見出し画像

『あなたへ。』~77歳になる夫へ、51歳のわたしよりのラブレター~

あなたへ。

16年間、 思いの丈を喋り尽くし 綴り尽くし、 今の私は、 あなたの名前を 甘えた調子で 呼ぶだけで、 それにあなたが 微笑むだけで 満足なのです。

ただ同じ部屋にいる。

眠る時 一緒に眠る。

起きた時、

「やぁ、 お父さん」

「やぁ、 お母さん」

こんな風に声を掛け合う ゆったりとした毎日が、 ただそれだけで 私には満足なのです。

77歳になるあなたが、 ほんのちょっと 小さな不調を見せると、 私はいつも ドキリとして、 声にならない言葉を飲み込むのです。

千も万もの言葉が、 私の胸のうちの 柔らかな 繭に包まれて、 静かに馥郁と 温められて そっと 確かに育っているのです。

誰かに言ってしまってはいけない言葉たち。

誰かに見せてもいけない言葉たち。

繭からこぼれたら 溶けてしまいそうな、 あまりにも ささやかな 小さな声ばかりが、 体温を保って 増殖しています。

なぜ愛しいと、 言葉を 口にする前に 涙になるのでしょう。

日常の、 ごくごく短い 気ままな 会話。
それが私の今の全てです。

そのどうでもいい やり取りが、 一つ一つ 私には愛しい。
非常に愉快で 胸が踊り、 男言葉でする 冗談と、 ふざけたやり取りが、 私の上に降り積もり、 私の中に染みていくのです。

愛すべき、 単調な毎日。
この単調さを 崩されることは、 私にとって 非常に苦痛なのです。

一見、ちっぽけで、 ゆっくりで、 単調な、 1日たりとも 同じ日はない、 実に激しい流れの たった1日という 時間。

あなたが、 そのたった1日、 その激しい流れの中で 衰えて行くのが、 どんなに 微細 であっても、 私には深く刺さるのです。

あなたに、 心の中の 繭の中 にある 吹き出しそうな言葉たちを、 語ることも綴ることも、 私は 涙が先に立ってしまうので うまくできません。

あなたがテレビを観る顔が好きです。
実に情緒豊かで、 愛情深くて、 好奇心に富み、 静かで優しく、 そんなあなたの 表情を見ていることが好きです。

私が時々しか テレビ画面を振り返らないのは、 テレビで流れているものよりも、 あなたの豊かな 表情に 感動するからです。

時計の針は、 容赦なく 進みます。

私は私の 繭の中の 言葉たち、 この形にならない言葉たち、 それをいつ 真剣に あなたに 伝えるか、 どうやって伝えたらいいのか、 本当に困っています。

なぜならその言葉たちが 口をついて出た時、 それは言葉にはなっていなくて、 私がただ泣く時だからです。

愛しいという思いは、 あなたを全部に包んでしまって、 あなたの臓器にも、 あなたの血液にも、 剥がれた皮膚にさえ、 細々と 私の情緒は 揺れ動き ます。

私の涙は、 悲しい 涙ではありません。

私の涙は、 途方もない 量の言葉です。

一言でも、 胸の繭の中から 言葉が出てきたら、 それが涙にならない自信はありません。

愛しているなどと、 容易い 言葉ではありません。

くちづけよりも、 重要なことです。

眠っている、 あなたの頬を撫で、 髪の毛を撫で、 頭の匂いを嗅ぎ、 そのふさふさの 白髪の中に 鼻を埋めて、 時々 小さく こぼします。

「 なんて愛らしいんだろう」

ほんのちょっとです。
口からこぼれるのはこの言葉だけです。

私はあなたに 真剣には、 なかなか「 ありがとう」 と言えません。

「 ありがとう」という言葉は、 私の中の一番大切な言葉です。

ここから先は

51字

¥ 1,000

よろしければ、サポートお願いいたします!!頂いたサポートは夫やわたしの医療費や生活費に使わせて頂きます。