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第2話 恋

 カオナシに貌《かお》があったということを知ったのは、その冬のことだったと思う。

 寒い、大きな粒が残る雪の降った日の、夜だった。

 カオナシは、泣いていた。

 なにがあったか分からない。ただ、大切な人を亡くしたのだと……言った。

 いつも顔に巻いている汚い布を握りしめて、満月の光が緩く差し込む桃源楼の布団部屋で……ただ、声も上げずに、カオナシは泣いてた。

「なにしてんの?」

「うるせえ。どっかいってろ、チビ」

 いつものそんな悪態も力がなくて、大きなカオナシの身体が、赤子みたいに小さく見えた。

「慰めてやろうか」

 なんでそんなことを言ったのか……わからない。ただ、カオナシが……初めて見たカオナシの貌が……ひどく、ひどく切なかった。

 客の子どもを孕んでしまい、せっかく産んだのに子泣きの里に捨てられて、我が子と離れたくないと泣きわめく部屋持ちや大部屋の姐さん達はよく見かけたけど、なんだか、カオナシも同じような顔をしていた。身を切られるほどに、心を砕かれるほどに大事な人を亡くしたのだ……。

 だから、あたしはカオナシを抱きしめて、そっと、口づけする。



 禿(かむろ)だった頃から、カオナシと大部屋の姐さん達のまぐわいは何度か目にしていた。

 大部屋はただ衝立《ついたて》で仕切っただけの部屋の中で、姐さん達が客の男を相手にする。だから、禿のあたしたちにも自然に大部屋姐さんとお客達のまぐわいが目に入る。ネチネチと言葉で姐さんを責め立てる客もいたし、ただただ、ひたすらに姐さんの身体を舐めまわすだけの客もいる。そんな客達と姐さん達のまぐわいが子供心に気持ちが悪くて……あたしや、他の禿達はみんな、目を瞑ってその部屋を駆け抜けた。

 だけど、カオナシは違った。

 カオナシはいつもゲラゲラ笑い、酒を飲み、タバコを喫《す》いながら腰を振る。姐さん達も商売ではなく、純粋にカオナシとのまぐわいを楽しんでいるようだった。

 でも……あたしに触れるそれは、違った。

 ただ……ひたすらに、優しかった。

 囁く声が、あたしの肌に触れる手が、唇が……全部が優しい。哀しんでいるから慰めてやろうと思ったのに、あたしのほうが慰められているかのような……。

「ごめんな」

 全部終わった後で、カオナシはそう呟く。

 あたしに謝ったんじゃないことは、わかってる。

「もう、しないから」

 それだけ言って、カオナシはその綺麗に整った貌を、いつもの汚い布で覆った。

「……カオナシ」

「なんだ」

「……なんでもない」

 それが……あたしと、カオナシの、終わりの始まり。



「もう、しない」

 それだけ言ったあの夜から、カオナシはあたしをからかうのをやめた。

 違う。

 カオナシはあたしを見なくなった。

 ほの香姐さんのお部屋にいても、千代菊姐さんのお部屋に呼ばれても、カオナシはあたしを見ない。

 ほの香姐さんとは相変わらず実の兄妹のように仲がいいし、千代菊姐さんとも、姐さんの年季が明ければ毎日まぐわおう……なんて、約束している。あたし以外の禿や新造達は、カオナシを「おっとう」なんて呼んで、膝に座ったり、本を読んで貰ったり……。千代菊姐さんがお座敷のお客様からもらったお菓子で、おままごとをしたり。

 なのに、あたしには目を向けない。

「カオナシ」

 彼をそう呼ぶのはあたしだけ。

「カオナシ」

 ……そう呼んでも、もう、「なんだ」とも、答えてくれなくなった。

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