薬膳プレート

小説『オスカルな女たち』27

第 7 章 『 冒 険 』・・・3


     《 想定外ベクトル 》


「おねぇ、失恋したのか…?」
久しぶりに実家に顔を出したかと思えば、いの一番でシャワーを浴び、姉のスウェットを履いて中途半端にくるぶしをアピールする2番目の弟〈舵(かじ)〉。
日に焼けた筋肉質な上半身にタオルを引っ掛け、冷蔵庫をあさりながら姉に向かって放つひと言がそれかと目を見張る。
「あんた、ケンカ売りに来たの?」
たまの休みに久しぶりにする料理の手を止め、包丁の刃先を弟に向けて睨みを利かせるつかさ。
なんだよ…と口をもごつかせ、缶ビールのプルトップを起こしながら、大げさに上半身をのけぞらせてキッチンの端に逃げる。
「グラス使いなさいよ…」
つかさは缶ビールを缶のまま飲むのをあまり良しとしない。
「わかってるよ」
めんどくせぇ…といいながらも、幼いころから姉の言いつけを忠実に守っている聞き分けのいい弟は黙って食器棚を開ける。
「男ができたらしいって聞いたから。様子見に来てみれば、髪切ってるし、そうそうにふられたのかと…」
ダイニングテーブルに向かいながら、チラリと姉を見遣る。
(ちょっと待って、)
一瞬ドキリとする。再会した〈藤枝圭慈(けいじ)〉とのことを言われているのかもしれないと思ったからだ。だがすぐさま「そんなことはないだろう」と余計な思考は打ち消した。
うろたえたら負けだ、ここは冷静に。
「誰男できたって?」
「おねぇに」
「そうじゃなくて。誰が、言ったの?」
「吾郎さん…」
「はぁ?」
先日の電話の内容といい、今日の失礼極まりない言動といい、ますます憤りを覚えるつかさ。
(どこかで見られてた…とか、?)
ますます心がざわつく。
「男ができたから、吾郎さんのこと諦めたんじゃないの?」
(どうなってそうなった?)
言葉もない。
「それ、吾郎が言ったの?」
ストーカーでもされているのか、それともただのハッタリだろうか…もちろん聞くことなどできない。
「違うの?」
ビールを注ぎながら上目遣いで確認する。
「ぜんっぜんっ、違うわよ…!」
ふーん…疑わげに返事をしながら、キッチンのつかさと向かい合わせにテーブルにつく。
「まさか…!」
と、思わず出た言葉を即座に飲み込み、手元に目を落とすつかさ。だが、舵と吾郎との見えない会話が脳裏を騒々しく駆け巡り集中できない。
(まさか…男ができたと思ったから承諾したわけ? 冗談、でしょ)
「え? 吾郎もあたしが失恋したと思ってるわけ?」
頭をあげ「それはまったくの心外だ」と、厳しい目つきで舵を見据える。仮に吾郎の思い込みだとして、どこまで話を作り上げたのか…追及するのもばかばかしいと、気を落ち着けやり過ごすつかさ。
「いや、それはオレが思っただけ…」
「あぁそう」
(そこまで妄想してこの結果なら、どこまで傲慢なのって話よね…)
「失恋したら髪切るんだろ? 女は」
(は…?)
「いつの時代の話よ」
軽く失笑し、
(それだけ? そんな理由で失恋したと思ったわけ?)
でも、そう思われても仕方がないくらい長い間髪型を変えていなかったということだ。吾郎もそう思ったのだろうか…と考えを巡らせる。
「吾郎さんに振られた…」
「わけないでしょ! 単純ね、あんたも」
(吾郎も…?)
さんざん〈離婚届〉を破いてきた吾郎の本心がこれか…と勘ぐるつかさ。
あちらが単純なのか、こちらが難しく考えすぎなのか、それにしてはずいぶんとお粗末な結論ではないのか。
どうせ「男ができた」と疑われていたのなら、もっと早い段階で浮気でもすればよかったのか、むしろ吾郎がそうすべきではなかったのか。だが、損得勘定と世間体が服を着て歩いているような吾郎にそれは「裸で歩け」と言っているようなものかと嘲笑する。
「どうでもいいけど、Tシャツくらい着なさい」
子どもじゃないんだから…と、目の前の浅黒い肌にかつての光景を重ねて幼い日の彼(弟)らを思い出す。
お風呂上りに裸で跳ね回っていた姿が今でも昨日のように目に浮かぶ。そんな記憶に微笑みながら、手早くネギを刻み、包丁ですくい上げ隣の鍋に浮かせて火を止めた。
「だって、オレのなんもない」
「階段に継(つぐ)のがあるから…」
背後の食器棚からスープボールを取り出しながら答える。
「あ、そ、」
面倒くさそうに立ち上がり、リビングを出る舵。ついでに階段に一緒に置いてあった実兄のジャージに履き替えリビングに戻る。

サラダ

「ま、変だとは思ってたけど…。どっからどこまでが変なのかもわかんねーし」
先にテーブルに置かれた〈野菜サラダ〉のトマトを摘まんで口に放り、先ほどの会話をついでのように蒸し返す。
「そういうの、得意じゃないもんねぇ」
スープボールをふたつテーブルに置いてキッチンに戻るつかさ。
「そういう言いかたすんなよ」
そういうの=心の機微というか、昔から舵は無粋で空気が読めない。
「いい? 吾郎はね…」
出来上がった〈豚の生姜焼き〉の皿をふたつ手にキッチンを出るが、テーブルを前にきょとんとして待っている弟の顔を見るなり大きく溜息をついた。
「もう、いいわ」
「なんだよ…言えよ。吾郎さんがなに?」
舵は未だ『吾郎教』なのだろうか? 
吾郎を気に入って自分に結婚を薦め、吾郎を慕って吾郎のいる会社に入社までした。そんな弟は自分よりも「吾郎の味方」なのだろうかと考えを巡らせる。
「もういいったら。せっかくの食事が冷めちゃう」
ふたり分の皿を対面においてきびすを返す。
「なんだよ、気持ちわりぃだろ」
ご飯をとりにキッチンに戻る姉の背中に投げかける。
(なんて言えばいいのよ?)
今さら自分が説明したところで、言い訳になりそうで気分が悪いと思い直す。
本当はもうひとつ、つかさには吾郎のことで舵に聞きたいことがあったのだが、仮に舵が未だ『吾郎教』だったとしたなら、逆に責め立てられるかもしれないし、もしくはいいように解釈し反撃してくるかもしれないと疑った。やっと離婚が成立してほっとしているところに、事を荒立てまた一から吾郎とやり取りするのは、今のつかさには無理だと心底思ったのだ。
(ここで舵と揉めたくもないしな…)
珍しく顔を出してくれた弟の気分を害したくはないし、自分としても久しぶりに弟と和やかに食卓を囲みたい。舵が突然にやって来たことだって、おそらく自分のことを心配しての行動だと解るだけに、今はこの時間を大事にしたいと思うのだった。ゆえにつかさは、小さく息を吐いて気を落ち着かせ、言葉を選んで最小限のことだけを伝えた。
「吾郎がいつから用意してたのか知らないけど、あたしはずいぶん前から、吾郎に破られ続けてきたの…あの用紙」
と、悲惨な離婚届の物語を聞かせる。
「破る? 吾郎さんが? まぢ…?」
信じられない…顔をしている。
(ほらね、やっぱり知らない…)
だから余計なことは言えない。
「つい最近までね。どこでどう気分が変わったのかは知らないけど、自分から持ってきたのはこないだが初めて…。おかげさまで滞りなく処理はできたけど。実際どういうつもりなのか、こっちが聞きたいくらいなの。今となってはどうでもいいけど」
ご飯茶碗をふたつ手にし、舵と向かい合わせで席に着く。ぽかんと、アホ面をさらす弟に「ホントに知らなかったのね」と箸を差し出し、自分は膳を前に両手を合わせた。
「いただきます」
「え? まさか、おねぇも離婚したかったの?」
身を乗り出す勢いで問い掛ける、その無垢な姿が余計にかわいいとさえ思える。
「もちろん!」
皮肉にも取れる笑顔で返す。
(まさかってなに? どこまで鈍いのこの弟(コ)。本気であたしが吾郎に振られたと思ってるのかしら)
「へぇ…そうなんだ」
茶碗を持ち上げようとしては途中でやめ、いまだ合点のいかないらしい舵は首をかしげながら両手を合わせ、ぺこりと頭を下げた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
このやり取りは小さいころからの習慣だ。弟たちが「いただきます」といい、つかさが「どうぞ」と答える。幼いころからずっとそうしてきたせいか、弟たちはこの「どうぞ」がないと食べてはいけない気さえしている。物心ついた時には母親が入院していたということもあり、この習慣は姉というより母親に対するそれと似ていた。
(本当に、大きくなっちゃって…体ばっかり)
そんな舵の様子に小さく微笑み、
「未婚のあんたに、夢持たせたかったんじゃないの? わかんないけど」
吾郎を貶めないよう、その場しのぎの言葉を投げた。
「そうなのか…?」
それが真実かは解らないが、どんな説明をしていたのかは大いに気になるところ。だが、ここで矢継ぎ早に聞こうものなら舵は、そっくりそのまま吾郎に報告するかもしれないことを訝しむつかさは、自分から問うことはしなかった。
「にぃは知ってんの?」
納得のいかない表情で食事に箸をつけ始める舵のいう〈にぃ〉とは、長男の継のことをさす。舵と郷(さと)はつかさを「おねぇ」と呼び、継のことを「にぃ」と呼んでいた。
「うん」
「へぇ」
黙々と食べ始める舵。声の様子からして、どうやらそこは気に入らないらしいことが解る。兄弟仲が悪いわけではなかったが、兄に対し多少のライバル心のようなものがあるのか「自分より先に知っている」ということが気に入らないのだ。
「…にぃに聞けばいいじゃない。その辺のとこ…男の気持ちなんて、あたしはなんて説明したらいいのか解んないから」
(できやしないだろうけど…)
継には悪いが、どう伝えたものか解らないのは事実だ。
「えー…」
案の定の反応。
「そうそう、あんたに話しておこうと思ってたんだけど、」
箸をおき、半分になった舵のグラスに残りのビールを注ぐつかさ。
「なに?」
「この家、継たち家族に譲ろうと思うんだけど…。ほら、3人目できるっていうし」
上目遣いに様子を伺う。
(あ…もしかしたら反対する?)
話の流れ的に、あまり良いタイミングではなかったかもしれない。
「おねぇは? おねぇがにぃのマンションに行くの?」
「住居を交換するわけじゃないわよ」
単純ね…と、その言葉は飲み込んだ。
「郷は?」
「にぃと一緒にここに住むことになるでしょうね。今のままなら。もしくは、一人暮らしを考えてるかもしれないし…」
8つ下の郷も今年はもう30歳だ。あるいは、これを機にそんなことを考えているかもしれないと思った。いつまでも小さいと思っていても成長している。
「ふ~ん。…じゃおねぇも一緒に住めばいいじゃん」
「そういうわけにはいかないでしょ。ひとつの台所に女はふたりいらないのよ」
古い考え方かもしれないが、一緒にいればいつかは不自由になる。お互い良い関係を続けたいなら、適度な距離は大事だ。
「そういうもん?」
「あんたには解らないだろうけど…」
舵はチッ…と軽く舌打ちし「いいんじゃない?」と、小さく答えた。
(お…)
もっといろいろと言ってくるか…と予想していただけに、すんなり受け入れられたことを逆に訝しむ。
「ホントに?」
「おねぇはどうすんの? 家」
「あぁ、うん。…アパート探してる」
再び箸をとる。
「へぇ、どこに?」
反論がないことが気持ち悪い。
「一応、今の仕事場に近いところって考えてるけど…まだ。もちろん、アノコたちと一緒に住めるところね」
舵の背後に視線を送り、リビングの端のゲージの中ではしゃぐ愛犬たちをさす。
「それは難しいんじゃね? おいてけばいいじゃん、ここに」
「そういうわけにはいかないわ。それに、あたしがいやなの」
舵は継の妻である〈みさき〉の潔癖症を知らない。
元を辿れば、あんたたちが代わる代わるプレゼントしてくれたんじゃないのか…そう言おうとしたが飲み込んだ。
「環境が変わるより、あたしと離れる方がこのコたちにはつらいことなの」
少なくともつかさはそう思っている。
「ふーん…そんなもん?」
ひたすらに箸を動かし、皿を空にしていく舵。
「そんなもんよ」
ひとりになった今だからこそ、どんなに夜遅くなってもしっぽを振って帰りを待っていてくれるこの家族と、今さら別れられるわけがない。
「だって、にぃが散歩してんだろ?」
「あたしだってしてるし…!」
「たまにだろ」
「…だとしても、よ! 大丈夫、玲(あきら)に探してもらってるから」
ここは食い下がらない。ムキになるほどのことではなかったが、誕生日プレゼントとして自分のところにやって来た愛犬たちだからこそ、なんとなく意地を張ってしまった。
「あぁ。不動産屋だっけ…」
「うん」
「店の近くに引っ越しちまったら、散歩してもらえねーぞ」
「ちゃんと自分でするわよ」
「せめて一匹にすれば…?」
「まだ言う?」
「べつに、おねぇがいいならいいけど」
そう言ってはいるが、離婚してすぐに生活を変えることに対する舵の気遣いが窺える。本音は、離婚した自分をあまり「ひとりにしたくない」という思いやりなのだとつかさには解っていた。
(まったく…不器用なんだから…)
「それこそ、今さら別々になんてできないわよ。このコたちだって兄弟同然に育ってるんだから…」
つかさにとってはかわいい弟のつもりだ。
「あ、っそ、」
「うん。…とにかく、継たちがここに住むことに異論はないわね?」
「異論て?」
「まぁ、あんたにとっても実家なわけだから…?」
なんて言えば…? 都合が悪いかと聞くのも変だ。
「おねぇがいいならそれでいい」
「そ。じゃ、決まりね」
つかさも安心して箸を急がせる。舵の気が変わる前にこの話を終わらせてしまいたい。
「ちゃんと住むとこ決まってからにしろよ」
「そりゃぁ、そうよ」
(いろいろ考えてくれてるわけだ…)
「おかわりある?」
茶碗をもって立ち上がる舵は、当然あるだろうことを想定してつかさの返事を待たずにキッチンに向かう。「久しぶりに食ったらうめぇわ…」と、嬉しいひとことをつぶやきながら。

ごはん

「あんたは? 彼女と、どうなの?」
舵の言う「久しぶり」が、つかさの手料理に対する言葉なのか、まともな食事に対する言葉なのかと考えを巡らせながら問う。
「どうって、別に」
同棲中の彼女は確か、舵よりひとつ年上だったか。
「あいつ、肉食わねぇから魚ばっか…」
「でもちゃんと作ってくれるんじゃん」
「そのくせ魚さばけねぇけどな。切り身ばっか、塩焼きばっか…」
「いやなの?」
珍しく自分の話を聞かせてくれるものかと期待を寄せるつかさ。
男兄弟というものは女同士がするような浮かれた話は当然しないし、まして自分からつき合ってる彼女の話題を振ってくることもない。だからつかさはいつもつまらない思いをしていた。
「慣れた…」
「なんだ…」
(のろけか…)
肩透かし。
「結婚とか、考えてないの?」
「ぜ~んぜん。おねぇたちのこと見てたらそんなよさそうでもねぇし…」
(そりゃ悪かったわ)
でも、
「あんたはよくても、彼女はそういうわけにはいかないんじゃないの?」
年齢的に…30歳を境に「結婚」に焦りを感じるものではないのか。それとも今どきの女性は考え方が違うのだろうか。
「そういう話したことない」
「うっそ…、ぜんぜんっ?」
「あぁ…」
「へぇ…」
今どきの女性は…と考えを巡らせ、そんな言葉を思い浮かべてしまった自分に年齢を感じ、口に出すことをやめた。
「仕事なにしてるんだっけ?」
「アパレル」
「ふ~ん」
「あ、最近店長になったらしい」
「あら、すごいじゃない」
「おねぇだってそうじゃん」
「そうだけど」
「だってもう34だぜ? 遅いくらいだ」
「そうなの?」
「知らねぇけど。仕事楽しくてしょうがねぇんじゃね? 当分結婚はないよ」
「そう…」
それにしても、
(匂わされたこともないの? てか、おまえが鈍いんじゃなく?)
そう突っ込みたい気持ちは山々だったが、それ以上話を膨らませると機嫌を損ねそうだったので、それ以上触れることは遠慮した。
「引っ越しは手伝ってよね…」
「あぁ、その時はな」
ひとまず、筋は通した。あとは自分の身の置き場を決めるだけ。
(だけど…)
玲の「いっそのこと店舗を移転したら…」という言葉に対する引っ掛かりが取り払えないつかさだった。

画像3

「へぇ、家出ることにしたんだ」
「うん…」
いつも通り『kyss(シュス)』への道のりを、織瀬(おりせ)とふたり歩幅を合わせるつかさ。
「お店の近くにするの?」
「そのつもりなんだけど…。玲が店ごと引っ越せっていうのよ」
「店ごと?」
それはまた大胆…と目を見張る織瀬だが、
「そんなお金ないって言ったんだけどね」
既にまんざらではないつかさの様子に、
「今のお店って、」
「雇われ店長。だから開業しろってことよね…」
「いいじゃな~い…!」
それまで足元を見て歩いていた織瀬が、明るい顔でこちらを見る。一時より、いくらか元気が戻ったのだろうか…と安堵するつかさ。
「だから、そんなお金ないって。…思ってたんだけどね、」
「あるの? あったの?」
「あったの」
言いながらつかさは少々渋い顔をした。
「すごいじゃん」
「でも、半分、ううん、半分以上あたしのじゃない…はず」
「はず? どういうこと?」
「吾郎のお金なの」
「慰謝料もらったの?」
意外…と、つかさの顔を見遣る織瀬。
「もらってない…つもりだったんだけど、」
「だけど?」
「ほら、通帳は自由にしていいって言われたって覚えてる? どうせ大した額じゃないと思って、すぐに確認してなかったの。手続きとかあったし?」
「うん」
「で、こないだ銀行の用事のついでに確認したら…結構な額がね…」
「あったんだ」
いくらとは言わないまでも、開業できるくらいの資金が手元にあるということだ。
「それがね、その通帳の名義が吾郎じゃなくてあたしになってたのよね…」
「え? 吾郎さんがつかさの名前で作ってくれてたってこと?」
「どうも、そうでもないみたいなんだよね…中身を確認してみると。旧姓だったし」
「どういうこと?」
「あたしも解んなくて。でも、どうしたもんか…。自分のじゃないし、わざわざ『使っていいか』って確認するのもなんだし?」
「でも、つかさの名前なんでしょ…?」
「そうだけど、解らないお金だからさ」
「まぁ、今さら吾郎さんに会うのもね」
「お金のことだし、さ…。気が引ける」
「使っちゃいなよ。慰謝料だと思って」
「そうなんだけど…そういうわけにも」
「なかなか難しいかぁ…」
額の問題ではないだろうが、なかなかに手を出しにくい。
「積み立てかなんかなの? それとも定期?」
「よくわかんない。でも定期では、ないかな…。でも、積み立てにしても月々の金額がまばらだし、同じ月にちょこちょこ入ってたり、まとめてだったり、まったくない月もあるから。思い付きで入金してるような、そんな感じ」
「へぇ…。でも、どっちにしても引っ越しにはお金がいるんだし、使っていいって言われたんでしょ?」
「そうなんだよねぇ…。聞いてみようかなぁ…」
溜め息をつく。
「かっちゃんに聞いてみれば? なにか聞いてるかもよ…?」
「そうも思ったんだけど、さ。なんか聞きづらくて…」
機会がなかったわけではない。だが『吾郎教』かもしれない舵にお金の話はどうしてもできなかったのだ。
「自分のお店、持ちたくないの?」
「そりゃ、夢ではあるけど。…でも店開くとなったら最低限のスタッフも募集しないとならないし、今の店のコ引き抜くわけにもいかないから、今の仕事しながら準備するのは正直きついのよね。辞めるって言った途端、準備期間もなく首切られちゃったら、それこそ余計なお金がかかるじゃない?」
「確かにそうだね…」
「まだ、そうするって決めたわけじゃないけどね」
いずれにせよ、考えることは山積みだ。
「だからどっちにしても慎重に進めないと…。しばらく、ココだけの話にしといてくれる?」
「うん。わかった」
ココだけの話、の言葉に織瀬はなにか思うところがあったのか、
「ねぇ、つかさ…」
「うん…?」
「こないだね、もえもえに会ったんだけど…」
だが、織瀬の言葉を遮るように、
「あ…」
前方を見据えたままつかさが立ち止まった。
「なに?」
「珍しいこともあるものねぇ…章悟くんが女に絡まれてる」
すぐ横の織瀬に目をうつす。すると織瀬の目はすでに前方に釘付けになっていた。
店の前で『kyss』のバーテンダー〈真田章悟〉が、なにやら若い女性に両腕を掴まれて口論している様子が窺えた。
「帰ろ」
(え?)
織瀬はその様子に言葉もなく、つかさの腕を掴んできびすを返した。
「え? ちょっと…」
足早に元来た道を引き返そうとする織瀬に引っ張られる形で、
「おりちゃん…?」
のろのろと織瀬の背中と真田とを交互に見遣るつかさ。
(おりちゃん、まさか…)
「どうしよう…つかさ…」
うつむいた織瀬の顔を覗き込むと、今まで見たこともないこわばった表情をしていた。
「織瀬さん…」
声に振り返ると、息を切らし髪を乱した真田がすぐ後ろに迫っていた。
(やだ、追いかけてきたの? この2人、どうなってんの)
なんとなく、真実がいなくてよかったと思うつかさ。
「待ってください…」
いつの間にかふたりの背後に追いついてきた真田が織瀬の肩をつかむ。
「なに? お客さん、待ってるよ」
その手を振り払うようにして肩をよじらせる織瀬。
「そうですけど、誤解されたかと思って」
「誤解もなにも、わたしがあなたを気にする必要なんてない!」
多少上ずった声で答える織瀬は、うつむいた姿勢のままだ。
「そうですけど、オレが嫌なんで…!」
腕をつかむ。
(あたし、いない方がいいのかしら…?)
そう思いながらもオロオロと、ふたりから目が離せないつかさ。
「うちに来たんでしょう…? とりあえず、店入ってください」
「イヤ…!」
織瀬がそう言い切ると同時、
「章悟~」
真田の背後から若い女の声が急き立てる。
「とにかく、今日は帰るから…。離して…」
織瀬のいつにない低い声。
「真田くん…」
とうとう見兼ねたつかさが真田を諭すように首を横に振った。
「…すみません」
ハッとした様子で真田が織瀬の腕を離した。
「今日は、予定があって…別なところへ向かう途中なのよ」
苦し紛れのセリフだったが、織瀬のことを考えればそう取り繕うしかなかった。
「そうでしたか。申し訳ありません、早とちりしてしまって…」
真田はそう言い、深々と頭を下げた。
「そんなことないわ。また寄せてもらうわね…」
言いながら織瀬の肩をとり、きた道を戻る方向で歩を進めた。
「はい。お待ちしてます…」
つかさは、珍しく意固地になる真田を見たと思った。店でのいつもの余裕が見られない。
このふたりの間には既になにかが起きている。
なにかが芽生え始めているのだ。
「おりちゃん、しっかり…!」
支えるように抱えた織瀬の肩は小刻みに震えていた。
「ごめん、ごめん、つかさ。あたし…」
「いいよ、なにも言わなくて。どこか静かなところに行こう」
「ごめん…ごめ…」
織瀬は小さく、何度もそうつぶやいた。





まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します