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「長生き」は「幸せ」?


先日、祖父が亡くなった。

享年98歳。死因は老衰だった。

92歳まで、税理士としての仕事を全うしていた。


足が悪くなってからは施設に入っていたものの、お世話になった方への手紙を欠かさず送り、季節や行事毎に短歌を書くほど活発だった。


そんな祖父が亡くなる前に、ポロッとこぼれるように放った言葉がある。



「辛い」



長く生きることが、必ずしも幸せなことではないのかもしれない。

そう考えさせられた祖父の死を、私が知る限りの祖父の生き方と共に考えていきたい。




活発な祖父と、お淑やかな祖母



私が物心ついた頃には、祖母は既に車椅子で生活をしていた。


私が生まれる直前に脳出血で倒れてしまい、そこから車椅子生活だったようだ。


また、祖母はボケていた。


私が遊びに行くたびに「どちらのお嬢さん?」
と聞いてきたり、母親(娘)に対しても
「近所の〇〇さんでしょ?」と知らない人の名前を口にするほどだった。


そんな祖母だったが、私は大好きだった。


目が合うたびに笑ってくれたし、一緒にビーズでアクセサリーを作ってくれた。


祖母の笑顔は子供ながらにすごく安心する笑顔だったことを今も覚えている。


そんな祖母とはうってかわって、祖父は活発で頑固で厳しい人だった。

朝は満員電車に乗って通勤し、約10分かけて職場に向かう。

夕食は自分で作り、祖母に食べさせる。

「夕食が終わってからの晩酌がたまらないんだ」
と80歳を超えた頃に笑いながら言っていた。

お正月には、祖父自らおせちを作っていた。

祖父の作る煮物は味が濃くて、しょっぱくて、美味しかった。

特にこんにゃくの煮物は絶品だった。

美味しかったと言っていたことを私の母(娘)越しに聞いてから、遊びに行くたび作ってくれていた。


そんな祖父には口癖があった。

「おじいちゃんは何時代に生まれたか知ってる?」

なぜなら、祖父は大正生まれだったからだ。

大正、昭和、平成と3つの時代を生きてるんだととても誇らしげだった。


もう一つ、祖父が話してた印象深いエピソードがある。

それは2011年、東日本大震災の時だ。

3月11日14時46分。

祖父は職場にいて、被害に遭った。

その後、自宅に帰るために電車を待ったが、一向に電車が来なかった。


歩いて帰るしかないと思っていたところ、20代くらいの女性に声を掛けられた。

女性「どちらまで帰られますか?」

祖父「〇〇ら辺まで行きます」

女性「私も同じ方向です。夜道が怖いのでもしよろしければ一緒に帰ってくれませんか?」


確かに震災当日は停電を多く、街灯がついてない場所が多かった。


そんな中、若い女性が1人で歩くのは怖いだろう。

そう思った祖父は、お話をしながら一緒に帰ったんだと自慢げに言っていた。


何が凄いんだ?と疑問に思うかもしれない。

でも冷静に考えれば、当時祖父は85歳だったのだ。

85歳の祖父が、20代の女性を家まで送り届けてあげたのだ。


私はこの話を聞いて凄いを通り越して、笑ってしまった。


私のイメージする85歳は、腰が曲がり、杖が必須になり、何なら寝たきりになってしまっていても違和感がない。


それなのに、85歳の祖父は電車に間に合いそうにないと小走りするし、満員電車で押しつぶされそうになったり、女性をお家まで見送ったりしていたのだ。




祖母との別れと祖父の手術



私が中学生になり、顔や体が丸くなっていたのとは反対に、祖母は痩せていった。


食欲も無くなっていき、水分が取れなくなっていた。

大好きだった塗り絵やビーズアクセサリー作りも一緒にできなくなっていった。


祖父は、「おやつなら食べるんだ」

と水分の多いおやつ(水羊羹や果物)を食べさせていた。

頑固な祖父の温かい一面が見れた気がした。


高校2年の冬、祖母の危篤の連絡が来た。

私が学校から帰り、病院に着いた頃には自発呼吸ができない状態だった。

母(娘)に連れられて病室に入り、


「お母さん、よかったね。孫が来たよ。」

沢山の管を繋がれ、意識のない祖母に母は優しい声をかけた。


私は涙が止まらなかった。


身内の不幸はこの時が初めてではなかった。

父方の祖父母は既に2人とも亡くなっていた。

でも当時は私自身も幼く、どこか疎遠になってしまったという風な感覚だった。


声を掛けても、返事はない。
笑顔も見れない。
聞こえてくるのは機械や管から酸素が取り込まれる音。


私の知ってる祖母とはかけ離れた姿に、死を本当に実感した気がして、涙が止まらなかった。


その日の夜中、祖母は息を引き取った。


享年84歳。喪主は90歳の祖父が務めていた。



それから大学受験や新生活で忙しく、中々祖父に会う機会がとれなかった。

そんな中、祖父が手術をすると聞いた。

昔からお酒が好きだったし、しょっぱいものしか食べない人だったし、なんてたってもう90歳だから。

少し緊張しながら何の手術か聞いた。

「白内障だ。年寄りはしょうがないんだよ」

……うん。確かに白内障は危険だ。

でも、医者と入院等の打ち合わせをする際にいろんな質問や意見を言う祖父を見て、まだまだ元気かもしれないとも思った。



急に訪れた祖父との別れ



祖父は92歳で仕事を辞めて、施設に入った。

足が悪くなってきており、電車に乗って通勤するのも厳しくなってきたからだった。

それはそうな気もする。92歳だ。


そんな祖父には沢山の貯金があった。

仕事を続けていたのもあるが、他人の力を借りたくないという祖父なりのプライドだろう。


入った施設はとても良い環境で、個室もあり、陽も当たる部屋だった。

私も老後のために貯金しなくてはと思わされた。



施設に入った当初は、相変わらずハキハキした祖父だった。

趣味の短歌やお世話になった人に手紙を書いていた。

また、欠かさず晩酌を続けていた。

施設には必ずウォッカが置いてあり、施設に行くたび量は減っていた。



そんな祖父が寝たきりになるきっかけは歯を抜いたことだった。


歯が痛い。

祖父がそう言い出したそう。

歳を重ねると、痛覚も鈍ってくるらしい。

それでも痛いのだから相当だろう。

医師と相談し、歯を抜くことになった。



それ以降、祖父が短歌を書くことはなかった。


歯は痛み、足には水が溜まり、寝たきりになってしまった。


歳を重ねた方が骨折や風邪を引いたりなど、何か一つの出来事がきっかけで寝たきりになることはよく聞く話ではある。


祖父も歯を抜く頃には95歳になっていた。

仕方ないといえば仕方ない。

年齢にしては若いハキハキとした祖父が、私が想像する95歳の姿になっていった。



ただ唯一、祖父には全く衰えていない部分があった。


脳だった。


言葉を発せなくても、耳が遠くても、足が動かなくても、歯が痛くても、脳はしっかりしていた。



辛い。



祖父が放ったこの言葉には、このような意味が込められてると感じた。


歯が痛い。足が痛い。痛いという感覚が脳にしっかり届いてる。

足が動かない。
口も動かない。
自分のやりたいことができない。

92歳まで働いていた自分が、寝たきりになり人の世話を受けないと生きていけない体になっている。

情けない。



私は、どうすることもできない。

祖父の痛みを分け合うことも、代わりに請け負うこともできない。

もどかしい気持ちになっていた。


祖父が亡くなる1週間前、施設に会いに行った。

孫である私が会いに行くとすぐに笑顔を見せていた祖父だったが、最初は笑顔がなかった。


絞り出すような声で、

辛い。情けない。

そんな言葉を発していた。


それでも笑顔は見れた。


それは別れ際に握手をする時だった。


年寄りは冷たいぞ

と言いながら、確かに冷たく細くなった手を笑顔で差し出してくれた。


そして私の目を見て、こう聞いてきた。



「おじいちゃんは何時代に生まれたか知ってる?」



知ってますよ、大正時代です。四時代を生きてますね。

私がそう答えると満足そうにしていた。


これが、祖父と交わした最後の会話だった。




祖父の最後から思うこと




医療の発達により、長生きできるようになった。

これまでは救えなかった命がたくさん救われていることも知っている。

平均寿命は男女ともに80歳を超えている。

長く生きる事は素敵なことだとは思う。

多くのことを知り、学び、得ることができる。

でも、


生かされてまで延ばす命は、果たして良いものなのだろうか。

辛くて痛い思いをしてまで、生に執着する必要はあるのか。

安楽死というものが必ずしも悪いことなのか。


その疑問がずっと私の頭の中に残っている。



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