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自然の資本(前)

訳者コメント:
著者のチャールズが「自然資本」と捉えているものは、まさに経済学でコモンズと呼ばれているものだと思います。アメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンが1968年に『サイエンス』に論文「The Tragedy of the Commons(コモンズの悲劇)」を発表したことで一般に広く認知されるようになった概念です。かつて放牧地は誰のものでもない共有地、コモンズでした。牧夫はそこに牛を数多く放牧すれば自分の儲けが増えます。そこでおおぜいの牧夫が自分の経済的利益を最大化しようと無制限に牛を入れると、放牧地は荒廃し、けっきょく誰の得にもならなくなります。現代の漁業でも同じようなことが起きていて、誰のものでもない公海の漁場では「獲ったもの勝ち」なので、たとえこれ以上獲ったら魚がいなくなると知っていても、自分が休漁すれば他の漁船や他国の漁船にその分を獲られてしまうので、魚を取り続けるしか理性的な選択はなくなります。これを避けるためには、正統派経済学の主張だと、その「資源」に何らかの所有権を設定することが必要という結論になります。所有者がいるからこそ適切に管理する動機が生まれるのだといいます。所有者が国なら法律や規制によって管理するか、利用者に免許を与え利用料を徴収することになります。ここで重要なのは、伝統的なコモンズは「獲ったもの勝ち」ではなかったことです。その土地と結びついた人々のグループが「自分の一部」としてその土地を世話していたので、無制限な搾取が避けられていたのです。チャールズが言うように、地球の一部を「他者」と見なすなら、それを搾取し破壊することに道徳的な歯止めはなくなります。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.6 自然の資本

下水管を持って来たのと同じ人々が、数週間ごとにパイン・バレンズの別の一画をお金に換えている。もう何も無くなって、川が最後の一つまで毒で汚染されたとき、ビーバーを殺した責任者たちが思い知るのは、おそらく取り返しのつかない喪失感だろう。それをリックと私は感じていたのだ。(トム・ブラウン・ジュニア)

「全てを我が物に」という運動がこれほど具体的に現れる領域は、自然資本から金融資本への転換をおいて他にありません。自然資本とは地球そのものを指します。地球の鉱物、土地、土壌、海洋、淡水、ゲノム、生物相、つまり人間によって造られたもの以外の全てです。「天然資源」と言いたくなりますが、この言い方にこそ私たちが検証しようとする前提が含まれています。地球が「資源」で出来ていると考えることは、もう既に地球が私たちの物であることを意味し、私たちにとっての有用性という観点から世界を定義し、私たちを地球から分離して引き離すことを意味します。

最も一般的に認識されている自然資本の形は、石炭、石油、天然ガスという化石燃料であり、これらを私たちは加速度的に使い尽くそうとしています。これはトム・ハートマンが言う「太古の陽光の残照」であり、産業社会はこれに依存しているのです。しかし、〈分断の時代〉を転覆させる危機が現在の一点に集結していることの原因に、エネルギー危機が関係していることは確かですが、それは全体像のほんの小さな一部でしかありません。他の形の自然資本の方が、おそらくもっと重要でしょう。第一に、私たちが富をお金に換えることで生じた有害な排出物を吸収する地球の能力です。放射性廃棄物と医薬品残留物、農業排水とごみ焼却灰、二酸化硫黄とオゾン、フロンとPCBを、吸収するのです。かつてはこのような毒の影響が局所的だったり無症状だったりしましたが、現在では生態地域と生態系の全体を脅かしています。まてよ、「脅かす」と言ったでしょうか? それはもう正しい表現ではありません。なぜなら生き物たちの多くはすでに死んでしまい、さらに多くの生き物たちが死につつあるからです。被害が進行すればするほど、その結果を避けることは難しくなります。実際その害はもう私たちにも降りかかっていて、先天性欠損症、自己免疫疾患、ガンの増加という形で現れています。しかし気候システムの撹乱や、健全な生態系に依存する大気の恒常性維持メカニズムが崩壊する可能性に比べれば、大した問題ではありません。

もう一つ緊急の問題は、肥沃な土ときれいな水が失われていくことです。直線的な手法が農業に応用され始めて以来、砂漠は肥沃な土地を飲み込み続けてきました。文明発祥の地である古代シュメールは、かつて〈肥沃な三日月地帯〉として知られていました。今はイラクの砂漠です。北アフリカはかつてローマ帝国の穀倉地帯でしたが、今では全てサハラ砂漠の一部になってしまいました。米国も同じ運命をたどることになります。年間20億トンもの表土が失われますが、それは土壌が作られるより17倍も速く[18]、特に乾燥した西部では、灌漑への依存により広大な土地が塩害にさらされています。一方、化学農法が一因となって土壌ミネラルは驚くほど枯渇し、米国農務省の統計によれば、野菜や果物のミネラル含有量は2世代前と比べて10%から20%にまで減少しました[19]。水に関しては、全ての大陸で地下水位の低下が起きています。黄河やコロラド川のような大河はれ川となるのが普通で、ナイル川やガンジス川はほとんど海まで流れ出ることがありません。アラル海はかつての半分の大きさまで縮小し、塩分濃度の上昇によってすべての魚が死んでしまいました[20]。一方で、世界医師会によれば世界人口の半数以上は飲料水が手に入らず[21]、アメリカでさえ水道水は病原菌を殺すため日常的に塩素処理されています。また、さまざまな発がん性物質、突然変異誘発物質、環境ホルモンで汚染されることも増えています。もちろん、他の共有財産の破壊と同じように、これは絶好のビジネスチャンスなのです。いま最も急成長している飲料のカテゴリーはボトル入りの飲料水で、今やごく普通の商品になりましたが、その一方で巨大企業は世界各地で民営化が始まった水道事業の支配権をめぐり争っています。

このような悲観的なシナリオに対して、実際に水質が改善した五大湖のような例を挙げて反論する人が時々います。そう、一時的で局地的な改善は確かにありました。しかし、非常に多くの場合、汚染は単に輸出されただけです。かつてクリーブランドやミルウォーキーで生産されていたのと同じ重工業製品を中国の工場で生産し、以前と同じ汚染物質を別の河川にまき散らしています。ロサンゼルスの空気の質は改善されたかもしれませんが、バンコク、マニラ、上海での空気の悪化は、その改善を補って余りあるものです。現在では禁止された汚染物質もありますし、撤廃された産業活動もあります。とはいえ、私は決して悲観的な見方をしているわけではありません。私は楽観主義者です。でも私の楽観主義は深刻な状況を無視したものではありません。きっと実現できると私の心が語るような美しい世界を創り出すためには、人間のあり方にも並々ならぬ変革が必要なのです。

消滅しつつある自然資本について、もうひとつだけ触れておきましょう。生物多様性です。地球上の植物、動物、バクテリア、菌類の全てには、一度失われたら二度と取り戻すことのできない膨大な遺伝物質が蓄積されています。ふつう環境保護論者は、このかけがえのない富を守るために二つの理由を挙げます。第一に、多様な生態系はより頑強で、生物圏の恒常性を維持するため、例えば酸素を作るような役割を果たすことがでるからです。第二に、現在絶滅しつつある無数の生物種の中には、貴重な薬効成分や遺伝物質など、人類の役に立つ成分が含まれている可能性があるからです。これらはもっともな理由ではありますが、問題を過小評価しています。科学が学びつつあるのは、ほとんどとは言わないまでも多くの遺伝物質は、発現せず眠っているということです。これはかつてジャンクDNAと考えられていましたが、ここに蓄えられている適応可能性が地球の生存や変革に欠かせないものとなるかもしれません。もちろん、遺伝子がゲノムの中で静かに発現の時を待っているという考え方は、(そこに淘汰のメカニズムが存在しないので)ダーウィン的進化の基本原則に反しています。この推論については後の章で詳しく述べることにします。

人々が自然資本の壊滅的な破壊に気づくようになったとき、彼らは「そんなに悪いはずはない」とか「私には何もできない」と否定的になるか、あるいは極端に恐れて「私たちのやり方を変えなければならない」と考えます。しかし、「私たちのやり方」の原点は、私たちが思うよりずっと深いところにあります。規制を強化したらいいとか地球に対する畏敬の念があればいいとか、より責任ある政府や優れたテクノロジーがあればいいと夢見ることはできますが、悲劇的な事実として、私たちの文明は自然資本の破壊・消滅を逆転させることも、それを遅らせることさえも、構造的に不可能なのです。その破壊は、お金のシステムとそれを支える自己意識から必然的に生じています。

もう一度言いましょう。私たちの文明は自然資本の破壊・消滅を逆転させることも、それを遅らせることさえも、構造的に不可能なのです。これを噛みしめて下さい。このことを本当に理解するなら、文明そのものを再構築する企てにとって強力な推進力となるでしょう。

地球の全ての土地と、地上にあるもの、地下にあるもの全ての征服は、まず世界を物と見なす概念的分断に始まり、それが「資源」への転換を促し、次に「所有物」に、そして最後に「お金」へと転換していきます。古い歴史教科書では、「西部はいかにして勝ち取られたか」が語られましたが、新しく進歩的な歴史教科書なら、北米大陸は先住民であるネイティブ・アメリカンから盗まれたものだという考え方がリップサービスのように語られるかもしれません。しかし先住民から見れば、本当の罪はそれよりもはるかに大きいものです。ヨーロッパ人の罪は、ネイティブ・アメリカンを殺害して「彼らの」土地を奪ったことにとどまらない、はるかに大きなものでした。自分の土地という考えが先住民の心に無かったわけではないでしょう。狩猟採集民の間でも、やはり縄張り争いは決して珍しいことではありません。その犯罪、罪業ざいごう、冒涜とは、人間からではなくもっと偉大なものから、自然から、神から、万物を動かす魂から、おこがましくも土地を奪おうとすることでした。

アメリカはインディアンから盗まれたのではありません。それを彼らが所有したことはないからです。土地は所有の対象ではありませんでした。農耕以前の民族は部族のテリトリーを持っていることが多いものですが、土地を所有するという考えには愕然がくぜんとするでしょう。地球はどんな人間よりも、どんな人間の集団よりも大きな存在ではないのでしょうか? 大いなるものが小さきものに属することができるのでしょうか? おこがましくも地球の一部を所有し、我が物だと言うなどは、先住民からすれば考えられないほど厚かましい冒涜です。地球を所有物に、ひいては貨幣に落とし込むことは、大いなるものを小さきものにすることであり、聖なるものを俗なるものに、神なるものを人間のものに、無限なるものを数値で表そうとすることなのです。冒涜の定義として、これ以上のものはないと思います。

世界中の先住民の大量殺戮が「人道に対する罪」に当たるなら、世界を物として扱うことは「自然・神・魂に対する罪」に当たります。さらに言うなら、前者の犯罪は後者から自然に容赦なく湧き出てくるのです。私たちが誰かや何かを〈他者〉と見なせば、殺すのはどれほど簡単なことでしょう。この二つの犯罪の元凶は、火、農業、機械、そして科学によって次々に後押しされた、太古の昔から続く流れである分断そのものに他なりません。しかし、土地から物への転換を最も強く加速させたのは農耕でした。

土地所有の概念が農耕とともに生まれたことは簡単に理解できます。農耕とは、土を耕し、種を蒔き、草を取り、水をやり、肥料を施すなどの労働力を、土地に投入することです。[22]。農民は自分の労働の成果に対する権利を持っており、彼がそこで育てた豊富な食用作物を通りがかりの誰かが「採取」することに反対するのは間違いありません。しかし、作物を所有することから土地そのものを所有するに至る間には、まだ大きな概念の飛躍があります。土地の「所有者」は王だけという社会もありました。王は半神的な存在と考えられていたため、土地は人間の所有権の領域を超えていると言うのも同然だったのです。初期の土地所有権は、おそらくスチュワードシップ(世話役)として一般に知られている権利に近いもので、人々は土地を耕す意欲を持ち、その労働から正当な利益を得ることができましたが、それはちょうど初期の知的財産権がアイデアから利益を得る一時的な権利を与えることで創造性を奨励するけれど、アイデアそのものを所有するわけではなかったのと同じです。

土地でも知的財産でも、受益権から完全な所有権への転換は徐々に進みました。この転換は概念的なものであり(土地は所有権を認めません)、人間が現実に投影したものだということを忘れないでおきましょう。土地の所有(そして実際、あらゆる形態の所有)は、所有するものの性質よりも、私たちが世界をどう認識するかについて多くを語っています。土地を所有するということが空や太陽や月の所有と同じくらい考えられないものだった初期の時代から、地球のほぼ全ての土地面積が何らかの形で所有の対象となっている現在までの変遷は、まさに宇宙との関係における私たち自身の見方が変化してきた物語に他なりません。

中世後期のヨーロッパにおける農奴制の終焉はその典型です。封建制が貨幣経済に移行し共有地コモンズが私有地に移行する前、土地はほとんどの場合、交換可能な資産ではありませんでした。ルイス・ハイドはこう書いています。

以前はどんな小川でも釣りをし、どんな森でも狩りをすることができたが、今ではこれらの共有地コモンズの所有者を名乗る個人がいることがわかった。土地保有の根拠が変わったのだ。中世の農奴は土地所有者とはほぼ正反対の存在だった。土地が彼を所有していたのだ。彼は自由にあちこち移動はできないが、自分が結び付けられた土地に対しては不可侵の権利を持っていた。今では人が土地の所有権を主張し、それを有償で貸しに出す。農奴が土地から追い出されることはなかったが、小作人は賃料を支払わなかった時だけでなく、単に家主の気まぐれで立ち退かされることもあったのだ。[23]

土地から単なる物への落とし込みを完成させるように、同時代のマルティン・ルターとその一派は、世俗の支配者が統治する際にキリスト教に則る義務はないとしたので、現実は加速的に世俗と神の二つの領域へと分断されていきました。私たちは現実世界の「支配者にして所有者」となり、神を物質的には取るに足らない別世界の領域に追放しました。土地は、世界の他の部分と同じように、もはや神聖なものではなくなりました。もちろん、農民たちは土地を奪われることに抵抗し、ドイツでは農民戦争として知られる血なまぐさい闘争を引き起こしました。財産権が人間関係の領域にまたひとつ侵入し、それに人々が抵抗するたびに、このような闘争は世界中で何度も繰り返されてきました。ハイドが言うように、「農民戦争は、アメリカインディアンがヨーロッパ人に対して戦わねばならなかったのと同じ戦争であり、かつて不可侵であった財産の売買に対する戦争だった」のです。人間関係、土地、水…、次は何でしょう? 空気でしょうか? 空でしょうか? 前節で述べた「永久不滅の商売のアイデア」から必然的に導かれるのはこういうことです。財産として切り離すことなど誰も想像できないほど人生にとって根本的なものを見つけよ。そして何らかの手段で人々からそれを奪い、彼らに売り戻すのだ。

後半に続く


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注:
[18] ローランド・ウォール [Roland Wall,] 『Erosion: Wind and Water, Food and Money(侵食: 風と水、食料とお金)』, The Academy of Natural Sciences(ドレクセル大学自然科学アカデミー), http://www.acnatsci.org/education/kye/nr/kye82002.html
[19] 1975年と2001年のビタミンとミネラルの含有量を比較した米国農務省の成分表のいくつかは、アレックス・ジャック[Alex Jack]著『The Disappearing Nutrients in America’s Orchards(アメリカの果樹園から消えた栄養素)』に掲載されている。2004年12月14日、National Health Federation(米国健康連盟)がオンラインで発表. http://www.thenhf.com/articles_56.htm
[20] レスター・ブラウン[Lester Brown]とブライアン・ハルワイル[Brian Halweil], 『Populations Outrunning Water Supply as World Hits 6 Billion(世界人口60億人突破で人口が水供給を上回る)』, ワールドウォッチ研究所プレスリリース, 1999年9月23日.
[21] World Medical Association Statement on Water and Health(水と健康に関する世界医師会声明), 世界医師会総会, 2004年、東京
[22] 確かに、農業の形態によってはこれらの段階のいくつかを省くものもあるが、土地を(人間にとっての)自然生産力以上に引き上げるために何らかの作業が必要であるという一般原則は、依然として有効である。
[23] ハイド[Hyde,] p. 121


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-06/

2008 Charles Eisenstein


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