山に登ってみたいなあと思いが行動に変わったんだと思う。

登山の感想

クソ寒い。しんどい。きつい。五合目の時点でうっすら寒くて、7合目すぎたあたりから、豪雨も相まって、クッソ寒くて、やっとの思いで山小屋に着いたけど、山小屋の中もまあ寒い。山肌はゴツゴツで超絶歩きにくいし、風は強いし、靴は壊れるし。途中からは一歩一歩歩くだけで息が乱れるわ乱れるわ。
もう一生登りたくねえ。これが下山して一番最初に思ったこと。
でもそんな超絶しんどかった富士登山の中で気づいたことが二つある。

気づいたこと

①登山中、モノやヒトへの感謝が半端なくわかる。ということ

食べ物はもちろん、トイレやお風呂、エアコンなどの文明の力が富士登山中はものすごく制限されるからこそ、そのありがたみは半端なかった。パイン飴ってこんなに味濃かったっけっていうくらい食べ物の味に敏感だった。

また一緒に登った友達がおやつを分けてくれた時のありがたみや、靴が壊れた時になんだかんだめちゃくちゃ助けてくれたり、お互いがお互いの様子を気遣って登山している感じが、なんか感動的だった。靴が壊れて明日どうしよって思ってたら、山小屋の人が本来売っているわけではない靴を売ってくれてほんとに物凄く助かった。

日常から物凄く制限されているからこそ、いつもより強く、たくさん感じられたことがあった。

②富士山は想像を超えて「自然」だった。ということ

自分にとって謎めいていた富士山を知りたい、経験したいという思いが強かったからこそ、ここの衝撃は大きかった。
富士山は僕が人生で経験した中で最も「自然」だった。

登り始めにあった木々は標高が上がるにつれてなくなり、降ってくる雨は横殴りで痛いし、冷たい。岩だらけで一歩踏み間違えたら、自分なんか一瞬で死んでしまうんじゃないかという山肌。気を許せば飛ばされてしまいそうになる暴風。
自分という人間がいかにちっぽけで、いかに弱くて脆いものなんだなという恐怖をすごく感じた。

その一方、夜明けの空はみたことのない逆に目に焼き付けられるような景色、富士山の上から見る辺り一面に広がる雲海。
まるでジブリの世界なのか、まぼろしなんじゃないかと感じてしまうような景色にすごく心が揺さぶられた。

終わりに

初めて富士山に登って、これまでただ謎でしかなかった富士山のことをすごく知れた気もするし、余計なんなんだろって感じたり。自分の理解の範疇からは大きく逸脱した存在だということだけはわかって、登ってみて良かったなーとすごく感じている。登山直後は一生登りたくないと思ってたけど、もう一回くらいなら登ってみてもいいかもしれない。

今回の文章は何も考えず、ただ適当に感じたことを書いただけの文章すぎて、自分でも読み直してなんじゃこれってなってます笑。まあたまにはこんな感じの頭ではわからないことを言葉にしてみようとするのもありなのかと。

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