バラ

小説『オスカルな女たち』4

第 1 章 『 意 思 』・・・4


   《  玲  》

水本 玲:みずもとあきら(旧姓:御門(みかど))   
いわゆるお金持ちのご令嬢であった彼女は、なにに夢中になることもなく、観賞用の熱帯魚のように優雅な学生生活を送っていた。とはいうものの、それは見た目の見解で本人の思うところではなかった。
生まれながらに備わった気品と美貌で注目を浴びていたことは言うまでもない。芸能事務所からのお声も高く、他校の男子高生の間では〈ファンクラブ〉があったほど、とにかく話題に事欠かない存在だった。当人はそんなことには我関せずと見向きもしなかったが、見た目にたがわず気性が激しく束縛されることをなによりも嫌い、少々やんちゃな面もあったために黒い噂も絶えなかった。
在学当時はその美貌から幼馴染の真実(まこと)の恋人と目され、一部では彼女を『秀麗のフェルゼン』と呼ぶ者もいたが、手の届かない存在とお金持ちに対する皮肉を込めて『高嶺(値)のオスカル』と呼ばれていた。
そんな彼女は家柄よろしく、当時から多数の婚約者候補がいたが、レールを敷かれることを疎ましく思い高校を卒業と同時に空白の2年を過ごす。そののち、どこぞの馬の骨と駆け落ちし、真実が医大を卒業する頃にひょっこりと現れ、その時既にふたりの子どもを両手に連れていた。最初の子は私生児だが、その後不動産業を営む年上の男性に見初められ結婚。最近も出産したばかりだが、今では5人のママである。

「…いやぁ、ホンっと助かりました。あそこの土地、ツラはいいんですけど、駅から遠いんで『建築条件』外してもらわないと絶対売れないんすよ。何回説明してもちっとも理解してくれないから…」
駐車場を出て、人混みを避けながら駅前を横切る。
賑やかな音楽の中、隣でやたら威勢よく捲し立てているこの男は、玲(あきら)の夫が経営する不動産会社と業務提携しているハウスメーカーの営業マン〈秋山忠征(ただゆき)〉である。厄介な地主が若い秋山の話を聞き入れないとのことから、夫の代理として交渉の場に連れ出された帰り道だった。
「さすが玲さん、やっぱ違うわぁ。ちょっと丁寧に挨拶しただけでコロッと態度変わっちゃうもんなぁ…」
重そうに形の変形したビジネスバッグを持ち換え、ハンカチをおでこにあてる秋山。
(だからなに…?)
褒められれば褒められるほど、玲は苛立ちを覚えた。
ちょっと丁寧に挨拶しただけで?…挨拶で仕事がまとまるなら知識は必要ない。ちょっと心がければ済む、生活習慣の常識ではないのか。
「玲さん、歩くの早いっすね…」
駅前通りの信号を渡り、コツコツと軽快なヒールの音を響かせる玲の1歩後ろを歩く秋山は、玲の肩にかかる真っ赤なトートバッグをまぶしそうに眼で追っていた。
「そう?」
(機嫌が悪いのよ! 察しなさいよ。相変わらず鈍い男ね…だから空気も読めずにクライアントを怒らせるんじゃない)
「え? なんすか?」
(もう…!)
「私はなにもしていない、って言ったのよ」
商店街を颯爽と歩く玲は、前を向いたまま答える。
不動産業を営む夫と結婚し、小さいながらも自分の店舗を預かった。夫には「必要ない」と言われたが、プライドの高い玲はお飾りや形ばかりのただの看板にならないようにと、それなりの勉強をして宅建の資格を取得した。だが与えられる仕事と言えば、毎回この程度のことばかりだ。
「またまたぁ…なにもしてないと見せかけて、しっかりまとめちゃってくれっちゃってるじゃないっすかー。交渉成立!…っすよ?」
確かに結果はそうだ。だが、
「こんなの仕事のうちに入らないわ」
仕事のために出掛けているのに、仕事をしている実感がまったく湧いてこない。
「そんな謙遜。いちいちカッコいいんだから」
なにを言ってものんきな言葉しか返ってこない。
(あなたはいちいち癇に障るのよ)
謙遜?…これが謙遜ならもっと気分がいいはずだ。
「私はもっと、」
言いかけ、もっとなにがしたいのだ?…と自分に問いかける玲。
「これじゃキャリアウーマンとは言えないわ」
小声で愚痴るも、そんな言葉も聞き逃さない秋山は、
「え、バリバリのキャリアウーマンじゃないすか!」
と、スーツ姿の玲を上から見下ろす。
そんな秋山をチラリと一瞥し「格好だけね」と流す。
「そんな玲さん、カッコいいっす」
ますます玲の苛立ちをあおる。この男の言葉は、本気なのか馬鹿にして持ち上げているだけなのか、最近の若者の言葉は本音が見えない。
キャリアウーマン? そんなわけがない!…と玲は思っている。
ただ営業マンと出掛けて行き、にこにこ笑って名刺を差し出し、秋山の言葉を丁寧に復唱しただけのこと。こんな仕事なら事務所で留守番をしている女子社員にだってできたはずだ。
(確かに、癖のあるおじいさんだったけれど…)
玲はもっと「もっともらしい仕事」がしたいと考えていた。自分でもそれがなんなのか、やりたいことは「これだ」とはっきりとは言えないが、いつも心のどこかで「なにかが違う」と感じていた。だからといって今日の案件を軽く見ていたわけではない。仕事はどれも大事だと理解している。だが、ただ顔を出すだけで成立するような案件ではなく、クライアントにとってもっと実りある提供を手掛けたいと常々思っているのだ。
「そもそもキャリアウーマンて、どんな仕事してんすか?」
そんな玲の葛藤を、間の抜けた言葉で現実に引き戻す。
「どんな仕事…って?」
確かにそうだ。それはそうなのだが、
(なに? このイライラは…)
ランチタイムの飲食店街を抜け、高層ビル街に向かっていく。本来なら、仕事上がりで「食事でも」と行きたいところだろうが、こんな気持ちでこの男と卓を一緒にすることなどできようか。鼻をくすぐる誘惑も今の玲には邪魔でしかない。
「仕事は…仕事よ」
確かに仕事は仕事なのだ。「ただにこにこしている」だけでも、「有り体の言葉を並べる」だけでも、それをおざなりにしているわけでもなければ、失敗したわけでもない。それなのになぜこうも満たされないのだろう。
ふと、10日ほど前の記憶をたどる。
同窓会の席で、自分の仕事の話をしていた友人たちの憂いを帯びた顔を思い浮かべる。みなそれぞれに自分の仕事の愚痴や不満をこぼしていた。だが、自分の不満は「もっとちゃんとした仕事がしたい」ことだとは言えずにただ笑って聞いていた玲。それを「余裕」の態度と受け止められるのだからまた腹立たしい。
「は…なんなの」
途端に玲は落胆し、歩みが遅くなる。
「え? どうしたんすか?」
「あぁ、ちょっと…同窓会のことを思い出し、て…」
つい、話すつもりのないことを口にしてしまった。
「同窓会? いつのです?」
「高校…の、よ」
「へぇ~。玲さんて、確かお嬢様学校だったんすよね?」
「まぁ、そうね」
また、頭の痛い質問が次から次へと飛び出してきた。適当にやり過ごすこともできたのだが、思い出しついでについ、母校の慣わしなどを語って聞かせてしまっていた。
「今どき、女子高って珍しいっすよね」
「今は共学のはずよ…。お願いだから、事務所でその話はしないでね」
「なんでですか?」
「いろいろ面倒だから…」
玲の任されている小さな不動産屋は、人混みが切れる大通りの手前に位置していた。コンビニエンスストアの角を斜めに入り、小さな信号機を渡ったビジネスホテルの隣にある。場所的にはあまり良いとはいえないが、道を一本入ったところにハローワークがあることからそれなりに需要はあった。
〈水本不動産〉なんのひねりもないネーミングだ。だが、育ちが豪勢な玲はそのシンプルさが気に入っている3階建ての商業用ビルだ。
曇りガラスの扉を押し開け、
「ただいま…」
と、入口の重い扉が開くと、事務所内に流れる静かなムード音楽が聞こえてくる。
「あ、おかえりなさい。どうでした?」
留守番をしていた女子社員が立ち上がった。
「ばっちり」
玲の代わりに意気揚々とガッツポーズで答える秋山。
「さすが玲さん!」
玲が出向けば仕事は決まる…仕事内容を把握していない若い女子社員にも、「結果ははじめから解っている」といった様子がまた、玲には馬鹿にされているようで腹立たしい。
「綾香ちゃん、お茶もらえる? 冷たいもの…」
世間では梅雨入り宣言をしたというのに、今日の天気はどうだ。駐車場から会社までの10分程度の道のりで、顔が紅潮するほどの暑さだ。
「はーい」
給湯室に向かいながら返事を返す女子社員〈小森綾香〉。
自分のデスクにバッグをおろし、それとも天候は気のせいで、苛立ちからくる熱さなのか…とソファに腰掛ける秋山に目を移すと、上着を脱いでいるところだった。

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「…他にどんなオスカルがいたんですか?」
膝の上にあったビジネスバッグを、前のめりにソファに沿って床に下ろす。先ほどの忠告もすっかり忘れてしっかり長居するつもりの体勢だ。
「ほか?」
話を振ったものの、それほど質問を受けるとは思ってもおらずに、玲は面倒臭そうに答える。つい先日の〈同窓会〉の話をうっかり口にしてしまったばかりにそんな会話を続ける羽目になった。
「ん~、どうだったかしら…。あぁ、『残念なオスカル』って子もいたかしら」
デスクの上の自分宛ての書類に目を通しながら、うわの空で返す。
「残念? なんすかそれ」
秋山はこの事務所内ではすっかり馴染みの顔だった。いつも「新築の家を建てるのによい土地物件はないか」市場調査に訪れた…といっては、近くに来るといつも顔を出す自称「玲ファン」なのだ。
「名前は確か…。翼、だったかしら。でもまったく飛び立つ要素のない地味な子だった、のじゃないかしら。でも今は、クリーニング店の車に乗っているわ」
言いながら玲は秋山と向かい合って座る。
(そう。それも立派な職業のひとつだわ…)
未だ自分の中の疑念を払拭できない玲は、もやもやとそんなことを考えた。
「へぇ~飛び立つ要素がない…ウケますね、それ」
「女子高生は非情よね」
そのあだ名の慣わしは、最初は純粋なものだったかもしれない。だが、見方を変えればそんな皮肉な表現もできるのだ。ある意味いじめにも発展しかねない。かく言う玲の呼び名とて『高嶺(値)のオスカル』とは充分皮肉を含んだものだ。
「他には?」
秋山は身を乗り出しながら、
「全員がオスカルだったわけじゃないんですよね? その〈男前な名前〉の人たち、だけだったんでしょ? なん人くらいいたんすか?」
「男前って、あなたね。…そんなわけでもなかったのじゃないかしら…あんまり興味がなかったから、覚えていないわ」
答えるのが面倒なときの常套手段「覚えてない」。玲的にあまり触れてほしくない、むしろ避けて通りたい過去だった。
(だから、事務所では話すなって言ったのに…!)
「またまたぁ…。そもそも誰がつけるんすか、その源氏名は」
「源氏名って、あなたね…」
つくづく癇に障る男だ。
まぁいいわ…と、諦めたように背もたれに身を預ける玲。
「誰かしらね。…どうせ暇な輩でしょ」
腕組をして顔をそらす。
「だって、当時はなんて呼ばれてたのか知らなかったわけでしょう。同窓会で暴露話。楽しそうっすねえ、女子高」
「そんなに楽しいことでもないわ。私は知っていたし」
楽しんでいたのは、憧れているうち…自分にも、そんな頃があったのは確かだ。だが、校内での自分の立ち位置に気づいた時それは一変した。
「そうなんすか?」
言いながら背もたれに身を預ける。
「玲さんは本物のお嬢様だったから、取り巻きがた~くさんいたんですよねえ」
給湯室から綾香の浮かれた声がついでのように飛んでくる。
「取り巻き?」
「いやぁね。ご学友よ、ご、が、く、ゆ、う」
慌てて取り成し、
「…私はね、その暇な輩と同等だったのでしょうよ」
実際暇だったのかは別として、当時から取り巻きの多かったのは事実だ。玲の耳にはどんなオスカルの話も、望めば漏らさず入ってきていた。そういう意味では〈暇な輩〉というのは周りに多かったのかもしれない。
「玲さんも名前付けたりしたんですか?」
「私はしないわよ、そんなくだらない…」
そう、思ってもみなかった。玲には、他人にあだ名をつけられるほど親しい間柄や見知った顔があるわけでもなかったからだ。周りがどう思っていようが感じていようが、玲が〈友人〉と呼べる者などいないに等しかった。
「余裕だなぁ…」
「そういうことじゃない、の」
あきれた…とため息をつく。
「退屈な女子高の、小学生みたいな〈ごっこ遊び〉のひとつよ。…みんな、オスカルになりたがった」
(…そう、そんな遊びもあったわね)
名前をつけてもらった生徒は迷惑な者もいただろう。だが、それを自身の〈肩書き〉と捉える者も少なくはなかった。非情どころか、悪逆とも言えるかもしれない。
「なりたかったんすか?」
「いたと思うわよ、なりたかった子…。たとえば、仲のいい友達がなんとかのオスカルって呼ばれていたら『自分も』って思うのが乙女の心理じゃないかしら?」
「そんなもんすか?」
「そうねぇ…。疎外感感じちゃうかも…? 女の子はみんな、誰でも特別扱いされたいですからね」
冷たいお茶に和菓子を持って綾香が姿を見せる。
「そんなもんすか…」
妙に感心する姿がおかしい。
「当時から知ってたら、もっと楽しかったんじゃないですか?」
お茶を置いて、玲の隣に座る綾香。
いつもはぐらかされる話題に秋山が食いついてくれたおかげで、今日は「聞き逃すまい」と必死の姿が見て取れる。その目は、憧れでいっぱいだった当時の女生徒たちのそれと似ていた。
「それはないわ」
思いのほか即答だったことに、秋山も綾香もびっくりしたようだった。
そう、玲の中にはありえないことだった。
「あの頃は私、まわりがみんな嫌いだったから…」
「…へぇ」
「マコはともかく、あの頃の私にはみんなどうでもよかったのよ」
「マコ? その人もオスカルさんですか」
実際『オスカル』の存在を耳にするのは綾香も初めてのことだった。
「えぇ…ソフトボール部のキャッチャーでね『奇跡のオスカル』って言われていたわ」
「奇跡…? その方もお嬢様ですか」
ますます綾香の目は輝く。
「どの程度をお嬢様と思っているのか知らないけれど…。私の母方の遠縁で、産婦人科医院を営んでいるわ」
「産婦人科…。お医者様ならやっぱり、お嬢様ですね! 素敵」
「私の母の家は資産家というわけではなかったようだけれど…そうなるのかしら。小学校が一緒だったのよ、私はすぐに転校したのだけれど」
言いながら玲はなにか思うところがあるのか、少し暗い表情を見せた。
「転校」
「えぇ。事情があってね…」
それ以上の追及は避けたかったのか、言葉を濁しお茶を手にした。
「そちらで出産されたんですか?」
タイミングよく秋山が切り返す。が、綾香はオスカルを追求したい。
「玲さんは? 玲さんもオスカルですよね、オスカルはなにをするんですか」
問われて墓穴を掘ったと口をつぐむ玲だったが、
「私のことはいいのよ。特別なにもしやしないわ…ただ、そういう呼び名をつけてこそこそ遊んでいただけ」
すぐにそう切り返した。
「こそこそ…」
「女子高生なんてみんな、自分のことばかりだったし、あとは男のコのことしか頭にないでしょう?」
言いながら小さな和菓子を口に放り込む。
「確かに!」
つい数年前まで女子高生をやっていた綾香が食い下がる。
「男子高生の取り巻きも多かったんですよねぇ?」
楽しそうに続ける綾香は、どうしてもそこを掘り下げたくてしょうがない。が、
「取り巻きじゃないのよ、綾香ちゃん。その話はやめてね。黒歴史だわ」
玲はいつものように取り合わない。
「え~」
本気の残念が玲の耳に刺さる。
「その頃からモテたんすね…。取り巻きって、さすがだなぁ。その頃会いたかったわあ」
大げさに頭を抱えて仰け反る秋山、自称「玲ファン」のその言葉はなまじ嘘ではなさそうだ。
「そんなにいいものじゃないわ」
少々語気が強くなったことに、気を取り成して息をつく。
「…取り巻きって聞こえはいいけれど、結局は私のご機嫌を取る人たちのことよ? 友達とは言えないわ、それが楽しい?」
人のことだと思って、面白おかしく…玲はわずかに苛立ちを覚える。
「そう言われると…」
「まぁ確かに…楽しそう、ではないですね。…でも、やっぱ羨ましいっす」
確かに育ちも違えば、生活も境遇も違う。話を聞くだけなら羨ましい話なのだろう。しかし、当の玲にとってはあまりいい思い出とはいい難い。
「のんきね。友達じゃないってことは、油断ならないってことよ。隙を見せればつけこまれる、うかうか世間話もできやしない。それにあの頃…勝手なイメージもあったしね…どこに行っても、お嬢様はお邪魔様、目の上のたんこぶって…とにかくいいことばかりじゃないわ」
そう言って玲は、少し遠い目をして見せた。
「へぇ…」
「じゃ、なんで同窓会なんて行こうと思ったんですか? みんな嫌いだったのに…」
不思議そうに綾香が問う。
「え?」
確かに、本来ならみんな面倒くさがって出掛けて行かないところだ。
「そう、なのよねぇ…。100周年のときばかりじゃなかったのよね、うちのホテルを使っていたのって…」
自分でもびっくり、と、お茶を静かに口元に運んだ。
「でた!…うちのホテル。言ってみてぇ」
いちいち大げさに仰け反ってみせる秋山。オーバーリアクションは若さゆえか。
「仕方がないじゃない、実家だもの」
「まぁ、そうっすけどね…天下の御門(みかど)グループですもんね」
「や、め、な、さい」
軽く睨みを利かせる。
「会いたい人でもいたんですか?」
「…そんなはずないわよねぇ」
思い出そうと思考を巡らせる。
皮肉のつもりだったのだろうか…だとしても、誰への皮肉のつもりだったのか。
日々の退屈と、お家事情の堅苦しさから逃れたいがために玲は、人生の分岐点において様々な取捨選択をしてきた。女子高もそのひとつであったが、それを思うと唯一の成功例は、当時はまったく接点のなかった人間との奇妙な縁であろうか。
資産家の令嬢とは言え、「なに不自由なく」という言葉は正解ではないと思っている。それを贅沢といわれてしまえば反論のしようもないが、人はそれぞれ自分の置かれた環境において「すべてが満足とはいえない」ことだけは共通しているのではないだろうか。
玲には3人の兄がいる。ゆえに玲には、それほど難しいポジションも、厳かで堅苦しい将来も用意されているわけではなかった。母親を早くに亡くしていたためか、正直父親は玲の扱いを持て余していた。紅一点の玲の周りには「母親もどき」の家庭教師の女性が3人と、話し相手の「姉様もどき」が数名存在していたが、当然満たされることはなかった。
そしてまた、ここでも満たされない日々が続いている・・・・。
「よくよく考えてみたら…。私が知らないだけで、たくさんいたのかもしれないわ『オスカル』」
自分の周りだけでも、結構思い返せることに驚く玲。
資産家の御令嬢たちにとっては「厳かな伝統」であっても、一般の女子高生には「単なるあだ名」でしかないのだ。なにかにつけ『オスカル』とこじつけていれば話題に事欠かないし、退屈な女子校の退屈な憂さ晴らしだったのかもしれない。
「今も取り巻きはご健在で?」
仕事場での玲しか知らない秋山は、プライベートに興味津々だ。
「取り巻きじゃないのよ、ご学友。…卒業してしまえば関係ないでしょう、皆さんそれぞれの進路があったでしょうし」
「噂も聞かない?」
「だから、その噂を私に届けるほどのお付き合いがないってことよ」
「じゃぁ、お付き合いがあるのは『奇跡のオスカル』の幼馴染さんだけですか?」
(幼馴染さん…?)
綾香の表情はなにを期待しているのか、うっとりとしている。
「大人になれば事情も違うわ。みんなそれぞれの生活もあるし…でも、あの頃はいなかった〈おともだち〉ができたかしらね」
「すてき…!」
「さ、て…と。無駄話はこれくらいにして」
チラリと時計に目をやり立ち上がる。
「ちょっと早いけど、もう出るわね」
このまま昔ばなしをさせられるのはごめん…と、玲は無理に話を切り上げた。
「え~。まだ早いんじゃ…」
言いかけて、玲の鋭いまなざしに「あ…」と、口をつぐむ綾香。
「…はい。今日はもう戻られませんか?」
綾香も同時に立ち上がり、グラスをトレイに乗せて給湯室に向かう。
「そうね、時間も読めないし…」
「あれ? もう帰るんすか…?」
客(自分)がいるにもかかわらず、いそいそと帰り支度の玲に問う秋山。
「これから保育園に寄って、そのあとは『奇跡のオスカル』の病院でちびの6ヶ月検診なのよ。…それじゃ綾香ちゃん、あとよろしくね」
綾香に目配せして、先ほどのトートバッグとは違う小さな高級バッグを担ぎ上げて出口に向かう。
「えー。ほんとに行っちゃうんすか…」
玲の姿を追うように振り返り、大げさにソファの背もたれをつかんでみせる。
「あなたもいい加減仕事しなさいよ…」
言いながらウィンクを残していく玲の声は、出入り口の分厚いガラス扉にさえぎられすぐに聞こえなくなった。
「実際つめてぇよなぁ…玲さんは」
後ろ髪ひかれることもなく颯爽と出て行く後姿を、名残惜しそうに見送る秋山。
「いい加減あきらめなさよ」
後を頼まれた綾香は上司が戻らないことを確信し、自分も早々に帰宅しようと考えている。
「秋山さんも、仕事したほうがいいですよ。お金稼がないと」
上司がいなくなった途端我が物顔でソファにもたれこみ、接客用においてあるお菓子に手を伸ばす綾香。
「あれで4人の子持ちだもんな。詐欺だよ」
体質なのか、出産直後とは思えないプロポーションをさしていう。
「5人よ。ちびちゃんが生まれたんだから。5、に、ん」
「5人…」
「あそこの夫婦はラブラブだから、入り込む隙なんかないわ」
恨めしそうにデスクに飾ってある家族写真を目で示す。そこには4人の子どもたちと一緒に優しそうな小太りの中年男性と、一見娘にでも見えそうな派手な洋装の玲の姿が写っていた。
「なんだよ、ラブラブって」
「かた~い絆で、結ばれてるの」
胸の前で大袈裟に、交互に手と手を握り合わせて見せる。
「…そうだよなぁ、5人も妊娠させられてんだもんなぁ…」
「下世話な言い方しない! 本気で相手にされるとでも思ってるの、あの玲さんに」
内心半信半疑だった綾香だが、このところの秋山の出没頻度をいささか異常だと感じている。
「だって、社長はいくつだよ。もう充分だろ?」
自称ファンの秋山は、どうにか玲を振り向かせたいらしい。
「馬鹿みたい。子持ちよ?」
「子持ちだろうが、いい女はいい女だろ」
悪びれないが、いい趣味とは言えない。
「玲さんが確か、37か8で…。11歳上だから、社長は48か9?」
「もう50じゃーん、ありえねぇ。玲さんならもっと選べただろうに」
「大人の魅力ってやつじゃないの?」
「あんなぽや~っとしたオヤジのどこに大人の魅力があんだよ」
「そんなこと言って! 優しいわよぉ、社長。ぐずぐず言わないし。男は包容力とお金でしょう…?」
情けないわね、と席を立つ。
「いい加減油売ってないで、営業に行きなさいよ。会社に告げ口するわよ」
給湯室に向かう途中、社内に流れる音楽の電源を落とす綾香。
「結局金かぁ…」
情けない男のぼやきがこぼれる。
「お金なら、玲さんの方が持ってると思うけど…」
「じゃ、なんならいいんだよ」
給湯室に向かって言葉を投げる秋山。
「知らないわよ。早く帰って」
それを受け、面倒くさそうに返す綾香。
静まり返った事務所内には、機械音と社外の車の音が空しく響くだけだった。


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します