頂上

小説『オスカルな女たち』29

第 8 章 『 進 展 』・・・1


    《 秘密の効用 》


Pu. Purr… Pu. Purr…
何度目のコールだろう。
織瀬(おりせ)はソファベッドに張り付いていた身体を、ゆっくりとしなるように起こすと、ため息をつきながらスマートフォンに指を滑らせた。フンフンフン…と、すぐ脇で寝息を立てていた愛犬〈ちょきん〉が寝ぼけ眼で甘えて膝の上によじ登ってくる。
「…はい」
モフモフの小さなおでこを優しく親指でなでながら、電話の主の返事を待つ。織瀬は「結婚記念日」の夜以来、寝室で寝ることができなくなっていた。
『真田です』
「…はい」
静かに瞬きをして「やっぱり…」と、それでもコールを無視できなかった自分を心疾しいと恥じていた。電話の相手はバーテンダーの真田だ。解っていた、解っていたからこそ、出なかった。
(どうして、電話なんか…)
先日の気まずい別れのあと、しばらくバーに出掛けて行かなければ、このもやもやも考えずにやり過ごせる思っていた。とはいえ職務上、週末の結婚披露宴会場で顔を合わせなければならないことを恨めしく思いながらも、忙しさにかこつけうまく避けていたつもりの織瀬。だがその態度が逆に、真田の中に長くくすぶり続けていたわずかな闘争心を無理に起こすことになろうとは思いもよらなかったのだ。
『会社、休んでるって聞いて…』
「あぁ…。ちょっと、気分が悪くて」
機械的に、今朝、会社に電話した時と同じように答える織瀬。
『大丈夫、ですか?』
「ん…。仮病だもの」
披露宴のあとの報告書を冷静に書き上げる自信がなかった。レンタルのウェディングドレスが別の披露宴会場に紛れ込んでしまうというトラブルを解決し、披露宴当日は滞りなく無事に終えられた。新郎新婦にも喜ばれ、列席者の親族から「次の披露宴」の依頼を受けるという嬉しい誤算もあり、達成感極まりない仕事ではあったが、今日はどうにも笑顔で1日社内にいれるほどのモチベーションを保つことはできないと思ったのだ。
『あ、ぁ…。そうなんですね…』
小さく「よかった…」と安堵の声が漏れ聞こえる。
本気で心配して電話をかけてくれたのだろうか?…と、胸の内に温かいものを感じながらも、
「なに…?」
早々に電話を切りあげたい織瀬は、淡々と、あからさまに不快な態度を示した。
『え、』
「なにか、用?」
我ながら冷たいと思う。でも、気遣っている余裕がない。目の前にいるわけでもない彼に、心乱される自分を取り繕うことで精一杯だ。
『仮病なら、ちょっと出てきませんか?』
「え?」
(また…。どうしてあなたはいつも…こちらの気も知らずに)
こうもかき乱してくれるのか。
「会いたくないですか…?」
(またそんな言いかたをする…)
「そう…ね…」
嘘。
でも、会えるわけがない。
(あんな…っ、醜態さらして…!)
『もし、気分が良ければですが…。このままだと、店にも来てくれないような気がして』
いつも通り、歯に衣着せぬストレートな物言いだ。でも、
(図星…)
傍から見ればなんてことのないやり取りだったのかもしれない。だが、明らかに自分の中でいつもと違う感情を露にしてしまった織瀬としては、この場をどう取り繕おうとも、あの日をうまく言い訳できようとも、気持ちの整理がつかない限り今後のバー『kyss(シュス)』への来店にわだかまりが残ってしまうことは想像できた。
「意地悪ね」
思わず出た言葉だったが、それが本音だ。
『そう言われると、困ってしまいますが。こちらも必死なんです。自分でもみっともない真似してると思いますけど、どうしても放っておけなくて』
確かに、電話の向こうの真田の声にはいつもの余裕が感じられない。それはお互い様だったのかもしれないが、今の織瀬には気づくよしもなかった。
「そうね。…デート、しようか」
言いながら織瀬は、ちょきんのお腹の下に手をすべらせ、抱え上げながら立ち上がる。そのまま対面にあるのゲージの、犬用ベッドにそっと下して愛犬に微笑んだ。
「すぐ出れるけど、どこに行けばいい?」
このままやり過ごすこともできるが、うやむやのままにするにはお互い親しくなりすぎた。
『本当ですか…! 実は…近くまで来ているので…』
「じゃぁ、準備してすぐマンションを出るわね」
言いながら部屋を出た。

おっさんキー

今朝、幸(ゆき)の部屋のドアをノックするまでは、憂鬱ながらも出勤するつもりでいた織瀬。いつも通り身支度を整え、朝食を準備していた。だが、幸は部屋にはおらずに「急な出張が入った」との書置きだけがデスクの上に乗っていた。いつもならきちんと声を掛けてくれるはずの幸は、気を利かせたつもりだったのだろうが、逆に織瀬のわずかなやる気をそぐ結果になってしまった。ゆえに「すぐ出かけられる」と、答えられた。
『玄関前ではまずいですよね…?』
少し考え、
「平気。すぐ行くから…」
電話を切り、寝室のドアを開けた。
溜め息をついて「結婚記念日」当夜のままになっているベッドを一瞥、すぐ脇のクローゼットの扉に手をかけた。それまでコを描くように並べられていたクッションや枕は片付けられ、お気に入りのカバーで整えられた人の気配を感じられないベッド。その哀れな心の残骸のような光景を見るたび、織瀬は心臓をわしづかみにされたような気分になる。
(なんだか、他人の部屋みたい…)
クローゼットを開け、それまで着ていた仕事用のブラックスーツを脱ぐ。ハンガーに掛けながらまだまだ日差しの強い窓の外に目を向け、七分丈のベルスリーブサックワンピースを選んだ。いつもの出勤用の大きなトートバッグから、小さいボストン型のショルダーバッグに財布を入れ替え、居心地の悪い寝室から早々に退散してバスルームに向かう。
洗面台の前に立ち、仕事用の口紅をティッシュで押さえて、少し明るい色のグロスを重ね塗りした。
鏡の中の自分と目を合わせ、
(うかれてる?)
そう語り掛け、ひとつ結びにしていた髪をほどいて、軽く手櫛を通した。
「そんなことないよね」
以前、真田に「髪をおろした方がいい」と言われたことを思い出す。
「プライベートだし…」
言い訳するようにその場を後にし、玄関脇のちょきんのいる部屋を空ける。おやつ用のジャーキーを取り出しながら、
「ごめんね、ちょき。今日はずっと一緒にいられると思ってたんだけど、出掛けることになっちゃったの。…なるべく早く帰るね」
そう言い聞かせて頭を撫でた。
エレベーターを降りエントランスに出ると、マンションの少し前あたりに四輪駆動のRV車がハザードをつけて止まっていた。先ほどの電話で「近くまで来ている」との真田の言葉から、ここまで来てもらったものの実際にマンション前に停められた車を目の当たりにすると、途端に罪悪感にかられた。
正面玄関の階段をおり、
「待たせちゃった…?」
車から出て待機していた真田に、落ち着きのない気持ちを悟られないよう作り笑いで、めいいっぱい大人の返しをする。
「いえ。オレも今着いたところなんで…」
そんなセリフも、ずっと鳴り続けていた電話のベルのことを考えれば優しさなのだと解る。きっと、もうずっと早い時間から近くまで来ていただろうことが想像できるからだ。彼なりに思うところあって、考えた末の行動なのだろうと思うと、織瀬は胸を締め付けられるようだった。
「プライベートだと、私服も雰囲気変わりますね…」
「そんなこと…」
右手で髪を撫でつける、それはいつも織瀬が恥ずかしまぎれにする仕草。その様子を、真田はいつも微笑んで見ている。
「とってもかわいいです」
「もう…」
(いちいち言わなくてもいいのに…)
いちいち女が喜ぶ言葉を用意しているのか、これが彼の素なのか、もし素なのだとしたなら自分なんかにかまっておらずにもっと若くて可愛い彼女がいくらでもいるだろうと思いながら、それでも心騒がせてしまうのはもう自分では止めようがないのだろうかと、考えては落ち込んだ。
「あなたの方こそ…やっぱり、若いわね」
黒革のキャップを被り、オーバーサイズのデザインTシャツにクラッシュデニム、足元はボリュームのあるブーツタイプのスニーカーで…そう、織瀬にとっては真田の私服こそが初めてだった。いつもお互い、どちらかの仕事場でしか会ったことがない。
「そうですか…? 目新しいだけですよ、きっと」
真田は当然のように助手席のドアを開け、織瀬を受け入れた。
「どこか行きたいところはありますか?」
運転席に乗り込んでシートベルトをする。
「特に、ないけど…」
広いシートに座り借りてきた猫のように「手はお膝」の織瀬。プライベート仕様の真田の車に乗り込み、先日送ってもらった時の社用車とはまた違う車内の香りに、今さらながらに緊張を覚えた。
「じゃぁ、適当に走りますね」
そう言って真田はギアを握る。
車が動き出すと同時、織瀬はうつむいてきつく目を閉じた。
(落ち着け…落ち着け…)
ただハンドルを握り、車を運転しているだけというなんでもない行動にさえドキドキしてしまう自分を制する。
「まず、言い訳させてください。先日のこと…」
(…!)
「それは、もういいわ。あなたが気にすることじゃ…」
一番触れられたくない話題を、よくも出端から引っ張り出してくれる。これじゃぁいつまで平静でいられるか自信がない。
(変に勘ぐられたら、どうしよう…)
「いえ、気にしてください」
(え?)
思わず真田の方を見るが、すぐさま自分の手元に視線を戻す。
「…彼女は近くの美容室の女の子で、数か月前からうちに飲みに来てるんですが、ここんとこバイトさせろってしつこいんです」
「バイト?」
「はい。ご存知の通り、うちはオーナーがあれ、なんで…女の子は雇いません」
オーナーが「あれ」とは、つかさの言う通り〈ゲイ〉だということだろう。
「オーナー云々じゃなくとも雇いませんけどね。店のカラーがありますから」
「だから、いいってば…」
矢継ぎ早に話す真田に、それ以上は聞きたくないと話を遮ろうとする織瀬。だが、
「困らせるつもりはないんですが…。オレのこと、もっと気にしてください」
それは真田にとっての「先日の言い訳」をしているつもりだろうが、当日の自分の態度を思えば、自分こそが言い訳をすべき織瀬には彼のその行動の意味が解らなかった。
(なんで言い訳…? それともあたしを試してる?)
「それが困らせてるとは、思わないの?」
うつむいたまま、そして動揺を隠せない。
「まぁ…。そうですね」
「もう。あなたって素直なんだか意地悪なんだか…」
(涙が出そう…。来なきゃよかった…)
「今さら、隠す必要もないんで…」
「余裕、なのね…」
(こっちは心臓が飛び出しそうだっていうのに…)
「そう思いますか…?」
そう返す真田の言葉はいつも通りに思えるが、視界の端に捉えたハンドルを持つ手が、わずかだが震えているようにも見えた。
「冷静でいられると思いますか?」
「わ、解らないわ…」
自分のことで手いっぱいなのに、なにを理解しろというのか。
(そっちこそわかってない…!)
だが、真田は構わずに続ける。
「あの日、うちに来てくれたんですよね?」
間髪入れず、単刀直入に攻めてくる。
あの日確かに織瀬は、つかさと『kyss』を目指していた。それはそれとしても「答えたくない」が本音の織瀬は、ただ黙っているしかなかった。
「織瀬さん…」
「…だったとしたら? なに?」
織瀬は小さく溜息をつく。
「オレは、見られたくない場面を見られたってことです」
それほど差し迫った状況だったのか…と言いたい口をつぐんだ。
(見られたくなかったのは、こっちなんだけど…)
むしろ真田の目にはどう映っていたのだろうか。
「いつからあそこにいらしたのかは知りませんが、オレとしては…」
「あなたは、ただ、若い、女の子と話していただけ…じゃ、ないの?」
あえて「若い」を強調し、そうじゃないの?…と、真田の横顔を見上げた。
「好きな女性に、他の女に腕を掴まれていたところを見られた…。誤解されたくないってのが、男の本音でしょう…?」
「誤解? されたと思ったの? わたしに? 彼女とか…そういう風に?」
今度は真田が言葉を失った。
(わたしがうろたえる姿を見たから、追いかけてきたわけじゃなく…?)
「むしろ、誤解されない方がショックです」
「なぜ?」
「だから『気にしてください』と言ったんです。あの状況で、あなたを好きだと言っていながら他の女に絡まれてるオレを見て、なにも感じないってことは…オレのこと、なんとも思ってないってことですから。ひとりでうろたえて、考えすぎて仕事も手につかない自分がバカみたいじゃないですか」
「あ…えっと、」
充分うろたえて、だからこそあの場から逃げるように帰った…とは言えない織瀬。
(考えすぎて仕事も手につかなかった…の…? あたしのこと…)
こちらはこちらでそれどころではなかった。若い女の子に腕を掴まれている真田の姿を目の当たりにし、初めて自分の複雑な想いに気がついたのだ。自分を「想っている」という彼に、自分以外の女の影を疑わなかったおめでたい自分を恥じ、うろたえ、あの場で冷静に留まることすらできなかった。
「鈍いにもほどがありますよ、織瀬さん」
「そんな…そんなことない…!」
(なんなの? 誤解されたかったの? されたくないの? 誤解どころか、こっちはすっかりその気になってる自分が恥ずかしくなっただけよ…!)
いつの間にか真田の気持ちに自惚れていた。そんな自分を悟られてしまったのではないかと焦り、そんな醜態をさらせないと必死だっただけだ。だが、そうと素直に白状するわけにもいかない。
「じゃぁ、なぜ帰ったんですか? なんでもなかったのなら、店に来ればよかったじゃないですか。少なからずオレの態度に頭に来たから帰ったんじゃないですか?」
「ぅ…。そういうわけじゃなくて…」
なんでもないわけがない。
(なんでこんな…気まずい思いしなきゃならないの…)
シクシクと胃が痛む。
「でも彼女…あなたのこと、呼び捨てにしてた」
長い付き合いのつかさならともかく…と、思わず心の声が漏れてしまった。
「それは、彼女は誰にでもそうなんです。やめろって言ってるんですが、それをすることがかっこいいと思ってるらしくて…」
真田にとっては別段、特別な意味もないらしい。だが、
(ホントかしら…)
横目で顔色を窺ってしまう。
「疑ってますよね?」
「べつに…」
「女の人の『べつに』が別にだったためしはありませんよ」
どこかで聞いたことのあるようなセリフ。
「織瀬さんも遠慮なく、オレの名前呼んでくれればいいのに…」
もののついでに言うような、そんな言いかたをしながらも真田は、心なしか拗ねてるようにも見え、
「いやーよ」
と、わざと意地の悪い言いかたをしてみせた。
(呼べるわけないじゃない…)

木

そんなやり取りの中、車は大通りをそれ両側を木々に挟まれた道路を走っていた。不意に舗装のされていない一本道に入ったかと思うと、坂道を数百メートルほど弧を描いて登ったあたりで急に視界が開けた。
どうやらどこかの駐車場についたらしい。
「ここ…は…?」
「雨月(あめつき)公園です。…少し、歩きませんか」
エンジンを止めシートベルトを外す真田。
(名前は聞いたことあったけど、意外と近くにあったんだ…)
雨月公園は、ダムに併設されたいわゆる森林公園で、織瀬の住む〈兎追(とおい)町〉から30分程度の県境に位置していた。
「足場が悪いですが、ヒール大丈夫ですか?」
駐車場はアスファルトだが、バスゲートの先は枕木で組まれた弓なりの橋になっている。
「うん…。大丈夫…」
ショルダーを肩にかける仕草で、手を貸してくれようとする真田を拒んだ。
「さすがに平日は人が少ないですね」
とはいうものの、遠くから子どものはしゃぐ声がする。橋を渡り切った左手に、ちょっとした売店と管理事務所の入った建物が見え、その奥は遊具施設になっているらしかった。
「こっち。ちょっと行きたいところがあるんです…」
(行きたいところ…?)
遠慮なさらずに…そう言って真田は再び手を差し延べた。どうやら向かおうとしている先は小さい丸太で作られた階段になっているらしく、織瀬は戸惑いながらも今度は真田の手を取った。
森林公園というだけあって植物にはひとつひとつ、丁寧に名札のようなものがつけられていた。それを眺めながら、
「よく来るの?」
握られた手に心臓が移ってしまうのじゃないかと思うほどに鼓動で胸が熱くなる。少しでも気を紛らわせたい織瀬は、とにかく「なにか話さなくては」と口を開いた。
「はい。考えごとなんかしたいときに…」
先ほどまでの勢いのある口調とは打って変わり、いつもの冷静な真田の口調に戻っていた。
「へぇ…考えごと」
(ひとりで…?)
余計な詮索をしてはまた落ち込む、まるで女子高生に戻ったかのような気分の織瀬。自分で自分が歯がゆくて仕方がない。
「疲れませんか?」
「体力にだけは自信あるの…」
普段からハイヒールで駆けまわってる織瀬ではあるが、慣れない道でさすがに足元がおぼつかない。だが、余計な気を使わせまいと強がった。
「もうすぐですよ…」
10分ほど登っただろうか、さすがにヒールで古木の階段はきついと感じた頃、目的地にたどり着いたようだった。
「わぁ…」
そこは周りにはなにも遮るものがない一面の芝生で、ドーム状に緩やかな丘が広がっていた。
「歩きにくいですかね?」
明らかにそこは、ヒールが食い込む感じの芝生にやわらかい地面だった。が、
「平気、靴脱いじゃう…」
そう言って織瀬は6センチのヒールを右手に掴んで歩き出した。
「ぁ、ぃた…っ、やっぱりダメかな…」
チクチクする芝生に裸足で歩くことを断念し、片足ずつヒールを履き直そうとする織瀬。たが、それを真田が受け取り、自分のデニムの後ろポケットにヒールのかかとを差し込んだ。
「え、ちょっと…」
なに、いじわる?…とそう言おうとするや否や、急に足元をすくわれる感じで体が宙に浮いた。
「ひゃ…え、待って…」
真田に軽々と抱き上げられてしまう。
「ちょ…っ、わっ」
バランスを崩し、思わず真田の首に腕を回す。
(お姫様抱っこ…💛)
赤くなってる場合ではない。だが、
「落ちますよ…」
との、冷静な声に、
「落とさないで」
小さく、淡々と返しながら、織瀬は抵抗することをやめた。
借りてきた猫のようにおとなしく真田の肩と胸に手を添える。しばらく歩いたのち、丘の中心辺りにくると、
「どうですか?」
そう言って真田が立ち止まった。
「すご~い…! 空しかないね」
顔を上げて周りを見渡すと、抱きかかえられているせいか空の真ん中にいるような感覚にとらわれた。
「気に入ると思いました」
嬉しそうに答える真田を見ると、思いのほか顔の近いことに驚く。
「あ、ぉろして…」
急に我に返り身体が強張る。だが俯こうが、距離は変わらない。息のかかる範囲に真田の顔がある。
「足元、気をつけてください」
そう言って真田は、腰を落としながら静かに地面に足をつけてくれた。
「ありがと…」
「どうですか? 気持ちいいでしょう」
「うん…。これはいやなこと忘れるね」 
ふたりはしばらく黙ってその光景を目に焼き付けた。
(こんな景色見せられたら、素直になっちゃうじゃない…)
織瀬はそっと、右の手で真田のTシャツの裾を掴んだ。
「こんなところにまでついてきて…。あたしのこと、ちょろいって思ってる?」
「そんな風に思ってたら、もっと前にたぶらかしてますよ」
「そっか…」
どのくらいそうしていただろうか、随分と時間が経っているような、わずかな時間のような、空の様子が変わり始めた頃、真田が口を開いた。
「織瀬さん…」
「ン…?」
「さっきみたいな顔、久しぶりですね」
「そう?」
確かに「結婚記念日」前あたりから無条件に笑っていなかったのは事実だ。
だんだんと空が赤く染まっていく様を見ながら、
「織瀬さん…」
「うん…」
「オレ、ホントに困らせる気なんてさらさらなかったんです」
「うん…」
それは解っている。だからこそずっと、意識することなくバーに通えていたのだろう。それだけ真田は自分を気遣ってくれていた。そんな心地よい空気に織瀬はいつからか、いやずっと甘えていたのだ。
(いつから?)
今さら解ったところで、どうなるというのだろう。
「織瀬さん…」
「うん…」
「もう、しばらくあなたの笑顔を見ていません」
「ん…」
真田の視線が自分を見ていることに気づき、織瀬は重く視線を持ち上げた。
「オレがあきらめたら…また前みたいに笑ってくれますか?」
夕日に照らされるその目はいつも以上に優しかったが、それ以上にとても苦しそうにも見えた。
「どんな織瀬さんも、オレは好きなんですけどね…」
そう言って真田は、左の腕で織瀬の頭を自分の方に引き寄せる。
「涙は、勘弁してください…」
行き場のない左の掌と、抱きしめることのかなわない右手の拳を握りしめ、真田は天を仰いだ。
「ごめ…ん…」
織瀬は、どうしてか涙があふれて止まらなかった。
(きっと、この景色のせい…)
「ごめん…ごめん、ね。章悟くん…」
「いえ。こちらこそ、…すみません」
その謝罪は、織瀬の涙に悔いているのか…。自分の気持ちを責めているのか…。
(どうしてあなたが、謝るの?)
誰が悪いわけでもないのだ。誰を責めるわけにもいかないのだ。
織瀬は、真田のTシャツの裾を握りしめたまま、
「あたし…。あたし、ね…」
(あたしね…あなたが女の子に腕を掴まれてる姿を見た時、立っていられないかと思うくらいに動揺したの。でも。でも、どうしたらいいのか解らない…!)
解ってしまってはいけない気がする。
織瀬は真田の胸のぬくもりを首筋に感じながら、胸の奥をチリチリと刺激するなにかを押しつぶすようにむせび泣いた。
(気づかなければよかった…こんな気もち…でも、)
「でも、言わないで…。今はまだ…」
(あきらめる、だなんて…。すぐ…。もうすぐ、きっと)
笑顔になるから・・・・。

夕景

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