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『認知症』の夫から今、『統合失調症』の私が学ぶということ。

昨夜、 お父さんが認知症になってから 初めて、 お互いの、 幻覚 幻聴 妄想 の 対処の仕方をどうしているか 話した。

私が 35年かけて ようやく た、どり着いた 対処方法を、 お父さんはもうとっくに クリア していた。

お父さん曰く
「 例えば俺は、 入院中の妄想でよく出た ターミネーター の妄想が また始まって いるんだが、 どうせ 消えないものだから こんなもんだろうと思って、 とっくに諦めて 無視してる」

お父さんは日々 泰然と過ごしていて、 何も困っていないのだ。

私は自分の小ささを恥じた。

というのは、 盛岡でやる「 二人展」に 行くために 電車に乗るのだが、 私は行く前から「 電車の中で また幻聴が出たら 嫌だなあ。 お父さんと 2人だから 安心感はあるけれど、 やっぱ 幻聴はきついな〜」 などと、 先回りして うんざりして ちょっと げんなりしていたのだ。

やっぱり お父さんの 器の大きさにはかなわない。

そして お父さんから学ぶべきことは、 実に 山ほどあるのだ。

私は自分が、 自分自身で 自分を「 統合失調症」 という枠組みに、 いかに ギチギチに はめ込んでいたか 思い知らされた。

というのは、 お父さんはもうすでに軽々と、「 認知症」 というものを 飲み込み 理解し、 それにとらわれず、 そこからの 飛翔を遂げて いるからだ。

お父さんは 今もう、「 認知症」 と呼ばれる 次元にはいない。

お父さんの向学心と 知的好奇心は、 そんなものをはるかに凌駕し、 知性によって お父さんは全てを飲み込み、 日々を解決し、 お父さんのスタンダード という 新たな領域を とっくに 獲得しているのだ。

お父さんは、 日常に全く困ることのない 生活をしている。
私は お父さんのおかげで、 お父さんにべったり甘えていられて、 お父さんのどこが認知症なんだろう? と、 分からなくなってしまう。

お父さんに尋ねると、「 俺忘れるよ?」 「 妄想? あるよ?」 そんな風に答えが返ってくる。

しかし、 私たちの生活に、 何も支障がないくらい、 お父さんは自分で それらのことをクリアしているのだ。

むしろ 日々、 症状が あーだこうだ と、 お父さんに グダグダ言っているのは 私の方である。

お父さんは私を気遣って、 日々の私をサポートしてくれている。
ご飯を作ってくれたり、 私が寝ぼけて 目を覚ますと「 まだ何時だ。 まだ眠ってていいぞ。 起こしてやるから」 毎朝 そう声をかけてくれる。
私が夜、寝汗をかくと、 お父さんはタオルで拭いてくれ、 ひどい時には 着替えさせてくれる。

そんな調子なので、 私はお父さんに甘えっぱなしである。

私は自分自身が、「 統合失調症 精神2級」 という 枠内から出られなくて、 そしてそこに甘んじていること、 それを猛烈に恥じた。

私は自分が、 自分自身の知性の ありったけを持って、 自分の病気に対処していると思い込んでいた。

そしてそこに慢心していた。

お父さんとの日々。
常に若々しく、 多岐にわたる 趣味を持ち、 情報にも早く、 毎日を楽しんで生きること、 それを目いっぱいやっているのは、 私ではなく お父さんの方なのだ。

私は果たして、 お父さんぐらい 探究心を持ち 好奇心に富み、 日々を楽しめているだろうか。

私は小さい。
私の 探究心も好奇心も、 本当に幅が狭い。
私は せせこましいところで 生きている。

そして そんな狭いところで 疲弊し、 人生を豊かに楽しむということを やれていない。

日々お父さんを見る。
お父さんがスマートフォンを覗き込んでいる、 そのバリエーションの豊かさ。
知的レベルの高さ。

一緒にテレビを見る。
面白いものを見つけるのは、 いつも必ずお父さんである。

たとえお父さんが認知症になろうが、 そういうところは 全く変わらないのだ。

お父さんのもつ、「 人生の楽しみ方」、 そのストレートで ユニークで、 家の中であろうが ダイナミックな発想 でもって あらゆることを楽しもうとする、 その「 発想力」は、 私には欠けているものだ。

今 お父さんに学ばないで、 いつお父さんに学ぶのだ。

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