テーブルヤシ

小説『オスカルな女たち』39

第 10 章 『 暴 露 』・・・3


     《 ありのまま 》


「キス、嫌いだっけ?」
いつもの食事のあと、酔い覚ましにふらふらと駅地下の通路を歩いていた。白い壁に蛍光灯が明る過ぎるくらいに反射する地下道の中、かすかに聞こえてくるのはどこかを流れる水の音と空調のダクトを流れる風の音だけ。
ひと気のない通路は静まり返っていて、いつも歩きなれているはずの場所なのに、まるで出口のない未知なる空洞を歩いているかのようだった。
頭の中は不思議なくらいに真っ白で、ふわふわとした流れに任せ歩いていたつかさは、急に伸びて来た掌に腕を掴まれ現実に引き戻された。そうかと思うと突然の壁ドン、からの圭慈の〈キス発言〉はどこか間が抜けていて、
「え…圭ちゃん、酔ってる?」
引きつる笑顔で受け応えるつかさ。だが、そんな決まり文句などで圭慈の真顔は流せなかった。
「そういう状況? この状態」
思いのほか鋭い口調で、獲物を捕らえた獣のような目を向ける圭慈に、つかさは一瞬怯んだ自分を誤魔化すように瞬きし、
「…随分してないから、へたくそになったかと思って…」
そう言って苦笑いを返した。
「可愛いこというなよ。…じゃ、舌出して」
「ぇ…?」
(舌? 出すの?)
随分と間の抜けた顔をしていると思う。だが、どんな顔が正解なのか。いや、そんなことはどうでもいい、緊急事態なのだ。
「ちょっとでいいから」
今夜はいつもより遅い待ち合わせだったし、もしかしたら…なんてそんな期待がなかったわけではない。だからといって目の前のいきなりの展開に、備えがあるわけでもなく、
(どうしよう…)
小さく下唇を動かして息を吸い込むつかさ。途端、その隙間から一瞬のスキをついて小さな獲物を絡めとるように唇が吸い付いてきた。
ズキン…と、なにかに胸を打たれたような衝撃と、奥歯に炭酸水が浸み込むような刺激を感じながら、急速に広がる心地よい痛みに身を任せた。
一瞬のような永遠のような見えない時間が流れ、目を閉じる。
「オレ、つかさなら大丈夫だと思うんだ」
くどいくらいの口づけのあと、つかさの肩に顔をうずめた圭慈がぼそりと言った。
(大丈夫…?)
「…なにが?」
なかなか壁からはがれない自分の背中をゆっくりと起こすと、圭慈に手を引かれ再び歩き出す。
「待って…圭ちゃん。あたし…」
(心の準備が、まだ…)
まだ…?
なにが「まだ」だというのか、つかさは激しく胸打つ鼓動の理由を探しながら自分で自分の言葉に疑問符を投げた。
(吾郎は…)
あの人は、自分からはダメな人だった・・・・。
〈女のくせにスケベだな〉
〈あなたが淡白すぎるのよ〉
不意に、元夫〈吾郎〉との初めての夜の光景がつかさの脳裏をかすめた。
吾郎はプライドが高く、自分から女性を求めることをしなかった。プライドが邪魔して、女性を求めることが出来なかった。だからこちらが大胆な行動を示し、吾郎の心に乱暴なほどに踏み込まないと欲情できない体質だったのだ。
(なんで今、こんなこと…)
しかも吾郎は…つい最近まで嫌悪してやまなかった相手なのにと、自分の付き合いの浅さを嘆くつかさ。ほかの男に手をひかれながらも、違う男のことを考えている。懐かしい歌のフレーズのように、意外と頭の中は冷静だった。
恋愛とは、こんなものだろうか…。
(これは、恋…なのかな?)
階段を上って地上に出ると、少しぬるい風が先ほどまでの心地よさを一気に吹き飛ばしていくようだった。
つかさはとにかく「沈黙に飲まれたくない」と思った。
「ねぇ、圭ちゃん…。前にもこんなことあったね」
ひと気のないネオン街を目指して歩いていく圭慈に手をひかれながら、無言の背中に呼び掛ける。
「あの頃のあたしたちって、さ…」
でもなにを話すつもりで口を開いたのか、言葉に迷っていると、
「つかさはさ…!」
圭慈はそう力強い言葉でさえぎり、振り返らずに足を止めた。
「つかさは昔話ばっかりだな」
ちょっと驚くくらいのきつい口調が返ってきた。
「ぇ…。っと…」
(なんか、地雷踏んだ…かな)
「今の俺は見えないか?」
自然に手の力が抜け、今まであたたかかった手首に風が吹いた。
「そんなことない。ただ」
「いやいいんだ。帰ろう」
(あ…もしかして、やる気そいじゃった…?)
「あたしって、かわいくないよね。やっぱり、こういうところが」
黙っていればいいものを…と、我ながら空気が読めないと自分を叱責するつかさ。だが。
「違うんだ」
「え…」
「違うんだ、つかさ。俺は・・・・」
先ほどまでの力強さとは違って、振り返った圭慈は、まるで泣いている子どものような目をしていた。
「けい、ちゃん…」

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(俺は…? なんだったんだろう)
シャワーを浴びながら、順を追って一昨日のことを思い返してみる。
ラーメン屋でも居酒屋でもなく、圭慈にしては珍しいアンティーク調の小さなカウンターバーに誘われ、美味しいワインをいただいてひとしきり盛り上がった。だがやはり、近況報告のあとに続く会話は、一緒の会社にいた頃の過去の思い出話に遡りあっという間に話題が尽きてしまうのだ。それでも昨日は、つかさの新しい店舗の出店を祝って…と、いつもと違った時間を過ごせたつもりでいた。
結局、なにもなかった。
(べつにいいんだけど…)
初めから期待していたわけではない。だが、昨夜は再会後初めてのキスをした。
夏の初めに再会してから3ヶ月、仕事帰りにどちらかの最寄り駅で待ち合わせ夕食を共にし、一緒にいる時間はだいたい2時間から3時間。毎度お行儀よくどちらかの駅で別れ、次の約束はしない。
(これって、学生の恋愛じゃん…)
休日の約束ができる学生の方がまだましか…と、未だ圭慈の身上について詳しく知りえない自分に「このままでいいのか」と疑問を抱く。
そもそも「恋愛」と言えるのかが解らない。仕事帰りに待ち合わせて一緒に食事をするだけなら、織瀬(おりせ)や真実(まこと)たちと大差ないのだ。
シャワーの栓を締め、ゆっくりと体を起こしたあと、鏡に映る自分のおっぱいを両手ですくい上げてみる。
「玲ほどでなくても、もうちょっとこう…」
斜めに右肩を傾け、鏡に映る自分のおっぱいをついと持ち上げる。
「せめておりちゃんくらい…」
と言ったところで、自分の行動に呆れる。
いっぱしの女のような行動が、どうにも自分には滑稽な仕草のようで結びつかない。
「だから、どうでもいいって」
言い訳のように腰に手を当て、今さら男なんて…と毒づいて鏡の中の自分を睨みつけてバスルームを後にした。

ヴァン3

「ほらほら、ご出勤ですよ…」
3本のリードを片手に持ち玄関ドアの鍵を閉める。
ここ数日は新しい店の開店準備に忙しく、そんな日常が嬉しいつかさだった。同じように、そんな生活にすっかりと慣らされた愛犬たちにぐいぐいと引かれながらすぐ左脇の非常階段を降りていくと、店の前に派手な人影が見て取れた。
「あれ、玲(あきら)。…早いね。え? なんか約束してた? もしかしてあたし、待たせた?」
小走りに近寄っていく。
「いいえ。近くまで来たから寄ってみたの。どう? 住み心地は」
「すごくいいよ。散歩コースに川があるっていいね。気持ちいいし、この子たちも大喜び! 今、鍵開けるね」
足元に絡まる3匹をうまく払いながら、店の鍵を取り出す。
「開店はいつになりそう?」
「来月の前半…半ばまでには、と思ってるんだ。おりちゃんの退院を待って、無理がなければ。…せっかくだからさ、みんなにいてほしい」
そう言ってつかさは、大きな「C」の字に曲がる木製の取っ手に手を掛け、曇りガラスの扉を勢いよく引いた。
「そうね…」
店内はまだ新しい匂いがする。つかさはカウンターの上に鍵を置き、奥に進む。
「向こうの店も今月いっぱいだし、全部引き継ぐといってもどのくらいのお客さんがついてきてくれるのか…出来れば間を空けたくないと思って」
「そうね。駅前だったし、向こうの方が便利は便利だったものね」
これからどんな風に変わっていくのか…とカウンタ―前に目を止める玲。
「へぇ…『#selfish dog』…ねぇ。わがままな犬?」
店の中にはいると、出来上がって来たばかりの木製の看板が立て掛けてあり、
「あぁ…。気まぐれな犬…かな? あたしの場合」
そう言ってつかさは玲を振り返る。
「前の店の名前もよかったけど…。いいじゃない」
雇われ店長をしていたトリミングサロンは『friendly hand(やさしい手)』という名前だった。
「そう? 前の店はさ、オーナーが『ラ・ボエーム』?…が好きでね。『冷たい手』を『やさしい手』って記憶してた、っていう…オチが由来なの」
店内の電気をつけると、空調音を飲み込み静かなネイチャーサウンドが流れ出した。
「へぇ…ボエームねぇ…」
「クラッシックはガラじゃないし。名前くらいは自分らしくしたいと思って…まぁ全部がイチからじゃないだけありがたいけど。向こうでもチラシ配って、宣伝する手間も省けてるから」
「つかさはどちらかというと『ツィゴイネルワイゼン』って感じだけど」
店内の隅に簡易的に設置してあるサークルの中に3匹を放すつかさを見て、玲がそう言った。
「ぇ、なに? ちごい…?」
「バイオリンよ。『ツィゴイネルワイゼン』…知らない?」
歩を進めながら、店内の様子を見回す玲。
「あぁ、クラッシックはまるでダメなの、あたし。ボエームだって、店のことがなきゃ知らないままだったもん」
「なかなか聞きごたえのある曲よ。気まぐれな犬…は、彼ら?」
新しいサークルの中、すっかり慣れた様子でそれぞれのおもちゃを振り回す3匹を見て玲が問う。
「そうよ、気まぐれでもらった犬だから」
弟たちと同じ名前の愛犬たちは、必然的に看板犬になりそうだ。
「でも、なんで『#』ついてるの?」
「あ~それ? それも皮肉よ。あたし、ネットとかまるで疎いから。ホームページを開設しろって継(つぐ)がいうんだけど」
「あぁ…そうね。でも、完全予約制でやるなら、特に急がなくてもいいんじゃない? 電話さえあれば」
「そう思う?」
「苦手なら、軌道に乗るまで気が散るようなことは避けた方がいいと私は思うわ」
「気が散る…確かに」
それはいいことを聞いた、とばかりに小刻みにうなずく。
「私も今、ひとりじゃない? 今まで事務員にやらせてた駐車場の契約やら家賃催促の電話なんかもひとりでやっているものだから、電話の応対だけで午前中が終わっちゃうのよ。そういう意味でも、気が散る作業はなるべく少ない方がいいと思うわ」
「なるほどね…。事務所、新しい人入れないの?」
「それがねぇ。異動願を募ったんだけれど、男性社員ばかりで…。主人が渋ってるみたいなの」
「あらぁ…。やきもち?」
仕事なのにね…そう言いながらまんざら悪い気はしていない様子の玲。
「結局募集をかけることにしたわ。やっぱりひとりじゃやりきれないもの…」
「だよね」
「今日は、これからどうするの?」
店内はほとんど仕上がっているように見える。開店まで、これ以上なにをするのか…と問う玲に、
「今日はね。これから、シャンプー用のシンクが入る予定なんだ。大型犬も扱うつもりで準備してたんだけど、ちょっと既製のシンクじゃ幅が合わなくて特注で頼んだから…。あとはね、新しいスタッフの面接」
さすがに店の話となると、つかさの声も弾む。
「あら、経営者らしいじゃない」
「それが不安の種…そういうの得意じゃないから。今さらながらに怖気づいてるの~」
言いながらつかさは仕切りの奥に入っていき、エプロンをかけ戻ってきた。
「そんなことより…今日は、どうした? ホントは話があったんじゃない?」
言いながらつかさは、出入口付近に設置されたカウンターに入ると玲の顔をみた。
「まぁ、そうね…」
玲は小さく溜息をつき、
「今朝、織瀬の病院に行ってきたのよ」
腕組みをしながら、手術を明日に控えた織瀬の入院先に出掛けて来たことを告げた。
「え? そうなの? あたしも後から行こうと思ってたんだけど…言ってくれたら一緒に行ったのに」
そう残念がるつかさに「そうなんだけどね…」と、玲は数日前の真実からの電話の内容を語り始めた。
手術を控えた織瀬の夫がマンションを出て行ったこと、それを聞いた真実が放っておけずに織瀬とふたりで住める部屋を玲に「用意しろ」と言って来たこと、それを受け玲は、明日香のことで織瀬に負担をかけたのではないかと懸念していたこと、などを簡単に話して聞かせた。
「え? それで今、マコちゃんは織瀬のマンションにいるって?」
カウンターの上に置かれたA4サイズの包装された包みを解くつかさ。包みの中身はメニューが印刷されたチラシの束だった。
「そうなのよ。織瀬のワンちゃん、ちょっと調子悪いみたいだったし、すぐにはペットOKのアパートも用意できなくて。ここでもよかったんだけれど…ここからじゃ、マコも織瀬も不便だから。…ひとまずマコが織瀬のマンションに」
ここ…と言ってつかさの住むマンションの上階を見上げ、話し終えたところで玲はまた溜め息をついた。
「ひとりじゃなければ、織瀬のマンションでも問題はないのかと…」
「そうだよねぇ。でもなんでこのタイミングで出てっちゃったの?」
「そこは詳しくは知らないのだけれど…」
「子どものこともあるし、揉めたのかな」
自分の知らない間に、惨事が起きていたのか…と杞憂する。
「まぁ確かに。でも、旦那さまが織瀬と同じように赤ちゃんを望んでいたのなら、お互い思いやってしかるべきじゃないかしら? このタイミングでマンションを出るなんて、むしろ酷じゃない」
「あぁそうか」
織瀬の夫は子どもを欲しがるどころか、子どもができるような行為を致したことがない。それを踏まえれば、愕然とする織瀬に対し申し訳なさから逆に傍についているべき立場ではないのか。
「おりちゃんが追い出した…とか?」
まさかね…と上目づかいで玲を見る。
「そうなのかしら…でも『出て行った』って言っていたし。とにかく織瀬の様子も普通じゃないらしくて、ただの喧嘩ってわけでもなさそうなのよ。そうはいっても旦那さまも、まさか病院には顔を出すだろうと思って…」
様子を見るつもりで出掛けて行ったのだという。
「だよね…。で? いたの、病院に」
「いたわよ。行ったらちょうど受付で旦那さまが入院手続きをしてるところで…待合の椅子に織瀬と座って待ってるマコの顔が、もう鬼のようで…」
言いながら玲は両手で顔をかきむしるようなしぐさをして見せた。
「え~っなんでまこちゃんが」
「だから、マコに『まさか殴ったりしてないでしょうね』って、思わず言ったわよ」
「殴ったの?」
真実ならやりかねない行動につかさは大げさではない反応を見せる。
「我慢したそうよ」
「ガマン…」
(殴りたい衝動はあったのか…)
とはいえ想像がつくだけに思わず笑みを浮かべてしまう。
「早朝に織瀬を迎えにマンションに来たらしいの、旦那さまが。それを受けたのがマコでね…握りこぶしは振り上げていたでしょうねぇ。でも、双方の事情も解らず一方的に殴り掛かるわけにはいかないし、寸でのところで思いとどまったみたいよ」
まるで見て来たかのように語る玲に、つかさ自身も想像に難くないと納得する。
「ひゃ~なんか、修羅場だねぇ…。てか、まこちゃん男前~」
「もう、空気悪いったらなかったわ。手続きが済んで病室に向かう途中、織瀬が突然吐き気をもよおして慌てるし…」
「吐き気~? 大丈夫なの?」
「それが体調からの吐き気なのか、にもよるわね。そのあと、ようやっと病室に落ち着いたと思ったら、今度はものすごい形相で旦那さまに『出てって』って」
「まこちゃんが?」
「織瀬よ。織瀬が旦那さまにそう言ったの」
「え~っ。それはまた意外な展開…」
「でしょう? 私もどうしたらいいのか解らずにおろおろするばかりで…結局マコがその勢いで旦那さまを追い返しちゃったんだけれど。事情を聞くどころじゃなくて…」
それで病院からまっすぐこちらに来た、ということらしい。
「いったいなにがあったのよ~。え、あたし、行かない方がいい?」
手持ち無沙汰のように、メニューの束をいくつかに分けていたつかさが、不意に顔をあげた。
「それはむしろ、行ってあげた方がいいのかもしれないわ。マコも仕事があるからずっと付きっ切りってわけにもいかないだろうし、あの様子じゃ向こうのご両親もいらっしゃるのか…。織瀬ひとりじゃ心配じゃない? それもあってここへ来たのよ」
「あぁ、そうか」
それで玲がここへ来た真の目的に合点がいったつかさ。
「でも荷物が届くのよね? 時間作れそう?」
話しながら忙しく手を動かすつかさを見て玲が言った。
「それは大丈夫だけど…」
出入り口から見て正面にある大きな犬の後ろ姿を模った時計を見ながらつかさが答える。
赤い首輪をしたゴールデンレトリバーが後ろ向きに座って振り返る仕草で、背中から腰の部分が文字盤でふさふさのしっぽが振り子になっている時計だった。天井が高くコンクリート調の壁紙がシンプルすぎるから、この程度のインパクトが必要だと玲が開店祝いに特注でプレゼントしてくれものだった。
「私で済む程度の用なら代わりに店番ができるかしら…と思って。マコもマコで…なんだか様子が変なのよ」
更に玲は口元に手を当て、困ったようなしぐさを見せた。
「様子が変?」
「織瀬のことばかりじゃなさそうなのよね…家の方でなにかあったか…。とにかく、今の織瀬にはつかさの方がいいのかと思って」
これまでのことを考えるに、つかさの方が織瀬も本音を話せるのではないかと思ったらしい。
「なるほど、ね…。おりちゃん、そんな調子で手術なんて耐えられるのかしら」
「入院してしまえば、そこはお医者様が判断なさるでしょう。そのつもりでマコもついてるんだろうし」
「あぁ、そうか」
言いながらつかさは、今度は小さい紙の塊を手元でトントン…と整えてカウンターに置かれた小さなケースに入れた。
「結局、苗字変えなかったの?」
それは、新しい店のために作ったつかさの名刺だった。
「うん。だって、仕事するには〈高鷲(たかす)〉の名前の方が通ってるし。それにね、思い出したの」
「なにを?」
「あたし、さ。結婚した時、画数が増えることが一番うれしかったんだ」
「え? どういうこと」
「弟たちはみんな漢字一文字じゃない? 自分だけ名前がひらがなってのが、昔から仲間はずれみたいで嫌でさ…子どもっぽいし。旧姓の〈大賀〉もそんなに難しい漢字じゃなかったし」
「へぇ…へんなところ気にするのね」
考えもしなかった…といいながら、玲自身〈旧姓〉が煩わしい時期があったことを思い出す。
「だよね。でも、嫌いじゃないんだ…高鷲って響き」
そう語るつかさに、
「彼ができたらどうするの?」
現実にそれらしい影があることを示唆して投げかける玲。
「それは…その時、出来たら考えるよ」
「今の彼はどうなのよ?」
「え…」
そこで昨夜の記憶がよみがえる。
「あ、多分。そんなことは全然、気にするレベルじゃないと思う」
「あら、なぁに? なんだか歯切れが悪いじゃない」
「今日は勘弁して…。あ、でも、開店日にはお祝いに来てくれるって言ってたから、運が良ければ会えるかもよ?」
「まぁ。じゃぁなにを置いても駆けつけなくちゃね。織瀬にも、早く回復してもらわなくちゃ…」
「そうだね。とりあえず、午後から行ってみるよ」
「そうしてあげて」

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「…そんなわけで、あたしに白羽の矢が立ったってわけなのよ」
やきもきしながら病院に駆け付けてはみたものの、意外にも織瀬は落ち着いた様子で、病室のベッドの上で読書している姿に安堵しこれまでの経緯を差し支えない程度に話して聞かせるつかさ。
「ごめんね、忙しい時に。わざわざ来てもらっちゃって」
そう言って無理に笑おうとする織瀬に、
「そういうことじゃないでしょう」
思わずそう強く言ってしまうつかさ。
「あ…ごめん、おりちゃん」
自分の方が大変だというのに、それでもこちらの都合を優先してくれる織瀬の心が、その気持ちが胸に痛くもどかしかった。
「ごめん…」
それを受け、申し訳なさそうにする織瀬に、
「やだ。そんなつもりじゃないのよ」
肩に手をのせ、
「ただ…みんな心配してるのよ、わかってるとおもうけど。あたしもね。…その様子じゃ明らかになにかあったって…顔だもんね」
ベッド脇に置かれた椅子に腰かけ、確かに様子のおかしい織瀬を気遣う。
「自分でも、理解するのに時間がかかって…」
そう言って目を潤ませ、少し考えるようなしぐさをし「まだ、自分でも解ってないのかもしれない」と付け足した。
「おりちゃん。話したくなかったら…」
「ぅぅん、いいの。あたしだけじゃ…。聞いてほしい」
そうして織瀬はぽつりぽつりと〈ちょきん〉が体調を崩した晩のことから話し始めたのだ。
真実には全容を話せずにいた玲の家での「明日香の件」がいい引き金になったこと、ちょきんが呑み込んだ〈婚約指輪〉のこと、そして自分の夫〈幸(ゆき)〉に結婚当初から「浮気」を疑われていたこと…。それが原因かは解らないがずっと夫婦の生活がなかったことへの憤りと、幸の母である義母とのやり取り、など。
「それって…」
聞いてしまって言葉に詰まるとは、今いちばんしてはいけない行為のように思えた。ゆえに「気の利いた慰めを」と思っていた自分を激しく後悔するつかさ。話の内容から「慰め」程度のやわらかい言葉では、今の織瀬を安心させてやることなどできないからだ。
「それって…だよね。あたしもびっくり」
時間が経って少し落ち着いたのか、ひと事のように話す織瀬。だがそれにしては衝撃過ぎる幸の行動に、なんと言えばいいのか。
「離婚…するかもしれない」
「え? そう言われたの?」
それとも、自分から…とは言えないつかさだった。
織瀬は静かにうなずいて、
「言われたよ。なんの話もないうちに…」
と、ちょっと拗ねたような顔をして見せた。
「それも、あたしが代表と浮気してると思ってたからなんだろうけど、さ。よくよく考えてみたら『立場逆じゃない?』って思って。なんだか解らなくなっちゃったよ。先に言われたことにもショックだけどさ、まさか自分が…責められる立場に立たされるなんて。笑っちゃうよね」
「笑えないよ。笑えるわけないじゃん…。その、会社の代表に、取り持ってもらえないの? 幸さんも知ってるひとなんでしょ?」
だが、それをしたところで一度口から出てしまった言葉をなかったことにできるわけではない。
「今さら…か…」
「幸の気持ちが解った今では、もう…一緒にいれないよ。だって、結局。…だったんだもん」
結局嘘だった・・・・   
織瀬は言葉を飲み込んだ。
「おりちゃん…」
再び言葉に詰まるつかさに、
「ぇ…つかさ。ごめん…」
驚いたような顔の織瀬。
「え、なんで謝るの…?」
そう言ってはじめて、自分が泣いていることに気づくつかさ。
「え? なんで、だろ…」
頬の涙をたどる。
「つかさ…」
「あ…っと、ごめん。ごめんね、おりちゃん」
慌てて涙を手の甲で拭い去る。だが不思議なほど、ぬぐえばぬぐうほど余計に目がかすんでくるのだ。
「なんで謝るの。つかさ」
「だって」
(だって…)
あたしが泣いたところで、織瀬の気持ちがどうなるものでもないのに…!
「ごめん…」
つかさはそんな自分を隠すように、両手で顔を覆った。
「ありがとう。…ありがとう、つかさ。あたしなんかのために」






まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します