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多くの大人が忘れてしまった、子どもなら皆んな持っている感性
娘が1歳になったのですが、子ども見ていて気づかされるというか、気づいたところでもはや”時既に遅し”だな〜と、自分に対して残念に思うことがある。今回は子育てをする中で、自分と娘の比較して最近感じたことを書こうと思う。
1.磨耗したスポンジと新品のスポンジ
よく人の成長する力を”スポンジ”で例えられることがあるが、まさにその例えの通りで、ちょうど皿洗いをしていて古いスポンジを新しいスポンジに取り替えた時に
”自分”と”娘”
を連想してしまった。
磨耗したスポンジ=自分
新しいスポンジ=娘
磨耗した、くたびれてしまったスポンジは全く水や洗剤を吸収せず泡立ちにくいが、新しいスポンジは少しの水、少しの洗剤でめちゃくちゃ泡立つ。
寝返る
はいはい
立つ
歩く
掴む
ものを使って遊ぶ
などなど、とにかく少しずつではあるが、娘は日に日にできることが増えている。
一方、私は1年間どれだけ成長したか、と考えると・・・娘ほどない、と思ってしまった。成長するという点で、1歳になったばかりの娘に完全に負けてしまった。
子どもって自分では何もできないと思われていて、物理的には確かにそうだが、ものごとを吸収するスピードと量は大人の方が圧倒的に劣っている。もちろん、大人になっても凄まじいスピードで成長している大人はいるが、多くの大人は失っていると思う。心のそこから羨ましいと思うし尊敬する。(娘にというより、子供に)
2.トライできない大人(自分)
話が少し逸れますが、私の父は定年後に治療法がない難病を患い、日に日に歩けなくなっている。60代なのにヨボヨボの爺さんのような歩き方しかできなくなった。しかも、何度が転倒してしまったことで、歩く行為そのものが怖くなってしまい、最低限のこと以上に歩くことを諦めた。必要以上に歩くことを諦めたことで筋肉が衰え、すごいスピードで歩けなくなってきている。能力的にはまだ歩けるのに
歩く→転倒する→怖い
という負の連鎖から身動きが取れなくなってしまった。
一方娘は、一人で歩くのはせいぜい5〜6歩程度。手を引けばボチボチ歩けるが、それでも遠くへはいけない。ただ、子どものすごいところは”能力的にはまだ未成熟”で、まだできもしないのに歩こうとする。それで失敗する。けど、何事もなかったかのように歩くことにトライする。
能力的にはギリギリ歩けるのに、自ら歩くことを諦めた父
能力的にはギリギリ歩けないのに、自ら歩くことにトライする娘
”能力がなくてもトライすることを諦めなければできるようになる、ということに気づかされた”という、ありきたりなことはもちろん思ったが、同時に自分自身が”トライするべきだと分かっていてもできなくなっている”ということに気づいた。
もちろん全くトライできなくなっている訳ではないが、”現時点”では、ブレーキがかかってできないことの方が圧倒的に多い。
3.ああ、そうやって遊ぶんだ〜。知らなかった。
娘の遊び方で、すごい感心したことがある。
積木を組み立てて遊ぶのではなく、積木で"床を叩いて音を鳴らして遊ぶ"
という遊び方。これは冗談じゃなくて、「ああ、そうやって遊ぶことができるんだ」ってホントに感心した。
大人の考える積み木の遊び方は、上下左右に積み重ねるという遊び方。だけど、娘は全く違うベクトルで、音を鳴らして遊んでいた。この発想は考えたこともなかった・・・
「その遊び方違う。積み木はこうやって遊ぶんだと!」と教えようと思ったが、やめた。だって、積み木でどうやって遊ぼうが別に間違ってないし、その時の娘にとっては、その遊び方が一番楽しい遊び方だったから。こうだ!!って決めつける方がおかしい。
これは、積み木の話に限らず結構いろんな場面で、「こうやるんだよ」とついつい言いたくなってしまう。しかし、その考え方は子どもの可能性をすごく狭めてしまう。
ただ、この子どもの可能性を狭めることを未だに堂々とやっているのが日本の学校教育。
今の日本の学校教育は、「このやり方は違う、こうやってやるんだよ。」「これが正しいやり方だと」と教える。それが時代にあっていないのにも関わらず、そうやって教える。
なんであってないのかということは「若者はなぜ3年で辞めるのか」という本にも書いてあった。
学校教育がヤバイ、ということは昨日たまたま見たホリエモンのyoutubeチャンネルでも言っていた。
今、娘は柔軟な感性でいろんなことにトライして吸収して行っているが、学校に行ったらそれが奪われてしまうのか・・・と考えると、本当に学校に行かせたくないと思う。
かといって、私の側にいて、グングン成長できるか、といったらそれも分からない。ついつい、こうやるんだよ、って言ってしまいそう。そうするべき時もあるが、そうすべきでない時の方が多いような気がするが、その見極めが難しい。
4.子育てをする中で感じるジレンマ
新しいことにトライできない、こうだ!という常識に捉われてしまうことは字を書く時にも影響を与える。字を書くときも、なかなか型を破れない。どんなに意識してもイメージ通りに身体が動かない。というより動かせない。もちろん、型通りの綺麗な字はある程度書けるが、エネルギーが伝わってくる生き生きした字が、”今の自分”ではなかなか書けない。娘が何も考えずペンを動かして書かれたものも方が、なんか良い感じがする。
ここから抜け出さないと、次のステージに進めない。
こんな葛藤を抱えながら、少しでも抜け出すヒントを得るために、娘の行動を日々観察する今日この頃でした。
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