見出し画像

この宇宙に独り

訳者コメント:
科学がアニミズムを破壊した後に、私たちが陥ったのは、どうでもいい世界という虚無。世界から疎外された仕返しに、世界の全てを無視し破壊する、そのことにも無関心のまま、崩壊していく世界を傍観している。科学というドグマの中からは、ここを脱出する道は見えてきません。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.8 この宇宙に独り

消えろ、消えろ、束の間の燈火ともしび
人生は歩きまわる影法師、哀れな役者だ、
舞台の上で大げさに見得を切っても
出番が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語だ、
響きと怒りに満ちているが、
何の意味もありはしない。
        —シェイクスピア『マクベス』

物にすぎない粒子に決定論的な力が作用する世界がどれほど不快なものであっても、生存闘争に根ざした生物学、経済、心理学が、いかに気の滅入るものであっても、ここ数百年もの間、私たちには信じるに足る代案がなかったように思えます。宗教の教えがどうであれ、直感がどうであれ、科学が私たちに教えてきたのは、「悪いけど、世の中ってそんなもんだよ」ということです。リチャード・ドーキンスの言葉を思い出してください。「我々が見ている宇宙が示す特徴は、根本的には設計も目的も善悪もなく、盲目的で冷酷な無関心の他には何もないとしたときに期待される特徴と、正確に一致している。」[33]

言い換えれば、それが科学の冷めた見方なのです。つまり、世界にどんな意味や目的があると思ったところで、本当に起きているのは、基本粒子が非人間的、客観的、決定論的な法則に従って相互作用しているだけです。物事には他の「より高いレベル」の説明が、偶然にも成り立つことはあるかもしれませんが、何事についても最も根本的な説明、つまり本当の理由は、たとえ愛でさえも、煎じ詰めれば「粒子Aが粒子Bに衝突する」ことに帰結するのです。

ダーウィンはその天賦の才能で、決定論的な物質の法則という土台から複雑な生命がどのように展開しうるかを説明し、宗教の最後の砦を突き崩しました。ランダム突然変異と自然淘汰のおかげで、その後の遺伝学と生化学の発展も加わって、生命を説明するのに必要な生気のようなものは、もはや存在しなくなりました。人類が、あらゆる生命が、この惑星に誕生した唯一の「理由」は偶然だけでした。ジャック・モノーは『偶然と必然』の中でこう述べています。「宇宙は生命をはらんでおらず、生物圏が人間を孕んでいたわけでもない。モンテカルロ・ゲームで我々の番号が当たっただけだ。[34]」私たちは宇宙の中に孤独で存在していて、そこに意味があるとすれば私たちが創り出したものだけです。

モノーが著書の別の箇所で鋭く見抜いていたのは、道徳、価値観、倫理の源泉は精霊信仰アニミズムにあることで、それはつまり、真に無生物といえるものは存在せず、あらゆるものには精神と目的が宿っているという信念です。しかし「新しく唯一の真理の源」である科学は客観性の賜物たまものであり、精霊信仰アニミズムを徹底的に混乱させます。モノーが見るところ、現代思想に残る精霊信仰アニミズムの痕跡は、真実を直視することを拒む傲慢な態度なのです。私たちは科学が与えた力と賜物を受け入れますが、その哲学的な帰結を全面的に受け入れるのを拒否するなら、私たちは偽りの生活を送ることになります。科学的客観性について、モノーはこう書いています。「このメッセージを受け入れるなら、そこに含まれる全てを受け入れるなら、人間はついに千年来の夢から覚めなければならない。そうすることで、彼の完全な孤独、根本的な孤立に目覚めるのだ。自分がジプシーのごとく異世界との境界に生きていることに、彼はようやく気づくのだ。その異世界は、彼の音楽に耳を貸さず、彼の希望にも、彼の苦しみや罪にも無関心なのだ。[35]」

モノーの忠告は、彼自身の無意識の思い込み、つまりガリレオによる主観の追放に根ざした思い込みの言い直しにすぎません。私たちは確かに異質な世界との境界に住んでいますが、 その境界を作り出したのは私たちです。科学はその根底で、世界を異質なものとして定義します。ひとたびその定義を信じ、疑う余地のない公理として受け入れてしまえば、極端な分断、疎外、絶望が当然のように続きます。科学のイデオロギーにどっぷりと浸かったバートランド・ラッセルには、出口が見えませんでした。

さらに目的と意味の無いのが、科学が私たちに信じよと提示する世界だ。このような世界の中で、これから私たちの理想は、どこであれ居場所を見つけねばならない。人間を生み出すことになった原因は、それが達成するであろう結末をまったく予期していなかったのだ。人間の起源、成長、恐怖、愛、信念は、原子が偶然に組み合わさった結果にすぎないのだ。どんな炎も、どんな英雄的行為も、どんな強烈な思想や感情も、個人の生命を墓場の向こうまで持って行くことはできない。あらゆる時代の労苦も、あらゆる献身も、あらゆるひらめきも、人類のあらゆる天才的な才能の燦然さんぜんたる輝きも、太陽系が壮大な死を遂げる頃には消滅する運命にあり、あらゆる人間の偉業は必ずや廃墟と化した宇宙の瓦礫の下に埋もれてしまう。これらのことは、議論の余地がないわけではないにせよ、ほとんど確かなことであり、これを否定する哲学は成り立たない。このような真理の足場の中でのみ、止むことのない絶望という堅固な土台の上でのみ、魂の住処すみかは今後安全に築かれるのだ。[36]

少なくともラッセルの言葉は歯にきぬ着せぬものでした。これよりずっと一般的な反応は、「このような真実」を曖昧にし、止むことのない絶望を押し殺すことです。ラッセルの論理には非の打ち所がありませんし、彼の結論が必然的に導かれる科学の神話は、当時の彼を、そして今も私たちを取り囲んでいます。絶望を押し殺す気晴らしと依存症、現代社会の狂おしい速さと空虚な物欲が指し示すのは、内なる空虚、徐々に進んだ主観性の排除の最終的な結末です。ラッセルの感傷から私たちが連想するのは、20世紀初頭にあった古典科学の絶頂で、これは遥か昔、名付けと数が世界から特別さを奪い始めたときに始まった変化の、最終章に過ぎないのです。

世界を我がものにしようというこの壮大な活動の終着点が、自分たちを世界から完全に排除することだったとは、何とも皮肉なものです。人間の領域はすべての現実を包み込むまでに広がっていますが、私たちはこの宇宙に独りぼっちです。

本書の後半に出てくる重要なテーマは、この孤独が幻想であり、私たちの自己定義の産物、世界との関わり方の副産物だということです。あなたの心の真ん中では、そう思っているはずです。たとえあなたの知的見解がモノーやドーキンスと同じであっても、行動はあなたを裏切ります。信念は頭の中の単なる考えではなく、単なる意見でもなく、行動として現れます。私たちは皆、どんな冷酷な人間でも、時おり人生とはそうでないかのように振舞います。シェイクスピアの言葉を借りれば、響きと怒りに満ちているが、何の意味もありはしないのです[37]。私たちは宇宙が完全に無関心だと、あえて信じるかもしれません。私たちは、人生における出来事のほとんどは無作為であり、私たちの存在には何の目的もなく、ニュートンの質量のように運命を変える力も無く、そうありたくなければ、私たちを苦しめている力よりも大きな力を使いこなす以外に方法はないと、あえて信じるかもしれません。私たちの社会のさまざまな構造は、その信念を強化しようと共謀しています。しかし、実際には誰もそれを信じていません。そう分かるのは、私たちはそんなふうに行動しないからです。モノーの言う通り、私たちは心の底では精霊信仰者アニミストなのです。

私たちの心の中の〈知る者〉が知っているのは、私たちの人生における人々や出来事が、言葉にできない論理に従って繋がっていて、まるで神の采配であるかのように、自分という人間から流れ出る運命に向かって、まるで神の計らいのように進んでいき、私たちが誰になろうと選ぶかによって変わっていくということです。一部の出来事だけでなく、全ての出来事が重要であり、無作為な出来事などありません。そう、私はすべての原始文化に共通する「神秘の思考」を主張しているのです。科学はこれに同意しません。科学によれば、もともと存在しないパターンや関係を私たちが無作為な現実に投影しているだけなのです。

この章の前半で述べたことに戻りましょう。「この理屈に従えば、生きているものも含め、宇宙の他の物体は大して重要ではないことになります。それらには自己が持つはずの何かが欠けているのです。それらに適用される道徳は、せいぜいミキサーや時計に適用されるのと同じようなものです。」

でもミキサーや時計にだって道徳は適用されるのかもしれません。ミキサーや時計は、もしかしたら植物や動物や人間より鈍感な機械ではないのかもしれません。科学の理解では、私たちが無生物に抱く愛情は、人間の特質を物に投影した幼稚な考えだということになります。あなたの古い車を廃車解体場に送り出したとき、かわいそうだと思ったことはないでしょうか? 古い野球のミットは? お人形は? 実際には命も意識も無い物質でできているだけなのに、私たちの子供じみた心は、そういった物に人間の感情を移入しがちです。モノーが激しく非難するのはこの幼稚さで、それに追随する声は、より高い科学リテラシー、より技術支配的な社会を求める大合唱です。専門家に任せよう。そして個人として成長しよう。合理的になれ。冷静になれ。理性的になれ。車はただの金属の塊だ。野球のミットはただの革の切れ端だ。でも、この本にはそうではないと書いてあります。あなたの愛情は正当な直感に基づくものであり、くだらない空想などではないと、私は言っているのです。

私が寄り添うのは子供や原始人の直感で、意識とスピリットは、生物であってもなくても、宇宙の全てのものに存在すると見なします。アメリカ先住民の言う「私の全ての親戚」は生物に限られるものではなく、山や岩、滝、湖、風、土までも含んでいます。その全てにスピリットがあり、おそらく生命さえあります。間違いがあるとすれば、無生物に道徳を適用することにではなく、生物に適用するのと同じ道徳を無生物にも適用することにあります。あなたの車に優しくすることは、寒い夜に毛布をかけてやることではありません。現在の私たちはそれよりもはるかに悪い過ちを犯しています。物質世界に対する精霊信仰アニミズム的な愛から切り離された私たちは、それを愛情も愛も道徳も持たずに扱います。精霊信仰アニミズムから切り離された私たちは、道徳を気にかけることもなく世界を破壊します。

私は精霊信仰アニミズムが真実であるという証拠を提示するつもりはありません。それは恋愛に応用してみればわかります。確実性を問い詰めたなら、それを達成する可能性さえも台無しにしてしまうでしょう。そう、あなたの車、野球のミット、人形、あるいはペット、友人、恋人が本当に主観性を持っているかどうか確かめることなどできません。結局のところ、信念は選択に行き着きます。残念なことに、数百年にわたる私たちの選択は、今や時代遅れとなった空虚なイデオロギーによって色付けされたものでした。この世界の神聖な組織化は、もう神という指揮者に頼る必要はなく、神の設計を世界に押し付ける必要もありません。もう意識もスピリットも、機械に宿る幽霊のように、外から注入する必要はありません。新たに生まれつつある科学のパラダイムを活用することで、はるかに壮大な世界観を、私たちは手にするのです。

悲しいため息をつきながら、私たちは自分の心が知っていることから目を背け、〈テクノロジーの計画〉の個人版を自分自身に当てはめて、コントロールされた生活を送ります。私たちが征服する自然には、人間が内包する自然、つまり人間の本性ほんしょうも含まれます。私たちは恐れからそうします。一つ一つの行為や出来事、人、場所、物事に、目的と意義と神聖さがあるという知識に従って生きることが怖いのです。百千万の方法で、文化は私たちに分断のあらゆる前提を受け入れるよう条件づけます。心の奥底ではそうでないと分かっていても、そうであることを私たちは恐れているのです。私たちが恐れているのは、力と質量からなる「盲目的で、無慈悲で、無関心」な宇宙の中の個別ばらばらの存在、ただこれだけしかないことです。

恐怖と内なる知識の両方に突き動かされた人々が、数世紀にわたって見出そうとしてきたのは、決定論的な科学でがんじがらめに縛られた、この一見して断ち切れない状況から抜け出す方法です。しばしば彼らの努力は、「科学がすべてを説明できるわけがない」という単純素朴な強がりに終わります。しかし、謎が次から次へと科学的な説明に屈するにつれて、その強がりはますます絶望的に響くようになり、もしかしたら科学は全てを説明できるかもしれないという恐怖が高まります。もしかしたら〈科学の計画〉は完成するのかもしれません。

懐疑論者のみなさん、ご安心ください。私はここで、説明のつかない謎を持ち出して、それをもとに「ほら、結局のところ神の余地は残されている」と推論するつもりはありません。このような見方は、じつのところデカルト的世界観を微妙に強化するのです。それは二つの領域を想定します。その一つは、(解かれた謎の広大な領域で、実質的にほとんど全てを包含し)物質的で、盲目で、無慈悲で、無関心なものです。もう一つはスピリチュアルな領域ですが、新たな謎が次から次へと科学の説明に屈するにつれて、ますます取るに足らないものになっていきます。いや、真実はもっと素晴らしく、創造神が運営する無関心な物質宇宙や、肉でできたロボットの中で消えゆく一粒の魂よりも、はるかに素晴らしいものなのです。

それは、いまだ解明されない謎があることを否定しているのではなく、神聖さや意味の源としてそのような謎に頼る必要がないということです。実際、〈科学の計画〉のイデオロギーに呼応して新人文主義者たちが遠回しにいうのは、ほとんどの謎はもう解明されたということですが、これは笑止千万です。実際に起きているのは、科学の権威が現実の広大な領域を考慮の対象から外したことですが、その理由は、現象が現在のパラダイムに当てはまらないというだけのことでした。そこで思い起こすのは、ユリ・ゲラーのスプーン曲げの実演に対するリチャード・ファインマンの反応です。「私は賢いから、自分がバカだってことはわかる。」彼が言いたいのはつまり、素人目では分からず、優秀な物理学者であっても見抜くことができないような、巧妙なトリックやステージマジックが隠されているに違いない、ということです。その理由は、本当であるはずがないからです。ファインマンにとって、その可能性は調べてみる価値すらありませんでした。同じことが、広大な「異常現象」の領域にも当てはまります。超常現象、予知能力、ホメオパシー、気功など、定説に反するという理由で神秘の領域から除外されている物事です。そこには俗な(たとえば、詐欺、妄想、ずさんな科学、見落とされた物理的メカニズムのような)説明があるはずだと考える理由が、もう全ては判っているからだという、その理屈は堂々巡りなのです。

ここでもまた、言葉の罠に気付いてください。「俗な」mundaneという言葉は、「世の中の」「平凡な」という意味を同時に持っています。俗なものは、不思議でも神秘でも神聖でも驚くべきものでもありません。この言葉を使うことで、そのような性質が世界そのものに無いことを暗示しているのです。世界が現在進行形で生きている奇跡ではないことを、暗に示しているのです。

フリッチョフ・カプラの『タオ自然学』やイリヤ・プリゴジンの『混沌からの秩序』に始まって、様々な思想家が科学の根本的な基盤に大転換が起きつつあることを証言してきました。 それは〈ニュートン的な世界マシーン〉からの脱却です。20世紀の科学によって、決定論、還元論、客観性、二元論、機械論といったニュートン的な原理は跡形もなく破壊されたという認識が広がりつつあります。私たちが今経験し始めているのはこの転換の影響であり、それが意味するのは確実性の崩壊や、〈科学の計画〉への死刑宣告、分断の体制の終焉に他なりません。それを否定するために、もはや私たちは強がりや直感に訴える必要はありません。科学そのものが発展した結果、その前提を擁護できないことが明白になったのです。同じことが分断という錯覚にも全般的に起きています。全ての嘘は膨張し、その維持のためにあらゆる生命を支配さえする傾向にありますが、そうすることで、なおさらもろく、なおさらはっきりと見えるようになります。今まで自分の立場に深く肩入れしてきましたが、もう化けの皮は剥がれました。個別ばらばらの自己という嘘を維持するために必要なエネルギーは、その利益をはるかに上回ります。私たちは自分を解き放とうとし始めているのです。

第6章では、現在進みつつある第二の〈科学革命〉が、自己と世界について全く異なる概念を示唆していることを説明します。それが必然的に解体させるのは、コントロールの体制、〈テクノロジーの計画〉という野望、生命の金銭化、シュタイナー的な「万人の万人に対する戦争」、そして他の〈分断の時代〉の苦い果実の全てです。

理性的な無神論者であれ、宗教原理主義者であれ、物質世界がそれ自体神聖なものでないという信念は、同じく破滅的な結果をもたらします。それは内面的には、実存的な空虚、宇宙的な疎外感、「止むことのない絶望」であり、私たちはその上に人生哲学を構築しようと試みる他ないのです。そして外に向けて、この内的な荒野を映し出すのは、地球とその上ある全てのものを全く取るに足らない物質の塊としてしか扱わない破壊活動です。世界をこのように定義した以上、他に何を期待できるというのでしょうか? 現実の略奪に対する唯一の歯止めは、私たちが生まれながらに持っている生命への愛の名残です。善意ある人々は、「私たちは環境に依存しているのだから環境を守るべきだ」といってこれを正当化しようとします。しかし〈テクノロジーの計画〉が暗に示すのは、この依存が一時的で、その必要は減少していくということなので、このような理由付けが説得力を持つことはほとんどなく、実際には人間にとっての実利性だけで自然を評価するという根本的なイデオロギーを助長することになります。神聖なものなど無いというのに、他にどんな結論があり得るでしょうか?

人類の略奪、暴力、破壊のどれだけが、機械仕掛けの宇宙に内在する疎外感から生じているのでしょうか? その宇宙では、ジャック・モノーの言葉を借りれば、「人はついに理解するのだ。人間は宇宙の無感情な広大さの中で孤独であり、そこから偶然生まれたに過ぎないことを。彼の運命も、義務も、どこにも記されていないことを。」モノーがさらに書き続けたなら、ラッセルが『自由人の礼拝』で述べているように、運命や義務、ひいては善や道徳や目的は、私たち自身が創り出すものだと言うこともできたでしょう。結局のところ、それらは人為的なものなのだと。

意味の人為性やそれが文化的に構築されるという本質は、文学や芸術について20世紀の思想に大きな影響を与えた脱構築主義の土台となるものです。脱構築主義は、私が述べたようなニヒリズムの空虚さに取り組もうとするもので、かつては客観的な確実さを求める還元主義的な探求を批判するという有益な目的を果たしました。しかし、結局は自らの前提(あるいはその欠如)によって挫折し、不毛で、不透明で、軽薄で、往々にして愚かな文章でできた無意味な書物の山へと堕落していきました。(あるいは、読もうとするたび私がバカみたいに感じるだけかもしれません!)文章、そして文章についての文章、そして文章についての文章についての文章…。またひとつの人工的な領域が、私たちの置かれている領域全体を反映しています。

本書は、現実が私たちの解釈によってのみ生まれるというポストモダニズムの単なる焼き直しではありません。還元主義をすり抜ける全ての特質、つまり目的、意味、秩序、美しさ、神聖さなどは、関連性の作用として有機的に現れ、そこに人間が関わっているかどうかは問いません。脱構築主義者やポストモダニストは、ハイデッガーやニーチェ、サルトルやカミュ、フーコーやデリダのような高い文化的感受性をもつ人々に連なる長い歴史の中の、最も新しい生まれ変わりで、有機的な神性という母体からの分断を受け入れてニヒリズムを食い止めようとしましたが、誰もその分断の前提を本当に否定はしませんでした。ニヒリズム、実存主義、脱構築主義は、全てラッセルの〈止むことのない絶望〉の様々な表現なのです。〈啓蒙主義の新世界〉というきらびやかな約束が、しばらくの間その絶望を隠していました。20世紀になり、その約束の果たされなかったことがますます否定できなくなるにつれ、絶望もまたその醜い頭をもたげました。現代において、私たちが最終的に逃避する道は、無関心、冷笑、そして諦めです。キャンプとキッチュです[訳註]。もう何でもいいや。私は気にしないし、気にしないことは気にしない。あるいは、誰が見てもどうでもいい不条理なことに没頭します。スポーツチーム。リアリティ番組。クイズ番組。連続ドラマ。トリビア。現実世界から完全に切り離された私たちは、その最も無意味な偽物で満足するのです。

ただし、もちろんですが、私たちは満足などしていません。私たちの逃避行が与えてくれる快楽は、絶好調の時でさえ、内なる傷の痛みを和らげるのがやっとです。より一層その弱さが露呈するのは、実生活の危機が押し入ってきたときです。その時、人工的な領域が哀れなほどに幻想だということが明らかになるのです。激情、失恋、喪失、痛み、病気、そして死に向き合わされることで、いくらイデオロギーに芯まで取り憑かれていても、紛れもなく体験的に本物である領域へと私たちは引き戻されるのです。

これが集団的に起こると、危機の集結を目前にして、私たちはかつて夢中になって追いかけていたスーパーボールや有名人を、口をあんぐりと開けたまま振り返ることになるでしょう。なんという世界に私たちは生きていたのだろう? こんな些細なことを、どうしてこれほどまで気にしていたのだろう?

全てがどうでもいい世界で、最も残虐な出来事はもはや恐ろしいことでなく、最も哀れな犠牲者はもはや私たちの同情をかき立てず、核戦争や生態系破壊のような最も恐ろしい可能性も、もはや私たちを脅かすものではありません。私たちはときどき、それを「同情疲れ」なのだと言い訳しますが、本当は現実との断絶です。どれも現実味がありません。まるでスクリーンの中の出来事のように世界が断崖に向かってゆっくりと滑り落ちていくのを、麻痺した私たちはただ座って見ているのです。同じように、私たちは人生の年月が過ぎていくのをただ眺めているだけで、過ぎゆく一瞬一瞬の尊さに関心を向けることはありません。たまに警報が鳴ることがあって、「これは本当だ!これは私の人生だ!私はここで何をしているのだ?」などと、一瞬パニックになります。でもまた私たちを取り巻く環境が、無意識状態へと誘います。

この非現実感が増長させているのが、ニヒリズムの認識されることのない裏側で、それは宇宙を無制限に支配する免許に相当するものです。そこには果たすべき目的もなく、自然の役割も働きもなく、迷信や実用上の一時的な制限を除けば、私たちが本当に自然の「支配者にして所有者」になることを妨げるものは何もありません。自然を支配しようとする意図は、私たちが自分で自分を自然から追放したことの反映なのです。

私たちが支配し、我が物にし、コントロールすればするほど、私たちは自分自身の分断を体験することになります。自分自身の分断を体験すればするほど、支配したい、我が物にしたい、コントロールしたいという衝動が大きくなります。

私たちは、すでに自分が持っているものを力ずくで奪おうとしているのです。狩猟採集民の豊かさと同じように、私たちが最も望むものは、いつでもそれほど努力しなくても手に入ります。自分の持ち物をもっともっと増やそうとする強迫観念は、自分という存在の全てを否定することから生じるのです。私たちはそれ以上の存在だということが、どうしたら分かるのでしょう? あなたと同じように、私もそれを知っています。ある瞬間が私に見せてくれたのです。わざと努力するというわけでもなく、それは突然やって来ました。

半意識的な転換が進みつつあるとはいえ、再合一の時代に向かうカプラのいう「ターニングポイント」(転換点)となるべき分断の極致を、私たち人類はまだ経験していません。でも、あと少しです。かつては自然を自分自身から切り離されたものと考えることさえできないほど、完全に自然の中に組み込まれていましたが、いま私たちが持つイデオロギーでは、自然から完全に疎外されるという以外の結論は有りえません。生命と世界を支配するふりをした私たちの結末が、今この時代に満開の花盛りです。そこは、自然の「支配者」になろうという私たちの野心が、全てを覆い尽くすコントロールの企てとなって現れる世界、自然の「所有者」になろうとする私たちの野心が、全てを覆い尽くすお金と財産という体制として現れる世界です。

この二つの流れは数千年前に遡ります。ついに今、第2章で説明した現実の表象への落とし込みは、生命、時間、世界を貨幣に変換するという究極の表現に近づいていますが、その一方で、〈テクノロジーの計画〉が目指すコントロールは、人間存在のあらゆる側面を支配下に置こうという努力でその頂点に達しつつあります。次の二章では、〈分断の時代〉の完成形であるこれらの現れについて探求していきます。


前< 生命の起源
目次
次> 「我」と「我が物」という領域


注:
[33] サイエンティフィック・アメリカン誌に掲載されたマイケル・シャーマー[Michael Shermer]による引用, 2002年2月, p. 35.
[34] ジャック・モノー [Monod, Jacques,] Chance and Necessity, Vintage Press, 1972. pp. 145-6
[35] 同, p. 172-3
[36] 1903年出版の『A Free Man’s Worship(自由人の崇拝)』より.
[37] この文脈でこの言葉を使ったのは、ウェンデル・ベリーのおかげである。彼の著書『Sex, Economy, Freedom, and Community(セックス、経済、自由、コミュニティ)』(Pantheon Books, 1992年)から「Christianity and the Survival of Creation(キリスト教と創造の存続)」を参照.

訳註:キャンプとは、わざとらしさ・俗っぽさ・泥臭さを意識的に活かした芸術表現で、ドラァグ・クイーンの美意識が代表例とされる。キッチュとは、通俗的・俗悪・安っぽいものを意味するドイツ語で、見る物にとって異文化・異様・意外なもの。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-08/

2008 Charles Eisenstein



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?