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【人道支援バグダッド】ダイヤモンドプリンセスを下船し、コロナの集中治療プロジェクトでイラクへ。

皆さんこんにちは。
人道支援家のtaichirosatoです。

今回から、【人道支援バグダッド】コロナ集中治療のためイラクへをマガジン連載はじめていきたいと思います。

所属している国境なき医師団の広報規約、ダイヤモンドプリンセス号でのコロナ対応に関しては、公表できる部分に限りがあるため、活動内容に関しては投稿出来ませんが、自分がそこから考えたことや思考展開、イラクでの日常について触れていきたいと思います。

今回は初回なので、そもそも、どういった流れでイラクに入ることになったのか?
導入部分の話をしていきます。

2020年2月9日。
当時ニュージーランドを航海していたシープリンセス号のメディカルスタッフだった僕は、日本の横浜港で起こったニュースをチームの仲間とテレビを見て初めて知る。

「なんか日本で大変なことになってるね。」

武漢で始まったと言われるコロナウィルス。
ほとんど情報がなかった当時、船内メディカルチーム内では、感染対策の話はもちろん出ていたが、それほど緊張感もなく、ボーッと日本で起こっているニュースを他人事としてみていた。

まさか自分がその船に乗ることになるとは。

------ここからの内容は、後日、ダイヤモンドプリンセス号の記事をマガジン化して投稿しますのでここでは割愛します。すいません-------

ダイヤモンドプリンセスを下船した後、当時では非常に貴重な、新型コロナウィルスのアウトブレイクや集中治療レベルでの治療経験がある医療スタッフとなった。

世界で活動をしたい。
国境なき医師団のメンバーになりたい。

そう強く願いながらも、
当時、国境なき医師団の看護師のリクルートが数年間にわたって停止されていたことや、
英語とフランス語の両方で業務ができる言語力を求められていた、ことから自分の国境なき医師団としてのキャリアのスタートはもう少し先になるのかと考えていたわけなのだが、このダイヤモンドプリンセス号の経験によって周りの見る目が180度変わることになる。

国境なき医師団として、コロナ集中治療の対応ができるスタッフが喉から手が出るほど欲しい。

そして、4-5年も前からずっとなりたいと履歴書を送り続けている自分。

需要と供給がマッチするとはまさにこの事で、これ以上とない機会に恵まれることになる。

とはいえ、国境なき医師団に入って活動をすることをイメージし、ここまで何年もの間、人道支援家になるためにキャリアをデザインしてきていた自分にとっては、自然の流れなのかもしれない。
やっと、その時が来たのだ。
静かに、そう思うだけであった。

今まで、最終選考まで残ってはいても、なることが出来なかった国境なき医師団のメンバー切符。

ダイヤモンド下船後、面接や英+仏テストが終わり、
事務局から国境なき医師団への入団の連絡をもらうと、今までサポートしてくれた友達や家族たちは自分のこと以上に喜んでくれた。それを見て僕も嬉しくなった。

こんなに長い間、国境なき医師団になりたかったが、なれずに苦しんだ、以前の自分からしたら、
入団した暁にはひっくり返るほどの喜びがあるのかと想像していたのだが、、

実際は違った。

さて、行くか。

冗談抜きで、この程度だった。

飛び跳ねるような気分の高揚も、草野球でヒットを打った後に自然に出る笑顔もガッツポーズもなく、
すぐに、お世話になった人に報告をしなきゃ、と思ったのだった。

国際船のメディカルスタッフとして、多国籍のチームで働く経験をしたからなのか、
自分の力ではどうにもならない、いや、それどころがどこからどんな力を集約させても勝ち目を見いだせないようなダイヤモンドプリンセスでのアウトブレイクの経験をしたからなのか、
自分でもわからない。

誰かが、経験値がそうさせるのだ、とアドバイスをくれたのだけれど自分でもこの落ち着いたフラットに近い感情は本当に経験値から来るものなのか、よく分からなかった。

入団が決まってから、必要な諸手続きを進めていく上で、
「入団後の最初のミッションは決まるのが非常に難しいから、数ヶ月~1年くらい、ミッションの確定までに時間がかかることがあるから、そのつもりで。」
と念を押されていたので、
コロナ禍でコロナの経験があるとはいえ、あまり期待をしていなかった。

しかし、現実はすぐにイラクの話が決まった。
正直にいうと、どこの国のどんなミッションであれ、自分を必要としてくれるところがあるのであれば行く覚悟をしていた。

ミッション。イラクのバグダッドでコロナの集中治療。

その連絡をもらい、大まかな内容をチェックしたあと、その日のうちにミッション承諾の連絡を返したと思う。

ドキドキもワクワクも喜びも
小さな小さな感情の波が自分の中にあるだけで、
本当に静かで穏やかな
海を見ているような気持ちだった。

もしかしたら、その静けさとは、
戦国時代、これから戦が始まる、そんな緊張感や息をするのも苦しいような、そんな静けさだったのかもしれない。

ダイヤモンドで背負いきれないほどの責任感のような物を背負い込み、
下船してから少しリフレッシュをした後だったので、心も体も重圧から開放されたと思っていたのだけれど、
ひょっとすると自分の中ではまだ、
世界に対してアクションをおこす、
勇気や責任感のようなものが、
休まることなく燃え続けていたのかもしれない。

海外で仕事をすること、
荷物の準備は慣れたもので、
ダイヤモンドの時に使っていた日用品を手に取りながら、あれからいくらか日々がすぎたのだなぁ、と懐かしみながら、海外活動での日用品や医療器具を手際よく整える。

出発当日、飛行機の乗り継ぎの確認や事前の手続きを全て済ませ、

誰もいない羽田空港へ到着する。

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次回もお楽しみに!
これ以下は、当時の空港写真2枚↓↓
当時の羽田空港ダイヤ

搭乗機のエアフランス。
この機に乗客は 5人くらい 乗っていたと思う。

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