見出し画像

【美しく遊ぶ】

座右の銘ってあるじゃないですか。あれいいなと思っていて。じゃあ今年の銘はなんだろうなということで、この言葉が練られました。だいぶ時間がかかりましたね。意識してから2ヶ月くらいかな。初めは真剣に遊ぶだったんですが、なんか尖りすぎな感じがあって。日々生活している中で、しっくり来るものがこれだったんです。
ネイティブアメリカンのワークショップを受けていた時に、ふと「あなたって、あなたの中に居ある美しさを大切にしているよね。」といったことを言っていただいいて。しっくり来たんですよね。そうか美しさかと。美しさとは何か、というとそりゃ一人一人異なるわけですが、花みたいなもんで、私は私としての咲き方に誇りがあるし、違和感があればそれと対峙、時には適切な間合いを取ろうとする自分がいることに気づいたんです。

さて、今の自分にとって美しさとは何か、なんですが。

「美しさとは、お裾分けである。」

と言ってみたいんですね。私は今お裾分けを体験したくて仕方がないなと。そういう心意気なんです。
例えば、花が一輪咲いている。それを美しいと感じる心がある。美しいと感じたからといって、花は減るわけではない。この感覚。
他には、湧き水がこんこんと滲み出ている。喉が渇いたので、それを少し飲んでみる。飲んでみたからといって、湧水量が減るわけじゃない。その感覚。
こう言った感覚って、本来誰しもあるわけで、農作物が余ったとか、お醤油が足りないとか。
個性って、凹凸なので、それぞれ溢れ出てきてしまう何かがあるわけですよね、生きている限り。それをうまい具合に見出して、流れるところに自然に流していく。これが生をまっとうすることなんじゃないかなと、そう思うわけです。

OMOTENASHIではなくOSUSOWAKE、を流行らせていきたいわけです。MOTTAINAIでもない。もったいないって、情緒はあるけどなんか寂しさというか、そんな感じがするんです。
溢れるって美しいなと思うんです。出てきちゃった、みたいな。子供が「漏らしちゃった…。」と言ってぶちぎれるのは、なかなかできないと思うんです。愛おしいというか。なんか笑えますよね。そんな感じかもしれません。
私は日々、稽古とご縁のある方々を訪ねながら、たまに就活をしている生活です。稽古はとても愉しいです。野口整体、居合、お寺の掃除に文章編集。他には動画を撮ったり、人と話したり。
終わりがありません。生活と同じです。生活が全てです。全部延長線上にあるという意識。
皿洗いひとつ。掃き掃除ひとつ。そのひとつ一つが、毎日繰り返される。でもどれひとつとして同じではなく、いくらでも工夫ができる。そんな感じです。限りがない。だから傲慢になる余地もないことに気づくんです。ひたすらに他者や自然を通して自分と向き合う日々。いろんなことを体験させて頂いております。
そんなこんなで、これからも生きていきます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?