曖昧なことを曖昧なまま理解する手段としての小説
自分の作品を分類されたくない作家です。
この作品は恋愛小説です。これはSF、これはミステリー、これは泣けます。
あまりにも多くの作品が世に氾濫しているので、こんなふうにタグ付けして本を売らないと、読者と作品のマッチングは難しい。
絵なら、それが抽象絵画なのか具象絵画なのかはひと目でわかる。一方で文章芸術である小説は、読んでみなければ本質はわからない。しかし出版されているすべて本に目を通してみずからタグを付けることは不可能だから、誰かが付けたタグを手がかりに選択の範囲を狭めるしかない。
それはわかる。
しかしそれがわかっていても、自分の作品が分類されることに居心地の悪さを感じてしまう。
お前の作品は○○小説だろ?わかってるぜ。
いや、わかってほしくない。読んでもいないのに勝手にわかった気になるな。
わたしにとって、自分の手で生み出した作品は子供と一緒です。手塩にかけて育てたわが子を、どこかの誰かに軽々しく色づけされたくない。
言いたいことをひと言で言えないから小説を書いてんだよ
人間を理解するのって難しいですよね。人には多様な側面があり、表の顔と裏の顔があり、建前と本音があり、あることをきっかけに本人ですら気づいていない意外な一面がひょっこり現れたりする。
同様に、小説にだっていろんな側面があるはず。
にもかかわらず、特定の囲いのなかに作品を放り込んで店頭に並べる理由はただひとつ。売りやすいから。
わかりやすい文章、わかりやすい物語、わかりやすいテーマ。
世界は複雑で曖昧でわかりにくいはずなのに、それを単純化して読者をわかった気にさせてしまう。読者が自分で考えなくていいように、解釈までセットにして物語を販売する。
そうしないと買ってもらえないのはわかるけど、それでいいのかな?
「なにを言いたいかわからない」という感想がついたら、その作品は失敗作なんだろうか?
テレビドラマや映画やアニメや漫画などのコンテンツが「わかりやすさ」を追求しているからといって、小説も同じ方向性を追求することが正解だとは思えない。
ほかのコンテンツにはない小説だけの特性を考えたとき、わかりやすさを追求することが、かえって小説の持つ可能性を殺すことになりはしないだろうか。
曖昧なことを曖昧なまま理解する。
小説には、いや、小説のみに、その可能性が残されているとわたしは考えています。
与えられた物語を受け止める受動的な映像コンテンツと違い、小説は、与えられた言葉を読者がイメージに置き換えて理解しなければならない読者参加型の(めんどくさい)能動的コンテンツです。
だからこそ、置き換え方に個性が出る。
同じ言葉を受けとめたはずなのに、読者の価値観や経験などによって、まるで違うイメージが生まれる。だから、小説は曖昧でもいい。いやむしろ、想像の余地を広く残すためにも曖昧なほうがいい。
小説作りのテクニックの一つに、「語るな見せろ」というものがあります。
作者の主張をセリフで直接的に表現してしまうと、作者の顔が透けて見えてしまって読者は興ざめする。表現は婉曲的に留め、行間を読ませてこそプロである、という考えは、特に一般文芸の世界に根強く存在します。
これは、一文一文の表現においてもそうですが、物語全体を通じたテーマの表現テクニックについても同じことが言えます。
つまり、曖昧であることを美とする価値観があるわけです。
もちろん映像系のコンテンツにも「演技で語れ」はあるわけですが、俳優の容姿や演技が視覚材料として提供されたところからスタートする映像系の芸術と、一から脳内に組み立てねばならない文章系の芸術では、アウトプットの広がりに大きな差が生まれます。
とはいえ、色のない小説は売れない。それは事実。
とある編集者に言われました。
「野上大樹」というジャンルができたらなにを書いても読者はついてきてくれるから、それまではジャンルのなかでがんばってください、と。
作家性がジャンルを駆逐するその日まで、色眼鏡で見られることを甘んじて受けねばならないのは弱小作家の悲しいところですが、わかりやすさとわかりにくさの狭間でこれからももがいていきたい。
だって、狭間でもがく者こそ作家だと思うから。
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