「売れる」と「名作」は違う
昨日、ある役者の女の子とランチをして、こんな話を聞いた。彼女は小説家の先生のところでアルバイトをしていたが、辞めたらしい。どうやらその先生の性格が、ちょっと変わってきたからだという。その先生とは私も何回か面識があった。最近では小説も売れてアニメ化も何本か決まり、まさに時の人だった。
どう変わったのかと言うと「とにかく他人にアドバイスをたくさんするようになった」とのこと。あとは駆け出し役者のような、あまり売れていなかったり、有名な作品に出ていなかったり、SNSのフォロワーが少ない子に対しては「露骨に下に見るようになってきた」とのことだった。
彼女の洞察によると、先生が人を見る時の基準が「どれだけ売れているか」という数字にだんだんなってきているという。そして彼女は先生の基準から見ると数字的に弱い女性から、ないがしろにされたり、不快なことも平気でされるようになってきたらしい。
おそらく何万部売れたとかそういう世界に身を置いていると、どうしても人生の基準もそこになってしまうのだろう。仕事ではそれでもいいかもしれないけれど、人を見る時の基準がそれだとすごく危ない。だって自分がいつ「そちら側」へ転落するか、分からないから。
芸事の業界に片足だけ突っ込んでいるから分かるが、売れるか売れないかは、実力だけではない。演技力や歌唱力や文章力を上げれば売れるわけではない。営業成績を上げれば評価して出世できるビジネスの世界の方が、よっぽどフェアだ。クリエイティブな世界の方がフェアだと思っていたけど、全くそんなことはなかった。華やかな世界の水面下では、上に行こうとする者たちが、承認欲求と妬みを抱えて殴り合いっている。そこにはでは運とか人脈とか、あと多分その人の持ってるオーラみたいなのも関係しているんだろう。
先生のオーラも、最近配信を聴いて気付いたのだが、以前とは全く異なっていた。私もその先生とは付き合いが長いのだけど、一番初めに感じた穏やかで謙虚なオーラというのは今は感じない。成功している経営者のように、自信に満ちあふれていて、まるで別人のようだ。それが悪いと言うつもりはない。彼女と違って、私は実際に何か嫌な思いをしたわけではないし。ただ、人って面白いなと思った。そういう風に変わっていくんだな、と。
私は人の判断基準を「売れているか否か」だとは思わない。売れている本と名作というのは違うからだ。私の中での名作を書ける人は奈須きのこ、ミシェル・ウェルベック、チャールズ・ブコウスキー、レイモンド・チャンドラーとか。エッセイだと村上春樹、吉本ばなな、林真理子あたりだろうか。あとはものすごく乱暴な言い方になるけれど、新しい作家は作風とマーケティング能力の有無が違うだけで、実力としてはほぼ同じくらいに見えてしまっている。
もちろん私の審美眼とか読むレベルというのもあるけど、芸術の世界というのはだいたいそんなもんなんかじゃないと思う。例えばピカソの年代で絵を描いていた人は、おそらくたくさんいた。おそらくピカソくらい稼いでいたけど、今は名前はおろか作品すら残っていない画家もいただろう。それは「売れていた人」で「名作を描いた人」ではないのだ。逆もまた然りで、ものすごくいい絵を描くけど全く売れなかった画家だっていただろう。
私は世の中に出ていないから負け惜しみのように聞こえるかもしれないが、noteでいいねがもらえると本当に嬉しい。読む人の心に刺さってくれたと思うし、今まで「読んで元気が出た」「面白い」と言ってもらえた感想は、言ってくれた人もひっくるめて全部覚えている。そりゃ、欲を言えばたくさんの人に読んでもらいたいけど、その先生のように「数字がすべて」とズレてしまわないようにしなきゃ、とは思う。そうなると、書くものもずれてくるから。
私は表立ってやっているnoteのアカウントは夫に見られているということが分かってしまったから、もう書きたいことを書けなくなった。だから彼が見てもいいような表現とネタを選んで書いているけれど、文章も内容もぼやけてきてしまった。世間一般でいいと言われていることをただ書く、それだけになっている。私の大好きな下ネタも封じられてしまったし。
売れることももちろん大事だ。それでも私は「絶対にこれは面白いよ!」と胸を張って言えるような作品を書いていきたい。名作を書こうと頑張っている人を励ましたいし、ゆくゆくは「売れている人」よりも「名作を書く人」の方が賞賛される、そんな世の中に変わっていくといいなと思う。
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