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確かさを求めて

(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.4 確かさを求めて

〈万物の理論〉への手がかりがつかめないにもかかわらず、完璧な理解と完璧なコントロールという企ては20世紀の初頭まで全て順調に見えました。電気と磁気の新しい法則は、決定論、還元論、客観性という重要な特徴をニュートン力学と共有していました。これらの法則のもとで、あらゆる現象を理解し予測するために必要となるのは、あらゆる部分に作用する力を全て足し合わせることだけです。

ニュートン力学では、ある系(システム)の初期状態(例えば、砲弾の初期速度と角度、さらに専門的なことを言うなら空気抵抗などの詳細)がわかれば、将来のどの時点における状態も数学的に確実に分かります。古典科学の宇宙は、それ自体がそのような系であり、大小の質量で構成され、同じ決定論的法則に支配されています。宇宙のあらゆるものの状態を十分正確に測定できれば、その未来(と過去)が完全に分かります。宇宙のあらゆるものの状態を測定すれば、全宇宙の未来が分かるのです! 全体の理解は部分の測定によって得られます。部分を知ることで全体を知るのです。これが還元主義の教義であり、フリッチョフ・カプラが「ニュートン的な世界マシーン」と呼んだものの重要な要素です。

決定論的、還元主義的に完全な知識という考えから暗示されるのは、完全なコントロールの可能性です[11]。初期条件をコントロールすれば、どんなシステムでも結果をコントロールできます。結果が予想と異なる場合、それは何か未知の変数があるか、最初の測定に不正確さがあるのです。私たちの知識が不完全なのか、私たちのコントロールが正確さに欠けるのか、そのどちらかとしか考えられません。

〈テクノロジーの計画〉は決定論の原則をり所としています。もし自然が本質的に予測不可能で神秘的なものなら、もし数値による自然の完全な記述ができないのなら、もし同一の初期条件で毎回異なる結果が出るのなら、完璧なコントロールという目標は達成不可能です。〈テクノロジーの計画〉は還元主義も根拠にしています。部分への落とし込み(還元)が不可能な〈全体〉は本質的に神秘的であり、分析が不可能であり、コントロールできるとしても条件付きです。もし私たちが何かを部分の相互作用という観点から理解できるなら、部分に手を加えたり交換したりすることで操作できます。そのとき、それはコントロール下にあるのです。

科学とは、第2章で説明した世界の名付けと計数を論理的に拡張したものです。そもそもの思い上がりは、自然に名前を付け測定することによって、私たちはそれを我が物にできるということです。科学はこの原始的な直感に肉付けするため、あらゆるものに名前を付け測定することができれば、本質的にはあらゆるものに数学と演繹えんえき的論理の道具を適用することができると言ったのです。言語の最終目的地、つまり宇宙のあらゆるものの分類と命名と、数の最終目的地、つまり宇宙のあらゆるものの測定と定量化は、今やあらゆる分野を定義している専門用語の氾濫や、事実上「ソフト・サイエンス」を侵略した定量化の企てとして、科学に現れています。

ニュートン以後の数世紀、「科学」という権威ある称号を目指した探究分野はますます増えていきました。科学のカテゴリーは、生物学、医学、考古学、人類学、経済学、社会学、心理学へと拡大し、定性的で主観的な領域を徐々に呑み込んでいきました。化学は物理学に落とし込まれ、生物学は化学に、生物は細胞に、脳はニューロンに、経済学は個人の行動へと還元されることになりました。この目的は、全ての科学の基礎を、公理系として表現された物理学の確実さに置き、数学の絶対確実性を拝借することでした。

現在に至るまで、科学としての地位を求めるあらゆる思索の分野は、正統性の根拠を数学に求め、直接に、あるいは肥大化した専門用語を使うことで、演繹的推論という方法に基づく正確な意味を持っていると暗示します。論文の冒頭で「定義を述べる」とか「前提を述べる」などと書きたくなる衝動に駆られるたび、私たちはこれを受け入れてしまいます。それが公理的手法のあからさまな模倣だからです。同じ還元主義的な考え方から、教育では「分析」を強調しますが、それは文字通り切り離すことを意味します。状況を分析するとは、それを構成要素に分解することです。それは私たちが集団として行っていることでもあって、知識が分裂して分野に、さらに下位分野、専門分野、そのまた下位専門分野ができていきます。

物理的なものへの直接の還元が不可能な場合、科学を目指す分野は代わりに物理学を模倣することになります。したがって「社会科学」で絶えず耳にするのは、歴史の法則、経済学の法則、人間行動の法則のような「法則」や、心理学的な「緊張」、歴史的な「力」、経済的な「メカニズム」、政治的な「弾み」といった言葉です。これらは人間社会に対する工学的アプローチを正当化し、人間社会もまた科学的理性の抽象的手法によって理解し、最終的にはコントロールできるかもしれないという幻想を助長します。はっきりした物理主義の比喩が存在しない分野であっても、確かさを求め、物理学と同じように複雑なものを単純なもので説明し、測定可能なもの、定量化可能なもの、制御可能なもので説明しようとする還元主義的な活動が続いています。

経済学を見てみれば、合理的利己主義という「法則」をその原子単位である個々の人間に適用しています。需要と供給のような高次の法則は、低次の法則から派生しているという点で、惑星運動の法則に似ています。公理が決まれば、あとは全て数学です。もちろん、経済学では「初期条件」に基づいた正確な予測ができないことから、数学的な確実性を求めてもなかなか成功しないのはよく知られています。しかし経済学者は自分たちのテーマが数学的手法になじまないと結論づけることはせず、その反対に、彼らは数学化がまだ十分に進んでいないだけだと考えます。おそらく、もっと良いデータがあれば、あるいはまだ把握されていない人間行動の様々な変数をもっと正確に特性分析できれば、経済学はついに科学的な装いを本物にできるだろう。

還元主義の企て全体の根底にあるのがまさに「万物の理論」で、それはニュートンの万有引力の法則の現代版であり、既知の力を全て包含するものです。ここから、化学、生物学、心理学、社会学、地質学、宇宙論に至るまで、あらゆる高次の法則が段階的に導き出され、あらゆる疑問が物理法則とデータから数学的に推論可能な科学の問題となるのです。この野心を科学革命の黎明期に表明したのはライプニッツでしたが、彼はこう書いています。「もし論争が起きたとしても、二人の哲学者の間で論争すべきことは、二人の会計士の間で論争すること以上にはない。互いが鉛筆を手に取り『計算しよう』と言えば十分だからだ。」[12]

もちろん、このような自然の数学への還元は、その下にある数学と同じくらいの力と信頼性しか持ちません。〈科学革命〉の時代、数学は絶対確実な知識の源と考えられていて、カントの「必然的真理」は、それ以外あり得ないというものですが、これとは対照的な経験的観察による「偶然的真理」は、別の何かを一貫性をもって想像することもできます。(言い換えれば、2+2=4は、それ以外あり得ない必然的真理である一方、異なる物理法則をもった世界は想像できるので、こちらは偶然的真理なのです。ここでも客観性が暗黙の前提となっているのがわかります。それはつまり、物理法則について思い巡らす私たち自身とは別に、その法則が存在するということです。)数学は科学という殿堂全体の基盤なので、20世紀初頭には公理的基礎の上に数学を打ち立てるため多大な努力が注がれました。この企ては1930年代、第6章で述べるようにゲーデル、チューリング、チャーチの研究によって壁に突き当たりましたが、最も信頼でき最も有効な知識は数の形で表せるものだという一般的な暗黙の前提の中で、〈ニュートン的な世界マシーン〉の他の部分と同じように、今も影響力を保っています。

決定論が切り開くコントロールの世界は、科学技術をはるかに超えて広がっています。政治においても、そして個人生活においても、コントロールは同じような基盤の上に成り立っています。それは、世界についての正確なデータに基づいて力を行使することです。したがって、権力に貪欲な政治家や全体主義の政府が情報の流れをコントロールすることに執着するのは、彼らの考えでは、知識は力だからです。同じことが支配的な性格の持ち主にも当てはまります。彼らは内部情報を知りたがり、あなたの秘密を知りたがり、自分の見えないところで何かが起こるのを嫌います。

知識が情報と等価であるというのは、ニュートン力学とともに生まれた世界観の直接的な帰結です。私たちは、ある状況に関わるすべての「力」を発見しようとし、それを知ることで、十分な力さえ持っていれば、結果をコントロールすることができます。物理学であれ政治であれ、力と情報を足したものがコントロールに等しいのです。

次にニュースを読むときは、この公式を覚えておきましょう。力 + 情報 = コントロールです。

じつは、この戦略はある限られた状況でしか機能しません。結果が原因にフィードバックするような非線形のシステムでは惨めに失敗します。小さな誤差が大きな不確実性を生んで予測不可能な結果をもたらすのです。事態はコントロール不能に陥ります。ニュートン的な考え方にとらわれている私たちは、コントロールを強化する以外に対応するすべがありません。[2008年当時、9.11事件から始まったイラク戦争を正当化していた]ブッシュ現政権はその好例で、以前の嘘や操作の影響をコントロールするために、必死に嘘をつき、隠し、情報を操作しています。また私が思うのは、崩壊しつつある人生をなんとか持ちこたえようとする依存症患者や、増え続ける不倫の証拠を隠そうとする配偶者のことです。ニュートン的な理屈からいえば、これでうまくいくはずです。それはただ徹底的にやるかどうかの問題で、失敗の原因となっている可能性のあるものを全て見つければ良いのです。十分な情報と十分な力があれば、どんな状況にも対応できるはず。

それを「解き明かす」ことさえできれば、私の人生もなんとかなるかもしれない。十分な力、十分な意志さえあれば、自分の欲望のイメージどおりにできるかもしれない。ふたを開けてみれば、集団的であれ個人的であれ、その約束が詐欺なのは明らかです!

別の見方をするなら、もっと努力したところで決して上手くいかないということです。でもそれが、個人レベルでも集団レベルでも、失敗に対する私たちの典型的な反応です。新年の抱負を果たせなかったとき、私たちは何と結論するでしょうか? 努力が足りなかったのだ、意志の力が足りなかったのだ。同じように私たちは、以前の技術、法律、用心が失敗した場合でも、もっと多くの技術、もっと多くの法律、もっと多くの用心深さがあれば成功するかのように振る舞っています。でも現在の状態からもっと努力することは、その状態を強化することにしかなりません。より多くの力を行使することで、力を行使するというメンタリティーが助長されるのです。分断から生まれた方法は分断を悪化させます。第一次世界大戦が「全ての戦争を終わらせる戦争」だと熱狂的に信じられていたのを覚えている人はいるでしょうか? それが大失敗に終わったにもかかわらず、現在の「テロとの戦い」でも同じ理屈が生きています。

科学のおかげで、私たちは世界についてかつてないほど多くの情報を得ています。テクノロジーのおかげで、力を加える能力もかつてないほど向上しています。しかしコントロールの技術は何世紀にもわたって進歩してきたにもかかわらず、生態系、社会、政治の状況を改善できたかというと、全体としてほとんど進歩が見られません。それどころか、私たちの地球は大惨事に向かっています。この失敗の原因は何なのでしょうか? 私たちは、力 + 情報 = コントロール という直線的な戦略を、その適切な領域を超えて適用しようと試みてきました。複雑な問題に直面したとき、技術者や管理者はそれを部分へと分解しますが、そこで各プロセスは個別のモジュールとなり、専門化された一連の機能の一つを実行します。有機的な相互依存とフィードバックは、このような管理統制システムにとって致命的です。有機的な非線形システムのどの部分の働きも、他の部分と切り離して理解したり予測したりすることはできず、その理解や予測は他の部分との関係性の中でのみ可能となります。そのような部分はもはや自由に交換できるものではなく、還元主義の方法論は無力です。

数世紀にわたって採られてきた解決策は、実際には直線的でないものを直線的にしようとすることでした。時には全く悪意無しにそうすることもあります。例えば数学では、解析的に解くことが一般にできない非線形微分方程式の解を、近似的に求めるために数値計算法を用います。もっと悪質なのは、人間社会や人間に直線性を押し付けようとすることで、そうすると必然的に、有機的で伝統的で自律的なものは全て破壊されてしまいます。すべては合理的に計画され、各個人は巨大機械の標準化された個別ばらばらの構成部品となるのです。医学の世界でも、有機的なものを直線的なものに落とし込むことは同じように恐ろしい結果を招きます。これらは私が第5章で述べるように、全体化していく「管理下アンダーコントロールの世界」の2つの側面に過ぎません。

ここで私は、還元主義的な科学やそれに基づくテクノロジーが無力だと言っているのではありません。それどころか科学とテクノロジーは、橋や高層ビルからバッテリーやマイクロチップまで、標準的な部品を使用し一般化された原則に従うことで、私たちの社会インフラ全体を生み出してきました。限りなく多様な自然界を標準的な投入物と処理という有限の集合に落とし込むという戦略が、実際に効果を現すのは、そこに避けがたく残る誤差が問題にならないような用途に限られます。このような実用目的では、一つ一つの電子、一つ一つの鉄原子、一滴一滴の水、一個一個の花崗岩の塊、一人一人の「資格をもつ人材」は、みな同じなのです。このような実用目的では、あらゆる実用目的とはいいませんが、それこそが私たちの成功の招いた妄想なのです。還元主義的科学と合理性そのものは、どちらも自然界の規則性の抽象化に基づくものですが、そのおかげで私たちは、高く天へと向かう殿堂を、かつてない高みにまで建てることができたのです。しかし逆説的ですが、これを始めたときに比べて私たちは天国に近づいたわけではありません。

私たちは直線的な領域を征服し、その領域を宇宙全体に広げようとしています。しかし、生物を含むほとんどの現実のシステムは、絶望的なまでに非線形です。この認識から生まれる、工業技術や一般的な問題解決に対する新しいアプローチは、問題を要素に分解することから始めないというものです。「設計デザイン」という概念全体も、階層的でモジュール化されたアプローチから、自己組織化や創発に基づくアプローチへと進化していくでしょう。そうすることで、ある程度の確実性とコントロールが失われます。私たちの自然に対する関係、人間相互の関係、そして宇宙に対する関係は、根本的に姿を変えるでしょう。この変化は、宇宙との関係において自分が何者であるかという、自己意識の深い変容の一部としてのみ起こりうるものです。私たちはコントロールを手放し、その強迫観念の背後にある恐怖と向き合わねばなりません。ルイス・マンフォードはこう指摘しました。「直接観察しコントロール下に置くことができないもの(コントロールとはつまり外部からの、好ましくは機械的、電子的、化学的なコントロールだが)に対するこのほとんど病的な恐怖は今も存続し、それは遥か古代の〈闇への恐怖〉が先祖返りとして科学に現れたなものなのだ。[13]」コントロールを手放すということは、手懐てなずけられた人間の領域を照らし出す光の輪が定義していた「火の時代」が終焉を迎えることを意味します。私たちは再び暗闇の中へと還るのです。謎と、不確かさと、非理性の中へと。あるいは少なくとも、私たちはもう闇へと踏み出すことを恐れないでしょう。


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注:
[11] 実際、単純な線形システムを除けば、実際問題として、予測可能性も制御も決定論からは導かれないが、このことは過去半世紀にカオス理論が登場するまで広く理解されることがなかった。
[12] この一節は、大学の哲学の授業で初めて読んだとき、私に非常に強い印象を与えた。会計士の間で紛争が起こる可能性はあり、実際に起こっているということを見過ごすべきではない!命題は形式的な体系の中で証明することができるが、その体系と現実との対応は数学的に証明することはできず、経験的に論証するしかない。
[13] マンフォード [Mumford,] p. 72


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-04/

2008 Charles Eisenstein


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