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時を計る

訳者コメント:
時計の役割は人間の活動をコントロールすること。時計を持つと時間が足りなくなり人生が短くなる。現代人は遊びを良くないことと思っている。子供を力ずくでそういう生活に押し込めるために、学校などの活動で訓練している。本当の遊びは時間に束縛されない。現代人は強迫観念で常に「生産的」なことをし続けるが、本当は何がしたいか分からなくなっている。時間に縛られる生活は奴隷の生活。本当の奴隷は自由を恐れるように訓練される。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.5 時を計る

現実を数字に変換する、究極の、そしておそらく最も重要なものは、時間の測定です。名前と数字が物質世界にするのと同じことを、時計は時にします。有限なものへと落とし込むのです。そして時とは、人生そのものではないですか? 時とは体験であり、過程プロセスであり、存在の流れです。時を計測し、数字に変換することで、名詞や数字が物理世界を落とし込むのとまったく同じように、私たちは時からその無限性と唯一性を奪ってしまうのです。固有な瞬間の連続を、時間や分や秒に変換し、めいめいの主観的な体験が唯一無二であることを否定します。

時間の管理は、新石器時代に作物の植え付けを計画するための暦から始まりました。暦は太陽、月、季節といった自然の周期に基づいているため、初期の農耕民族がまだ〈自然〉と固く結びついていたように、引き離しの効果は極めて小さなものでした。時間の尺度が直線的ではなく周期的であったため、初期の暦には出来事を記録し、歴史を創造し、人生の年数を数えるという効果はありませんでした。しかし間もなく、遠距離交易と階層的な政府の台頭により、何年にもわたって記録を残す必要が出てきました。エジプト、メソポタミア、インド、中国、中央アメリカで、人々は王朝の始まりなどから年数を数え始め、それによって時間に直線性を導入し、〈自然〉のサイクルから切り離しました。人為的に1日を1時間へと切り刻み(不思議なことに、バビロニア人も古代中国人も12時間制を使っていました)、ヘブライ人が七日の週を発明したことで、この断絶はさらに深まり、ついに円形の時計はデジタル時計に取って代わられ、計測された時間と自然の周期的な営みの間に残された最後のつながりが消えてしまいました。

鉄器時代には1日をざっくりと時間単位で区切るだけで十分でしたが、工業となると人間の活動をはるかに正確に調整する必要があります。中世後期に機械時計が発達すると、産業革命の舞台を作りました。ルイス・マンフォードが言うように、「工業時代の重要な機械は、蒸気機関ではなく時計なのです。[44]」時を切り刻み、最初は時間単位、次に分単位、秒単位と、細かく計れば計るほど、私たちには時間がなくなり、時計が生活の主権を侵し奪い去りました。

時間を守るということは、主人に対する奴隷の義務であり、王に対する臣民の義務です。現在、私たちはみんな、精密さ、規則正しさ、標準化といった、機械の要求によって押し付けられたスケジュールに従っています。私たちは機械を召使いのように考えていますが、私たちが時間に合わせようと常に急ぐことを考えると、本当はそうでないことが見えてきます。

直線的な時間の計測にどっぷり漬かっていると、1日を標準単位へと切り刻む図々ずうずうしさを感じ取るのが難しくなります。その人工の時・分・秒は、自然のプロセスとは意図的に切り離されていて、したがって「客観的」なものです。トマス・ピンチョンの言葉を借りれば、1秒1秒が同じ長さで二度と呼び戻せないという考えは、時計と同じくらい最近のものでしかありません[45]。ポール・カンポスの言葉を借りれば、「ごく最近まで〈午前6時17分〉などというものは存在しませんでした」[46]。

時計は天の動きをの日常に変換します。時間の計測は、人間の自然からの分離を大きく加速させました。マンフォードは次のように論評します。

(時計は)その本質的な性質によって、時を人間の出来事から切り離し、数学的に測定可能な連続する出来事からなる独立した世界への信念を生み出すのに役立った。それは科学という特別な世界だ。人間の一般的な体験に、この信念の根拠となるものは比較的少ない。一年を通せば昼の長さは不均等で昼と夜の関係はだんだんと変化するだけでなく、東から西へ少し移動するだけでも天文学的な時間は何分か変化する。人間という生物そのものという観点から見れば、機械的な時間はさらに異質なものだ。人間の生命自体には脈拍や肺の呼吸といった規則性があるが、気分や行動によって刻々と変化する。そして、より長い日数の中で、時は暦によってではなく、それを占める出来事によって測られる。[47]

じっさい、時計は時を世界マシーンのもうひとつの標準化され交換可能な部品に変え、世界の操作を促進します。このように価値をおとしめられた時間だけが、商取引の対象と捉えられるのです。そうでなければ、限りなく貴重な一瞬一瞬を誰が賃金のために売ったりするでしょうか? 誰が時間を、つまりは人生を、単なるお金に落とし込んだりするでしょうか? ライプニッツの「時は金なり」という無慈悲な言葉は、世界の根本的な矮小化と精神の奴隷化を端的に言い表しています。

1830年のパリ七月革命の革命家たちが、街じゅうの時計を壊して回ったのも驚くには当たりません[48]。時計の根本的な目的は時間を計測することではなく、人間の活動を調整することです。それを別にすれば、時間は虚構であり見せかけです。ソローがいうように、「時間が測るのはそれ自身だけ」なのです[49]。時計を壊すことは、自分の時間を売ることの拒否であり、自分の人生の予定を立て、専門化した大衆社会の要求に合わせることの拒否です。さらには、「私は自分の人生を生きる」という宣言であり、今が大事だということを明確にするのです。

予定に縛られた慌ただしい人生は奴隷の人生であり、自分の人生ではありません。他者に対する根本的な権力とは、手招きしたなら出頭するよう強制することです。「私が来いと言ったら、お前は来るのだ。」人の時間を支配することは、その人の人生を支配することです。現代社会に生きる私たちは慢性的に忙しく、あまりに忙しすぎるため自分のやりたいことができず、忙しすぎるため立ち止まって薔薇の香りをかぐこともできず、忙しすぎるため空を行く雲を眺めて一時間を過ごすこともできず、忙しすぎて子供と遊ぶこともできず、忙しすぎて必要なこと以外には時間をくことができません。

ジョン・ザーザンが鋭く見抜くように、時計は「時間を欠乏させ、人生を短くする」のです。そのため、現代のテクノロジー社会は、スピード、効率、利便性に対する強迫観念にとらわれています。そうでなければ、なぜ私たちはもっと速くそこに到着し、もっと速くそれを成し遂げ、もっと速くそれを手に入れようとするのでしょうか? 現代社会の不安は、時間が足りないという感覚から来るのが大部分です。「いつも何か役に立つことをしていなければならない。毎日の1分1秒が生産的であるようにしなければならない。もし夜寝る前に、その日の1分1秒でも生産的に使ったと自信を持って言えないような時間があったなら、あなたの人生の一部が過ぎ去って、もう取り返せないということだ。無駄にしてしまったのだ。[50]」結局はどんな瞬間でも、世界をもっとコントロールし、生存と快適さを増進するために使うことができるのです。もしかしたら、これら全ての可能性を最大限に高めた後でなら、レジャーや遊び、娯楽を楽しむ余裕が生まれるかもしれません。余裕ですって? これは金融にたとえているのですよね? 「時は金なり」ですから。

「レジャー」(余暇)という言葉の本来の意味は、時間に束縛されないということですが、いま私たちはレジャーを他のすべてのことと同じように予定に組み入れるので、出発の準備が整うまで気まぐれに道端をぶらつく自由は、希に見る贅沢のように思えます。私たちのレジャーは、どちらかといえば服役囚の一時帰宅に近いものです。私たちは自分の時間に対する原初の権利を失ってしまったのです。

現代生活のペースは加速し続けています。ビジネスでは、「ジャスト・イン・タイム」の在庫管理、「即時的コミュニケーション」、「即日発送」があります。私たちは日々ますます細かく分刻みでスケジュールを立て、子ども時代にさえもどんどん広がっていくスケジュールの体制は、新生児に病院のスケジュールを押し付けることから始まります。「時間管理」と「マルチタスク(同時並行作業)」は、押し寄せる現代生活の氾濫に対処するため不可欠な技能となっています。それらは、携帯電話やパーソナル・デジタル・アシスタントなどの機器と並んで、コントロールによって引き起こされる問題に対処するため、さらにコントロールを加えるという技術的対策テクノロジカル・フィックスなのです。

大人の生活がどんどん加速する機械のリズムに合わせて行進しているのと同じように、子供時代の終わりのない午後は、学校などの計画活動という予定の牢獄に取って代わられました。歴史上初めて、子供たちは忙しすぎて遊ぶ暇も無くなったのです。

その言葉の悲劇性を考え、あなたの胸に響かせてください。子供たちは忙しすぎて遊ぶ暇も無いのです。その理由は、またもや生存の不安へと行き着きます。遊びは贅沢品であり、生産的で教育的で発達に必要な活動の、予定の隙間に追いやるべき軽薄なものなのです。現在の大人の競争社会の要求が、一瞬たりとも遊びで時間を無駄にするなと命令するのは、遊びに費やす一瞬一瞬の間にも、あなたの子供が人生で一歩先んじて将来に備えることができたはずだからです。結局のところ、大人になってからの遊びは「オフの時間」に限られているのですし、子供時代は大人になるための準備なのではありませんか? だから私たちは、子供たちに良い「学習習慣」と強い勤労倫理、責任感を身につけさせようとするのであり、そうしなければ遊びや楽しみや喜びを第一に考えるようになってしまうでしょう。その時、彼らはどんな大人になるのでしょうか? おそらく規律を知らない大人で、9時から5時までの仕事をこなすことができず、退屈で屈辱的で不快な仕事にほとんど耐えられないでしょう。そのような仕事を、多くの人々は厳しい必要性として受け入れているのです。だから学校が一番で、それから宿題、ピアノの練習、少年サッカーです。そして少しでも時間が残っていたら、遊んでも良いのです。

数年前に気づいたのですが、私が子供たちに声を荒げるのは、たいてい時間的制約が原因だということです。おそらく、決まった時間にどこかに行かなければならなかったのに、子供たちが協力してくれなかったのでしょう。それは多くの場合、予定された特定の義務ではなく、時間がない、次のことに進まなければならないという、漠然とした不安感でした。時間不足は思考の習慣となり、私たちのあり方そのものになっています。

自発的で自由奔放な小さな子供たちを、大人の予定に従うよう強制するには、まさに「強制力」が必要になります。私の子供たちは予定どおりの行動に抵抗したのです。やりたいことは何でも、今すぐ、やりたいだけやりたかったのです。もし私たちが決して急ぐことがなかったら、忍耐を失うことはないでしょう。いま私は、この本の洞察を自分の生活に取り入れ、時間の束縛を緩めたので、子供たちを怒鳴ったり、我慢の限界に達することがほとんどなくなりました。それは私が聖人君子になったからではなく、単にそうする理由がないからです。好きなだけやらせてあげましょう。じゃあマシュー、靴下を履かなくていいから30分くらい靴下で遊んでなさい。私が小さな男の子に靴下で遊ばせてやらない理由があるでしょうか? それは現代社会で慢性的に起きている「遅刻」をした場合だけです。常に次の義務が頭をもたげ、今やっていることへ完全に没頭するのを妨げます。子どもたちの遊びの自然なリズムは常に中断され、どんな遊びの瞬間も大人が押し付ける予定の隙間から盗み取らねばならず、それが慌ただしく後ろめたい楽しみを味わう大人へと私たちを訓練するのです。

序章で書いたように、現代生活に蔓延する忙しさはその特徴のひとつであり、次世代の未来的な「省力化」装置によって解消される一時的な異常などではありません。忙しいことは不自由であることに他ならず、それは自分の時間を拘束されることです。必要性という優先順位に従うことです。それは、私たちの生活が、愛情や承認、あるいは肉体的な癒しさえも剥奪されるという、どこにでもある脅威に縛り付けるように、幼少期から文化変容を受けてきた当然の結果です。私たちは大人になるまでに遊びを否定するよう条件付けられるのです。

私たちが忙しいと言うとき、それはどういう意味でしょうか? それは他のことを、生存のために優先すべきことをやる必要があって、やりたいことをやる自由はないという意味なのです。「仕事より遊びを優先するのは現実的ではない」と私たちは信じています。仕事を失い、倒産し、路頭に迷うのを想像します。意識して遊びを生産性に振り向けなくても、遊びが実際に生産的でありうるなどと、私たちはめったに思い浮かべることがなく、それが実現した場合には、好きなことを仕事にできる芸術家や天才のような、少数の幸運な人々だけの領分だと決めつけます。しかし実際には論理が逆です。天才とは好きなことをやった結果なのであって、その前提条件ではありません。もちろん、問題はそれが何なのかを発見することです。もともと子供時代はそのためにあるはずなのに、私たちの文化はそれを正反対のものにしてしまいました。自分が何を好きなのかわからなくなるほど徹底的に壊れてしまったとき、唯一の出口は、まず好きでないことをするのをやめ、しばらく何もしないことです。これは聖書の出エジプト記に込められたメッセージで、奴隷の身から逃れたイスラエルの子供たちは、乳と蜜の地を見つけるまで40年間も砂漠をさまよい続けなければなりませんでした。同じように、私たちは忙しさの独裁を打ち倒し、至福の時を発見するために、しばらくの間は放浪することを自分に許さなければなりません。

私たちが奴隷状態にあることの、最も深い皮肉であり最も深刻な表れは、何も無い空っぽの時間が長く続くのを私たちが嫌がることにあります。真の奴隷は自由を恐れるように仕向けられています。こうして私たちは空虚な時間を「暇つぶし」で埋め、「娯楽」を求めますが、それは自分自身から引き離されることに他なりません。現代生活の根底にある不安は、私たちから時を奪い、絶え間ない行動に私たちを縛り付けます。

時間の計測、特に直線的な計測は、抽象的な未来という概念をもたらし、もうひとつの根本的な不安と心配の原因になります。準備すべきことは常にあり、〈今〉に完全に没頭できない理由は常にあります。私たちが未来のため現在を抵当に差し出すとき、それはふつう現実性のためであり、「お金の余裕がない」ときに発動させるのと同じ理由です。私たちの生存不安をマーシャル・サーリンズの狩猟採集民に関する記述と比較してみましょう。

さらに深刻な問題は、狩猟採集民の「見通しの甘さ」と言うようなものがしばしば憤慨をもって指摘されることだ。永遠に現在だけを見て、明日起きるかもしれないことを微塵も考えず、気にかけることもなく、狩人には食糧を節約する気がなく、彼を待ち受ける破滅に対して計画的な対応ができないように見える。彼はその代わり、熟慮した無関心を装っているのだ…。[51]

サーリンズの「原初の豊穣な社会」では、自然が全てを容易に豊かに与えてくれるので、将来の計画を立てる必要はありません。しかし農業社会では、このような無頓着は致命的なので、種をまいては刈り取るという時間に縛られた精神構造メンタリティーが生まれ、それがいまだ現代人の心を支配しています。私たちは常に、合理的な自己利益を高め、世界における地位を向上させ、将来の安全を高めるため、何かをし続けることができるのです。人生が生存のための闘いである以上、物事はそのままでは決して大丈夫なわけがありません。こうして現在が未来の奴隷となります。それが農業の決定的な精神構造メンタリティーであり、今日の労働が明日の収穫をもたらすのです。現在が永遠に続くなら、仕事が遊びに取って代わることなどあるでしょうか?

同じような現象が集団レベルでも見られます。未来と過去という抽象的な概念がなければ、進歩はあり得ません。逆に、進歩という概念がなければ、時間はほとんど役に立ちません。文化やテクノロジーの蓄積は、より単純だった時代を基準にすることで、時間の矢を定義します。この指数関数的な上昇の初期には、変化はもっと緩やかで、時間に対する最も初歩的な意識しか存在しませんでした。変化が積み重なるにつれて、時間に対する意識も結晶化していったのです。

時間は発明ではなく、私たちがもっと賢明だったら拒むことができたようなものでもありません。むしろそれは、言語、数、技術の進歩の必然的な産物であり、その各々が自身とそれ以外の積み重ねの上に築かれたのです。たとえば、もともと記録用に使われていた書き言葉が、時間の直線的な結び付けと歴史の観念を可能にしたのは、言葉がその一瞬に限定されなくなったからです。

私たちの知るテクノロジーは、スピードや利便性、効率、進歩と切っても切れない関係にあるため、具現化された直線的な時間に根ざしています。このことが呼び起こす疑問は、他の種類のテクノロジー観が可能かどうかということです。それは想像しにくいものです。それ自体が積み重ねで成り立つテクノロジーは、そのことによって進歩を定義し、したがって直線的な時間を定義することになるように思えます。しかし、進歩が不自然であったり、破壊的であったりする必要はありません。結局のところ、生命は40億年の間に複雑さを増して進化してきたのであり、この数千年の間に地球が危機的状況に陥っただけなのです。このことが示唆するのは別のテクノロジーのあり方で、そこでは自然のパターンを回復し、自然と調和することを明確に追求するのです。このような技術は、実は原始的な人々が使う呪術の慣習の中に先例があって、ジョン・ザーザンの言葉を借りれば、「自然のプロセスを凌駕するのではなく、その秩序を回復すること」を求めたのです。テクノロジー後のテクノロジーは(このような呼び名を使って良ければですが)、その規範モデルを自然のサイクル、特に古代の人々の「呪術」の慣習に求めます。征服ではなく同調を求め、支配ではなく美を追求します。このテクノロジーのあり方については本書の後半で述べますが、それは自然からの分断ではなく、むしろ自然の有機的な延長であり、直線的な時間測定が玩具おもちゃでしかないような、時間を超越した生活に私たちを戻してくれるでしょう。


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注:
[44] ルイス・マンフォード [Mumford, Lewis,] Technics and Civilization , Harcourt, Brace & Co. 1963, c1934. p. 14, ザーザンによる引用, p. 23
[45] トマス・ピンチョン [Pynchon, Thomas,] “Nearer, my Couch, to Thee,” New York Times Book Review, June 6, 1993.
[46] ポール・カンポス [Campos, Paul F.,] Jurismania: The Madness of American Law, Oxford University Press, 1998. p. 32
[47] マンフォード [Mumford,] Technics and Civilization, p. 15
[48] ザーザン [Zerzan,] p. 24
[49] ソロー [Thoreau,] p. 255
[50] ダニエル・グリーンバーグ [Greenberg, Daniel,] “When does a Person Make Good Use of His Time?” The Sudbury Valley School Experience, Mimsy Sadofsky and Daniel Greenberg eds., Sudbury Valley School Press, 1992. p. 105.
[51] マーシャル・サーリンズ [Marshal Sahlins,] “The Original Affluent Society.” Excerpted from Stone Age Economics.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-05/


2008 Charles Eisenstein


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