睡蓮

小説『オスカルな女たち』3

第 1 章 『 意 思 』・・・3


   《  つ  か  さ  》

高鷲つかさ:たかすつかさ(旧姓:大賀)   
頭脳明晰、成績優秀と絵に描いたような文句のつけようのない優等生であった彼女は、特別措置としての学費等々すべての免除を受けられる特待生として入学した。だがそんな華々しい経歴とは裏腹に、周りと距離を置いた陰鬱な学生生活を送っている。それには理由があり、幼い頃より病床の母と3人の弟たちの世話に追われ、友人と過ごす時間をすべて病気見舞いの通院とアルバイトに費やしていたためだった。
父親は小さな印刷会社を経営していたが、無理が祟り彼女の高校入学後まもなく他界。幸い借金こそ残りはしなかったが、働けない母親と育ち盛りの弟たちを抱えての生活は決して楽なものではなかった。そんな家族の事情により中途退学も考えた時期もあったが、なにせ主席入学で代表を務めたほどの逸材だったため、そこは特待生優遇の全免除という特権が活かされた。その境遇ゆえやっかむ者も少なくなく、生活苦も伴い、結果孤独な学生生活を送るに変わりはなく『孤高のオスカル』と呼ばれていたという。当時は見た目も涼やかで黒髪のロングストレートがトレードマークとされていた。
優秀がゆえに大学進学を切望されていたものの、母親の病状は思いのほか深刻で高校卒業を待たずに他界。卒業後やむなく、定職につきながら複数アルバイトを掛け持ち、3人の弟たちを全員高校に進学させ立派に育て抜いたというなかなかの苦労人である。
子どもはなく、夫と二人暮らし。結婚前は外車専門の中古車販売店で働いていたが、現在はトリマーサロンの雇われ店長を務めている。



ピンポーン…
わん。
ワン。
きゃん。

ピンポーン…
わん。
ワン。
きゃん。

ピンポーン…(呼び鈴が鳴って、)
わん。(つぐが鳴いて、)
ワン。(かじが鳴いて、)
きゃん。(さとが鳴く…)
「・・・・」(だれ?…)

(あれ…)
お客…さん?
「はっ…」
気付けばまわりはすっかり明るくなっていた。
カーテンから差し込む陽がまぶしい。
ピンポーン…
わん。
ワン。
きゃん。
「…姉貴ぃ~」
玄関から自分を呼ぶ声がする。
「は、はーい」
返事をして立ち上がると、ハラハラと紙切れがこぼれて落ちた。
(あ…)
ダイニングテーブルに突っ伏して寝てしまっていたらしい左手は、それらを握り締めていた痺れがまだ残っている。痛みを緩和させようと右手の親指で掌を軽く押しながら、すぐさま拾おうと足を止めるが、とりあえず玄関先に待たせている弟を出迎えようと、髪ゴムを外し乱れた髪を撫で付けた。
昨夜からつけっぱなしになっていたリビングの電気を消して玄関に向かう。
「なんだよ、昨日は遅かったのか?」
やっと出迎えてくれた姉の顔を見下ろす、頭がひとつ分大きい弟の低い声。
「そうじゃないけど…」
言いながらリビングに戻ると、ゲージの中でそわそわと尻尾を振って待っている愛犬たちを放してやる。すると、すぐさま3匹は甘えた鳴き声を発しながら嬉しい訪問者に向かって駆け出して行く。ブルテリアの〈つぐ〉、パグの〈かじ〉、ダックスフントの〈さと〉。どれも弟たちが「つかさの誕生日に」と毎年順番にプレゼントしてくれた、自分(弟)たちと同じ名前の飼い犬たちだ。
「おーし、おまえら…今日は天気がいいぞー」
しゃがみこみ、無邪気に駆け寄ってくる3匹を撫でてやる。
ひとつ違いの弟〈継(つぐ)〉は幼い頃よりつかさと家事を分担していた経験から、定時制高校を卒業後イタリアンレストランに就職して料理の腕を磨いた。もともと車好きだったこともあり、つかさが中古車販売店で働いていた当時〈展示即売会〉で海外の移動販売車に興味を持った。現在では「キッチンカー」のチェーン店を促進経営している。自由業で時間に融通が利くのをいいことに、仕事がない日や休日になると、時々こうして犬たちを迎えにやって来るのだ。運動がてら公園を散歩するのが最近の習慣になっていた。
「姉貴も行く?…わけない、か…」
その格好じゃな…と、はしゃいで飛び掛かってくる犬たちをあやしながら、カーテンを開ける姉のくたびれたジャージ姿を目で追った。
「悪いね、いつも」
寝起きを悟られないよう、両手で強く顔をしごく。
「気晴らしだよ。オレもこいつ等に会いたいし、運動不足だから」
そもそも犬を飼いたがったのは3人の弟たちだった。
幼い頃は忙しさからそんな余裕もなかったが、弟たちは小さい頃からずっと「犬を飼いたい」と言い続けてきた。大人になって「いざ飼いましょう」という頃に、継はアパートに一人暮らしの末結婚、数年後には末の弟〈郷(さと)〉もそこに同居した。真ん中の弟〈舵(かじ)〉は実家住まいだったがこちらもつかさの結婚で、そのまま飼いそびれていたのだ。だが、舵が家を出、つかさがパートに出るようになると、アパート住まいで犬が飼えないことを理由に、プレゼントにかこつけ実家であるつかさの家を犬小屋がわりにするかのようにして、代わる代わる弟たちがそれぞれの好みの犬を連れて来た。ゆえにこうして散歩に来るのも、当然といえば当然なのだ。
「…あんまり実家(ここ)にきてて、みさきちゃんに怒られない?」
義妹の〈みさき〉とは比較的仲が良かったが、継がここにやってくることに関してだけ、つかさは気を遣った。清掃会社で事務をしている彼女は、天職ともいうべき重度の潔癖症で、口にこそ出さないまでも室内犬を快くは思わないらしく、あまりここに寄り付かないからだった。そしてなにより、みさきはつかさの夫である〈吾郎〉が苦手だった。
「今日はゆあの高校見学で一日いないんだ」
22歳で結婚した継には中学3年生の〈ゆあ〉と小学5年生の〈まい〉という娘がいる。
「高校見学? そうか、受験だっけね」
「姉貴の高校も見に行くらしいぜ。大好きな『つかさちゃんの母校も見学コースに入ってる』ってはしゃいでた。だから当然、まいもついてった」
継の結婚当時、つかさは未婚だったため「おばさん」とは呼ばせなかった。つかさの結婚後も、子どもができるまで…と言い訳しながらやり過ごし、結局「ちゃん」付けのままになっている。
「へぇ…あたしたちの頃とは全然変わっちゃったけどね~」
「今は共学だもんな。でも相変わらず倍率高いらしいから、ゆあには無理だろうけどな」
「そんなことないでしょー。あんただって…」
家庭の事情がなかったらあるいは…とフォローしようとしたが、継は自他ともに認める勉強嫌いだった。
「どっちにしたって私立じゃ、うちには無理だよ。特待生免除でもなきゃ、な…」
聞きようによっては皮肉にも取れる言葉ではあるが、継にとってもつかさの優秀さは当時から自慢だった。
「よく言う…」
「姉貴に似ても、オレの血をひいてちゃどっちにしろダメだ」
「そんなこと言って…」
言いながらダイニングテーブルに向かうつかさは、スリッパの先に先ほどの紙切れを見つけて立ち止まる。
「来たのか…吾郎さん」
視線の先に、床に散らばった紙切れを目に留め、珍しく寝坊した様子の姉に納得がいった継。
「昨夜ね…」
悪いものでも見られたかのように急いで紙切れを拾うつかさ。
「相変わらずなんだな」
そう力なく答える弟に、無言で小さく口の端で微笑んだ。優しい弟に、またいらぬ気遣いをさせてしまう…つかさ的にはあまり見せたくない光景だった。
「いい加減やり方変えたら? なんだったら間に入るけど?」
「うん。ありがと。でもまだ、もう少し粘ってみる」
そんな風に気を遣わせたくない。だが、
「多分、話にもならないわ…」
つい、心の声が口をついて出てしまう。粘ったところで解決するとも思えなかったが、それは弟が介入したとて同じで、そもそもがまともな会話ができる状態ではないのだ。
(あの様子じゃ…)
充分すぎるほどに事情を知る弟は、黙ってそれをやり過ごしてくれる。
「こいつら大丈夫だった?」
紙切れの状態から「姉の不在時」に訪れたことを察した継は、愛犬たちを気遣う。
「思いっきり吠えられてたわ」
「興奮させちゃったか~。そっちも相変わらずなんだな」
言いながら犬たちの頭をなでる。
「吾郎も嫌いじゃないんだろうけど、嫌われちゃうのはどうしようもないものね…」
愛犬たちに微笑むつかさ。
「昔はもう少し話の解る人だったけどな…。オレたちがあんまり姉貴にべったりだったから…」
身内の会話というものは、他人には聞き苦しい場面がある。時に家族の絆は、他人に疎外感を与えることもあるのだ。両親亡き後のつかさたち姉弟は本当に仲が良く、互いを思いやって過ごしてきた。兄弟にとっては単に「姉を慕っていた」だけの行為でも、他人であった吾郎の目にはそうではなかったのではないかと、継はいつも自分たちを責めた。
「そんなことないよ」
そしてつかさはいつも、それを全力で否定した。
「今日は少し遠出してくるから、ゆっくり休むといい」
立ち上がり、犬たちをリビングの外に促す。継にとって、運動がてらに犬を散歩しに来るのは、時々こうして姉の様子を見に来るための口実だった。
今のところ、つかさの本音を知っているのは継だけだ。
「ありがと。そうさせてもらうわ」
首を左右に倒し、伸びをしてみせる。
「同窓会は楽しめた?」
玄関脇の収納棚から犬たちのリードを取り出しながら、リビングの姉に声を掛ける。
「まぁね…」
(帰ってきてからは最悪だったけど…)
そう言いながら肩をすくめ、つかさは継を送り出した。
昨夜は、久しぶりの同窓会だった。
(おりちゃんの電話の相手は、結局誰だったんだろ…?)
リビングの4分の1を占める愛犬たちのバリケードの中を掃除しながら、つかさは昨夜のバーでのことを思い返していた。

画像1

『よって、よって…』
くったくのない笑顔で肩を組んでくる織瀬(おりせ)に、半ば仕方なしとしながらもカメラ目線でスマートフォンを見上げた。
(真田くんて…和服が似合いそう…)
ふと目に入ったバーテンダーの眉を見て、何気なく頭にイメージが浮かんだ。
トリマーをしているつかさは、普段から犬猫を相手に仕事をしているせいか、人の顔を覚えるのは苦手だった。代わりに、そういった特徴的な部位が切り立って目に入ってくるため、表情というより雰囲気で相手を認識する癖がついていた。
和服…そう思ったらなんとなく、ブライダルコンシェルジュをしている織瀬に目が向いて、なぜそうしたのかも解らぬまま、またスマートフォンに目を移した。
『じゃ、いきますよ。…はい、チーズ』
愛想笑いをしながら織瀬にスマートフォンを返す真田を横目に、どことなくいつもと違う空気を感じていた。つかさは、時折そうした勘が働くのだ。それゆえか、右隣の真実(まこと)が一瞬時計を見たような気がして『…真田くん、チェック』とカウンターの向こうに目配せして背もたれに掛けていたクラッチバッグに手を伸ばした。
『そうだな。朝一番でオペが入ってるんだ』
バーに来てからお酒の進まなかった真実が立ち上がる。
『そうなの? 言ってくれたらよかったのに』
つかさが声をかける間もなく織瀬が乗り出してくる。
『気が進まないやつだから』
そう小さく答える真実の言葉に、どちらともなく漏れた音。
『あぁ…』
(そうか…)
『大変だね』
それしか言えなかった。
『仕事だからな』
真実のその言葉はいつも、こちらに気を遣わせまいとしているのが見て取れる。
(強い人…)
でもきっとどこかで無理してる…そう感じていながらもどうすることも出来ない。いつも申し訳ないと思うだけだ。
会計の後、織瀬がバッグの中を探っているのが目の端に映った。どうやら携帯電話が鳴っているようだった。
『旦那様?』
時計はもう真夜中を過ぎている。つかさは「帰りの遅い妻を心配する優しい旦那様」と、当然の名前を告げたつもりでいた。
『違う。知らない番号…』
怪訝な顔で、電話に出ようと画面に指を近づける織瀬。
『やめときな、こんな時間に掛かってくるような相手。ろくなもんじゃない』
スマートフォンを押さえ込むようにして真実が織瀬を促す。
確かにそうだ。織瀬は気になっていたようだったが、思い当たる節でもあったのだろうか。
『じゃ、あたし駅だから』
薄手のショールを羽織り、まだまだ明るいネオンが連なる方角へときびすを返す。
『うん。またね…。あ、来週の水曜、よろしくね』
水曜は織瀬の固定休の日だ。背中に投げかけられる言葉に、後ろ手に右手を振って答えると、腰に届くストレートの黒髪がショールの中でかすかに揺れた。
「ちょき、ちょき、ちょきーん」
自分の独り言にふふふ…と笑みを浮かべ、織瀬の愛犬である真っ黒なトイプードルの姿を思い浮かべた。飼い主によく似た愛嬌のよい仔だ。
つかさは5年前から『Friendly hand(やさしい手)』という名のトリマーサロンに勤めており、今は店長を任されている。小さいながらそれなりに顧客もついて、経営状態に不満はなかった。が、これからはいろいろなサービスを増やして売り上げを伸ばし、少しプライベートに潤いを与えようと考えていた。いつ、なにが起こってもいいように…。
そう、つかさはこれからの身の振り方を考えていた。
顧客を増やすか、今のままサービスの枠を細かく区切って料金の幅を設けようかと、今後の店のあり方について考えを巡らせながら家の門前に着くと、珍しく部屋の灯りがついていた。
(いるのか…)
落胆し、無意識に歩幅が狭くなる。
(…なに話そう)
チクリ、と胃に刺し込みが入るのを感じた。
最近ではほとんど姿を見ない人物が部屋の中にいる。更に玄関に近づくと、家の中で犬に吠えられている人間がいる。それは今一番の悩みの種であるつかさの夫〈高鷲吾郎(たかすごろう)〉その人であった。
玄関を開け「ただいま」と呟くが、それは夫に向けてではない。ただの口癖、いつもの習慣なだけだ。
無言でリビングの扉を開けると犬たちが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「どいつもこいつも、バカばっかりだ」
お帰り…と出迎えるでもなく頭上に飛んでくる、その音(声)を耳にすると悪寒が走った。冗談ではなく、本当に寒気がするのだ。それが帰宅した妻に対する夫の第一声とは…反論する気にもなれない。
「そんな風に言うから、」
どいつもこいつも…と、そう言われるたびに、それが犬のことだけではないのではないかと疑うつかさだった。
「あなたを警戒するんでしょ」
胃に重いものを感じながら、弟たちと同じ名の愛犬を一匹一匹優しくなでてやるつかさ。夫のいるそちらを見ずに済むように。
「住人の顔も覚えられないのはバカだろ」
「アナタの態度の問題でしょう? 覚えてなかったらそんな風に、最初から寄り付きもしないわよ」
「自分たちと同じ名前なんか付けて、犬に俺を監視させてるつもりか? まったく、嫌味なやつらだ」
(やっぱり…)
言いたいことはそれか…と落胆する。
吾郎はいつから、こんな皮肉ばかりを言うようになったのだろう。以前はそんな言い方はしなかった。少なくとも声を荒げるなんてことはなかったし、それなりに気遣いも示してくれていたはずだ。
「そういうことじゃないでしょう」
「だいたいおまえが仕事なんか始めなきゃ、この家だってうるさくならなかったんだ。今も静かに暮らせたんだよ」
「またその話?」
「オマエが毛刈りなんかやってるから、あいつらが調子に乗って犬なんか飼いだしたんだろう」
「アナタだっていいって言ったじゃない」
そうまで言われると、いい加減つかさの言動にも力が入ってしまう。
「俺の意見なんか、初めから通ったためしがない!」
「そんな言い方…」
「この家の主人はオマエだしな」
(また…)
つかさは気づかれないほど小さくため息をつく。
「またそんなふうに…」
そう、確かにこの家はつかさの家だ。つかさはこの家で育ち、両親亡き後3人の弟たちの面倒を見、巣立たせた。継の結婚後、まだ学生だった下のふたりの弟たちを気遣って、結婚後は吾郎が「マスオさん」としてこの家に同居してくれた、つかさの両親が残してくれたたったひとつの財産だ。同居は吾郎が望んだことだった。兄弟のいない吾郎は、賑やかな家庭になることを楽しんでいたはずなのだ。
「…。ほら、おうちに戻りなさい」
部屋の隅にあるバリケードの向こうに3匹を促す。なるべくこの仔たちの前では揉めたくない…そう思いながら平静を保とうと心掛ける。
「おうち…ね。俺も事務所(おうち)に帰るさ」
そう語る吾郎の足元には大きなボストンバッグが置かれていた。時々そうやって自分の荷物を取りに来る。そのバッグを見るだけでバスルームや寝室、部屋の中がどうなっているのか想像がついた。
ここが家でしょ…言おうとして口をつぐむつかさ。
(つかれてるのに…)
それが本音だ。
自分は「同窓会」で遊んで帰ってきたとはいえ、吾郎の訪問は想定外。これから掃除をしなくてはならないと思うと、自然に表情が曇る。
「そんな恰好で犬の毛刈りか」
今夜のつかさはノースリーブのシャツにワイドパンツ、確かに仕事の恰好ではなかった。そうと知らない吾郎の、それは決まり切った皮肉だと解っていても、心無い言葉には当たり前に傷つくのだ。
「同窓会だったのよ」
「そんなの、今まで行ったこともなかったくせに。俺がいないとなんでも好き勝手出来てよかったろ…?」
「どうして…」
(どうしてそんな風にしか言えないの…)
ことごとく冷たく言い放たれる言葉にさみしさを感じるどころか、吾郎を哀れに思えてならないつかさ。
「なんだよ…言いたいことがあるなら言えよ」
だが、つかさは返事をする代わりに無言でボストンバッグの脇をすり抜け、夫が目に入らないかのようにダイニングテーブルの椅子を引いて自分のバッグを立て掛けた。と、テーブルの上には無造作に破られた紙切れが散乱している。
「サイン、しといた」
それを確認するかのようにしたり声の吾郎。皮肉って口元を歪める、最近よくする表情が振り返らずとも窺えた。
サイン、それは離婚届を破いたという合図。
破られた紙切れを拾いながら「まだたくさんあるから平気」と、言ってしまってハッとする。言い知れない恐ろしい形相をしている吾郎の顔が、一瞬の空気で読み取れる。
だがつかさは、こうして意思表示する以前から、ことあるごとに幾度も市役所に足を運んでいた。そうすることで自分を慰めていたのか〈離婚届〉を受け取っては記名し、気持ちと一緒に引き出しに仕舞い込んできたのだ。
だから、まだたくさんある。
「ちっ」
舌打ちし、ボストンバッグを持ち上げる吾郎。そんな吾郎の顔を見ずにつかさは、息を呑み静かに告げる。
「アナタだって、別れたくないわけではないでしょう?」
(あぁ、また…)
余計な言葉を言ってしまう。
つかさの言葉を背に、荒々しく扉を蹴り上げて出て行く吾郎。
「もう…」
(そうなるんだから、顔を見る前に出て行けばいいのに)
わざわざ皮肉を言うために待っていたのかと思うと、それもまた情けない。
「あぁ。ホント、つかれる」
ふぅ…と一息し、すっかりしょげてしまっている愛犬たちに目を向けた。
「わざわざゲージから出して、遊んでやるくらいならもう少し優しくしてくれたらいいのにね」
そう言って微笑み、腰まで届くストレートの長い黒髪をひとつにまとめながら洗面所に向かう。
「バカばっかり…」と言いながら、犬たちがゲージの外に出されている理由を知らないつかさではなかった。吾郎とて蔑ろにしたいわけではないのだろうが、その不器用さが「裏目に出ている」のだとは、今さら言ったところで現状が変わるわけではないことも知っていた。
(バカはどっちよ…)
考えれば考えるほど、ため息がついて出る。
洗面所のドアを開けるなりその惨劇に「やっぱり…」と洗濯物の山をひとつひとつ拾い上げ、仕分けしては洗濯機に放る。今夜も長い一日は終わりそうにない…と、次にバスルームを開け、使いっぱなしのお風呂の詮を抜いた。
〈どこかへ帰りたい…〉
洗面台に飛び散った泡や水滴を拭き取りながら、それは「自分の方だ」と、夫である今出て行った男と話をするたびそう思うつかさだった。
階段を上り寝室の扉を開ける。
こちらも想像通り、床やベッドの上に吾郎の物ばかりかつかさの服やバッグまでもが散乱している。八つ当たりか嫌がらせか知らないが、それらを無言で片付け、クローゼットへと戻していく。これが1週間から10日に1度、気まぐれにやってくる吾郎との夫婦生活の有様だった。
「まるで空き巣ね」
中途半端に隙間の空いたカーテンを引きながら言い殴る。
つきあっていた頃はまだよかった。それなりに気が利いて、それなりに優しく、それなりに見栄えもした。だが、それだけだった。気が利いていたのは人目を気にするからで、優しかったのは自分をよく見せたかったから、すべてがかりそめだったのだ。その甲斐あってかそこそこに自慢の出来る彼氏であったが、本当に見た目だけの男だった。
それでもまだ、今ほど嫌悪感を抱くことはなかった。
(なんでこんな風になっちゃったんだろ…)
自分は確かに、あの男と恋をしていたはずなのに・・・・。

恐竜

10年前、舵が「ひとり暮らしをする」と家を出ることが決まった頃、もともと働くことが好きだったつかさは、だんだんなにもせずに養ってもらっているというスタイルが心苦しく窮屈に感じていた。吾郎にしてもどことなく「誰のおかげで暮らせているんだ」と、そんな空気が漂い始めていたからかもしれない。
『弟たちも落ち着いたし、仕事、しようと思うんだけど…』
今まで弟たちに費やしてきた時間をどう埋め合わせたらよいのか、つかさには想像もつかなかったが、それ以上に吾郎との「ふたりだけの生活」の方が不安でたまらがなかったのだ。
『仕事? オマエが?』
反対されるのは覚悟の上だった。
『アナタに迷惑はかけないわ…』
つかさ自身どういうつもりで言ったのか、おそらく食事や吾郎の生活を「煩わせない」という意味合いのつもりだったのだろう。今思えば、吾郎にとってはその言葉こそが「アナタをあてにしない」と、自分が切り捨てられたように感じられたのかもしれない。
1年後、つかさはペットショップのパートタイマーに出ることになった。
もともと動物が好きだったつかさは、このまま子どもが出来ない(作らない)のならペットを飼うのもいいかもしれないと思い始めていた。慎重派のつかさは試しに仕事で関わって、自分にも出来そうなら犬か猫を迎え入れようと考えてのことだった。
同窓会で4人が再会したのもちょうどこの時期だ。
『孤高のオスカル』と言わしめたあの頃…それまで高校の同級生、ましてや友人と呼べる相手がなかったつかさに、初めて気の許せる仲間が出来た。意外な偶然から結びつけられたオスカルたち。
なにがあっても弱音を吐かずいつも明るい笑顔の織瀬。
家業とは言え、立派に自分の道として努力している真実。
同じ専業主婦とは思えないほどたくましく、子宝に恵まれ幸せそうな玲。
そんなオスカルたちのまぶしかったこと、どれほど励まされたことだろうか。つかさはこの出会いを経て暗いなにかをふっきり、自分らしさを取り戻そうとしていたのかも知れない。
その後3人の後押しもあって、かねてより興味のあったペットトリマーの資格を得るため、少人数制のトリミングスクールに通うことにした。それも片手間にするのではなく、トリミングサロンを経営、開業するつもりで取り組んだ。勉強が苦にならないつかさには楽しささえ感じられた。
もちろん、スクールに通うことは吾郎には内緒だった。






まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します