見出し画像

欠損する記憶/写真家・にのみやさをり

にのみやさをりさんの手によって切り取られた「瞬間」、そのたった一枚を見るたびに、私は彼女の「絶命」を見、そこからの必死の命の「鼓動」を聴く。

彼女が被写体に与える「命」、もしくは被写体と対峙した時の「死」、そのじりじりとした灼けるほどの交換は、彼女が次々と失っていく「今このとき」と引き換えに、生々しいほど 躍動し、存在そのものを問うて迫ってくる。

彼女の写真集を見るとき、私は一番良いコンディションの日を狙い、そしてその日を全部潰すことを覚悟し、案の定 潰れる。

写真の残像は、一枚一枚が深く 脳裏に突き刺さり、私は圧迫される。
私は、その日いちにちだけは、音という音を全て消す。

彼女は解離性障害を患っている。
20代の時のレイプ被害、そこから彼女は記憶を失い、彼女には、20代30代の記憶は全くない。

解離性障害からくる解離性健忘 で、記憶は次々と、彼女から 失われていく。

彼女の障害は重く、ただ生活することも困難である。
襲い掛かる フラッシュバックに、彼女は度々昏倒する。

「今日は美味しくコーヒーを淹れられた」「今日はご飯の味が分かった」「今日は朝日を浴びることができた」

次々と失われていく日常の記憶、その瞬間瞬間を彼女は愛しみ、精一杯 味わい、丁寧に丁寧に、生きることを試みている。

彼女の切り取る「あるひとつの瞬間」、その一枚の写真は、彼女がその対象へ向けた、彼女自身の存在の賭けであり、或る一つの自身の絶命である。
彼女の痛みと喜びと、自身の皮膚が裂けたかのような血痕であり、その瞬間へ向かう彼女自身の、過去と未来のない「全くの現在」である。

一枚の写真を撮ること、その行為をするために、彼女は「一枚」から生き直し、心臓を鼓動させ、動かぬ 体を動かし、「記憶」という 欠損 から 自分を現実に引き戻し、被写体に挑むのだ。

愛しながら、懺悔しながら、守りながら、傷つきながら、傷つけ合いながら、息吹を思う存分 受け取りながら、「生」というものに向かい、渾身の、シャッターを切るという、彼女の全力をやる。

彼女の「瞬間」は、彼女の「一枚」は、私にとっては激しい。
しかし私にとって彼女の写真を見るということは、彼女の琴線に触れるということは、この上なく嬉しい瞬間である。

「一枚」という「命」、それに触れる快感は、形容しがたい。      

私は彼女の写真を見るとき、私の感受性とその受け取り方の激しさと、それによる統合失調症への影響があってもいい日、そんな贅沢な空白を選び、打ちのめされてボロボロになる。

そして思うのだ。

「命を、ありがとう」と。

よろしければ、サポートお願いいたします!!頂いたサポートは夫やわたしの医療費や生活費に使わせて頂きます。