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前編/死んだはずの元婚約者が戻ってきたから、もう私はいらない?じゃあ好きに生きます


あらすじ

私と王子の結婚前夜、彼の元婚約者が訪ねて来た。彼女は5年前に死んだはずだった。突然の再会に喜んだ王子は、私に言った。
「俺が間違っていた。お前との婚約は破棄だ。国も出て行け」
―――ええ、喜んで!愛のない生活にも、誰かの為の人生にも、うんざりしていましたところです!

追放先の森では、魔法使いが待っていた。彼は私を魔界へ連れて行き、願いを何でも叶えてくれるのだという。元婚約者が魔物だと判明したらしいけど、もう遅い。私は最強の魔法使いの溺愛の元、魔界で永遠に幸せに暮らします。

本文

01.元婚約者からの手紙

サラ・ベルモントは二十年の人生で、悪いことはだいたい水曜日に起こっていた。

侯爵の父に「金がなくて地位が維持できない。切り札はお前の結婚しかない」と打ち明けられて、長女ならではの従順さで頷いたのも、昨年の水曜日だった。

甘いものと女性に目がないレオナルド王子と婚約して、愛のない婚約生活が始まったのも、半年前の水曜日だった。

そして迎えた結婚前夜。今日も、忌々しい水曜日だった。

ぽかぽか陽気で、ほとんど春の宵だった。
夫婦の寝室の広いベッドの上で、私は寝返りを打った。

「結局レオナルドの奴、式の準備に顔見せなかったわね……」

読みかけの本を枕の横に放り投げた。この本が朝まで動かないことは知っていた。
レオナルドと床を共にしたことは、一度も無かったから。

「さすがに結婚前夜だし、セクシーな下着にしたのになー」

独りでいることを良いことに、ネグリジェを脱いだ。
壁にかかった鏡へ近づき、ランジェリー姿のサラ を眺める。

ゆたかな栗毛、ブルーの瞳、白く柔らかそうな肌。
丸々としたバストとツンと上を向いたヒップは、スケスケのキャミソールとフリルのついたパンティに包まれている。

「はぁ。何のために、ここまで頑張って来たんだろ」

女としてできる限りの努力を、私はしてきた。
王子妃として恥じないように、勉強だって頑張って来た。

母や妹たち、メイドたちも私たちの仲を何とかしようと動いてくれた。
外見だけにとどまらず、こんなバカみたいな下着も。

「もう一生、誰にも抱かれないまま終わるのかな……」

物憂げな鏡の自分と目が合い、ため息を付いた。
すると、バン!と、勢いよく扉が開かれる音がした。
期待を込めて、音のした方を振り向く。

しかし立っていたのは、婚約者 レオナルドではなかった。

「……ノックしてもらえる?」
「し、失礼いたしました!」

慌てて頭を下げたのは、執事のジェフリー。
背の高い黒髪の青年で、主にレオナルドに仕えている。

「サラ様、今日も美しいですね。目が痛くなるほどです」
「そう。じゃあ、目を閉じていてもらえる?」
「その姿には、夢の中でしか会えないと思っていました」
「服を着るから目を閉じなさいって言ってんのよ」
「仰せのままに」

ジェフリーは深々とお辞儀をした。その間に、再びネグリジェをまとう。
手触りの良い、高価なレースをふんだんに使ったそれを。

「はい、頭を上げて。それで何の用?」
「レオナルド様に急遽、お渡ししたいものがあります」
「あいつならいないわよ。いつものように」
 
申し訳なさそうに、ジェフリーは目を伏せる。手には一通の封筒があった。
プライベートの手紙のように見える。私は彼の元へ歩いて行った。

「それ手紙? 明日の朝じゃだめなの?」
「速達でして……あ、サラ様!」

彼から手紙を奪い取った。甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
恐らく紙に香水をしみこませたのだろう。
あざとい手法にうんざりしながら、宛名の横に書かれていた文字を読み上げた。

「『結婚式の前日までに読んでね。愛を込めて』。だから急いでたのね」
「違います」
「え?」
「サラ様のような素晴らしい方と婚約しておきながら、レオナルド様は多くの女性と関係を結ばれていました」

ま、知ってたけど。でも執事がそのことを言うなんて、少し妙だ。
彼の黒く大きな瞳には、微かに怒りの色が浮かんでいる。いつも穏やかな彼には珍しい。

「なので、同じようなお手紙は、少なくとも百通は受け取っています」
「じゃあ、どうしてこの手紙だけ持ってきたの?」
「差出人のお名前をご覧ください」

手紙を裏返し、差出人の名前を確認した。
全身に悪寒が走った。あやうく手から滑り落ちるところだった。

「リリー・キャンベル……死んだはずじゃなかったの?」

王子レオナルドは、死人から手紙を受け取っていたのだ。

02.王子からの婚約破棄

昔は魔法使いが存在したと、本で読んだことがある。
万能に思えた彼らだが、命を生み出すことと、死者を生き返らせることだけはできなかったという。

私は死者からの手紙に書かれた、署名を眺めた。
『リリー・キャンベルより。愛を込めて』

「ジェフリー」
「はい」
「レオナルドは五年前に彼女《リリー》と婚約していた。そうよね?」
「ええ。第一王子の婚約者が自殺したと、当時は騒ぎにもなっていました」
「死因?」
「溺死です。湖で遺体が発見されたはずです」

私はもう一度、差出人の名前と住所を見つめた。新聞で見た情報と一致している。
何より、キャンベル家の紋章が入っている。特徴的な蛇が絡み合う、おぞましいマークだ。

「イタズラにしてはやけに手が込んでるじゃないの」
「……あの事件には、不可解なところが三つありました」

彼はゆっくりと口を開いた。

「事故死の場合は検死にまわされて、医者が死亡判定をします。今回は夜に失踪して、朝に発見されました。そして昼前には、溺死で死亡という噂が広まっていました」
「どこがおかしいの?」
「早すぎるんです。キャンベル家のような公爵令嬢なら、もっと検死に時間を割いても良いはずです」

彼は一息ついて、話を続けた。かたちの良い鼻と唇が、微かに上下する。
ジェフリーとこんなに話すのは始めてだな、と思った。

「二つ目は、レオナルド様に遺体を見るか確認が来なかったことです。普通、遺体がどんな状態でも、遺族には連絡が行きます」
「レオナルドが婚約者だったからじゃないの?」
「王族の婚約ですよ。村人がする酒場の口約束とはわけが違います。三つ目は、検死をした医師が不審死を遂げたこと。それに手紙の紋章には魔法が……」
「え?まほう?」

聞き返したが、その答えを得ることはできなかった。
ジェフリーの背後に来た男が、それを阻止したからだ。

「いつの間に執事から探偵に転職したんだ?」

傲慢で、冷ややかな声だ。ジェフリーはすぐさま頭を下げた。

「申し訳ございません、旦那様」
「謝る暇があったら、この甘ったるい匂いが充満する部屋の換気でもしたらどうだ?サラも、そんな姿で執事と話すべきじゃない。人として失格だな」
「人として失格なら、女神としては合格ですかね?」

男はジェフリーをにらみつけた。執事は私に目配せをし、片目をつぶって見せた。
「手紙は任せた」という意味なのだろう。

彼のユーモアは、いつも私を救ってくれる。彼が居なければ、今頃「こんな時間まで外をうろつくなんて、夫として失格ね」と言っていただろう。

ジェフリーは笑みを浮かべ、主に言った。

「旦那様。今夜のサラ様は、いつもに増して美しいですよ」
「気でも狂ったのか?早く持ち場に戻れ」
「はは、粗末にすると奪われてしまいますよ。近くで彼女を見ていて、とっくに狂ってしまった誰かに、ね」

呆気に取られる私たちを残し、ジェフリーは去って行った。

寝室の入口には、私と男が残された。
男は背が低くて猫背、赤毛で口髭が生えている。菜食主義者の会計士のようだ。
公務の服でなく、カジュアルなスーツ。襟元が少し乱れている。

どこかで女と遊びんでいたのだろう。そう思いながら、私は優しい声を絞り出した。

「おかえり、レオナルド」

返事の代わりに鼻が鳴らされた。険しい顔をしている。
微笑むのは四年に一度と決めているのだろう。

彼はソファに腰を掛け、私は隣に座った。
先程の手紙を、ネグリジェのポケットへしまいながら。

レオナルドはベッドの上に散乱している本を眺め、忌々しそうに呟いた。

「まったく、本なんか読んで……」

本を読まないと、あんたみたいな人間になるからね。
そう心の中で毒付いて、顔に笑みを張り付ける。かつてメイドは言っていた。「モラハラ夫はお金だと思いなさい。人だと思っちゃだめ」と。

「我慢、がまん。私は家族を養うために、この男と結婚する必要があるんだから」
「何か言ったか?」
「いや、別に」

気まずい沈黙が流れた。彼の手に、私の手を重ねてみた。
本をバカにしてはいけない。モテるためのテクニックだって、本で学べるのだ。

「……チッ」

彼は即座に私の手を振り払った。私は『モテる力~実践編~』の著者を呪った。

「あー、サラ。お前に話したいことがある」
「明日の結婚式のこと?」
「いや、違う」

彼の目は、どこか遠くを見ていた。そわそわと落ち着かない。
しかし、ある一点に視線を定めると、急に晴れやかな笑顔になった。四年に一度の微笑みだ。

視線の先は部屋の入口で、ある女性が立っていた。

「あなたが話すまでもありません、レオ」
「来てくれたのか……!」
「ええ、愛する人。あたしから話しますわ」

漆黒のドレスを揺らし、彼女は妖艶にほほ笑んだ。黒髪で、肌は雪のように白い。
しかし赤い目は獲物を目にした捕食者のように、ぎらぎらと輝いている。

彼女は私を真っすぐに見た。甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。

「初めまして。形ばかりの婚約者さん」 

私は確信した。彼女こそが、リリー・キャンベル。
墓から蘇ってきた、死んだはずの元婚約者だと。

03.国からの追放

私は元婚約者リリーに言った。

「墓で五年も暮らして、口の聞き方を忘れたの?」

彼女は「そんな……」と悲しそうに呟いた。上品で物腰は柔らかい。
でもその気になれば、ライバルを朝食の前にフライパンで火傷させることくらい、容易にやってのけそうだ。そういう女がいる。

「サラ!失礼なことをリリーに言うな!」

そういう女に、男はめっぽう弱い。

「先に喧嘩を売って来たのは、彼女じゃないの」
「リリーは事実を言っただけだ!」

こっちもそうだが、黙っておいた。火に油を注ぐようなものだ。
レオナルドはリリーの元へ駆け寄った。彼女は目に涙を浮かべている。

「信じられませんわ。あたしが居ない間に、こんな野蛮な女と……」
「王位継承のためだ。弟に男児が生まれて、城で怪しい動きも出ている。俺もさっさと婚約して、男児を生まなくてはならない。他の女に産ませても良いけどな」

噂で聞いてはいた。レオナルドは長男なので、数年後には王位を継承する。しかし無能な第一王子レオナルドに嫌気が指している一派がいるらしい。彼らは優秀な次男である第二王子ルネを立てて、反乱を起こそうとしている。

「反乱軍の噂のせいで、誰も婚約してくれなかったんだ。侯爵の地位を維持することと金しか頭にない、この女以外はな」

お父様、全てバレてますよ。そう心の中で呟いた私の顔は、さぞかし暗かったに違いない。
対照的に、リリーの顔は明るくなっていた。そしてレオナルドにすがりついた。

「じゃあ、あたしと結婚しましょう?」
「もちろん。五年の間、お前を忘れたなんて無かったよ」
「他の女と遊びまくってたじゃないの」

レオナルドはきっと私をにらんだ。

「サラ・ベルモント。今この瞬間を持って、婚約を破棄する」
「……」
「荷物をまとめて、城から出て行け」

私も彼をにらみ返した。でも内心は「家族になんて謝ろう」という気持ちでいっぱいだった。そんな気持ちを悟られないように、私は勢いよく立ち上がった。

「これは?」

レイモンドが声を上げる。
ネグリジェのポケットから、手紙が滑り落ちてしまっていた。

「あたしの手紙ですわ!」

リリーは鬼の首を取ったように喜んでいる。彼女は手紙を拾い、レオナルドに渡した。「懐かしい匂いでしょう?レオの好きな、百合の香水ですわ」とささやきながら。

彼の顔を見ると、瞳が怒りで燃えていた。
誰かを殴りたくても殴れない、小心者のためらいがあった。

「封をしてある信書を勝手に開ける行為は、犯罪だぞ」

封を開けたのはジェフリーだろう。手紙に毒が入っていないか調べるのも、執事の仕事だ。
でもそれを言うと、ジェフリーの罪になってしまう。この茶番劇に、彼を巻き込む必要はない。

「ねえ、国から追放してくださらない?」

ぞっとするほど表情を欠いた声で、リリーは言った。

「あたし達の仲を引き裂こうと犯罪行為に及ぶ女がいると、夜も眠れませんわ」
「じゃあ土の下で寝れば? 五年間そうしてたみたいに」
 
私はレオナルドに向き直った。

「リリーは五年間、行方をくらましていたのよ。その間に何をしていたか、怪しいと思わないの?」
「話すべき方には、きちんとお話しますわ。あなたが知る権利があって?」
「ああ、そうだな。サラは今すぐ国から出て行け」

耳を疑っている間に、彼は続けた。

「お母様も仰っていた。サラはメイドから情報を集め、本を読み漁っている。これは反乱軍のスパイだからだと」
「逆よ!第一王子のあんたを守るために、情報と知識を集めてたの!」

彼はベッドまで歩いていった。そしてベッドの上にある『モテる力~実践編~』を手に取った。汚いものを触るかのような手つきだった。

「これが『情報と知識』なのか?」
「それは……愛されたかったから」

私の呟きは、夫婦の部屋にむなしく響いた。
それに答えてくれる者は、広い城で誰もいないように思えた。

私は愛されたかった。家族から、メイドたちから、そして婚約者《レオナルド》から。
でも私が得たものは、くたびれた絶望だけだった。

―――あの時は、そう思っていた。
しかし、このやり取りを見ていた者がいたと、後に知ることになる。

04.魔法使いとの遭遇

深夜の訪問者を、暗い森は快く受け入れてくれた。

「寒っ……」

春の宵とはいえ、さすがに冷える。暖を取りたいけれど、暖炉なんてもちろんない。ああ、炎が恋しい。
毛皮のコートの下は、ふりふりのネグリジェ。防寒機能のないセクシー下着だ。

馬車に乗せられた私は、身一つで森の奥まで連れて来られていた。
親へ挨拶する猶予もなし、メイドや執事への説明の時間もなし。

腹が立ってきて、思わず叫んだ。

「これなら、スケスケのキャミソールとTバックなんて履くんじゃなかった!」

なかった、なかった……
声は森にこだましていく。どうせ誰の耳に入らないだろう。その方が好都合だ。

「何も、こんな奥まで連れて来なくて良いじゃない」

私は足を動かそうとした。しかしそれは叶わなった。
がしっと、ナニカに強く足首を掴まれたからだ。

「え?」

おそるおそる、それに目をうつす。

―――月に照らされたそれは、地面から生えた間の手だった。

かつて人間の形をしていた、という方が正しいだろう。腐敗しているのか、柔らかく血の気がない。

「何これ?ゾンビ?!」

腐った手はものすごい力で、私を地中へ引き込もうとしている。
私たちの周りだけ地面がプリンのようにやわらかくなり、ずぶずぶと膝まで土に入り込んだ。

「た、助けて!」

私の声に反応したのか、手は引き込むスピードを上げた。
ついに首まで埋まってしまい、私はこれが最後と叫んだ。

「お願い、誰か助けて!」

次の瞬間、空から数々の光線が降り注いだ。
光線は私を避け、周囲の地面一帯に降り注がせ続ける。

手は断末魔をあげて、消滅していった。

「はあ、はあ……何だったの?」
「こんな魅力的な女性が森にいたら、そりゃ食べたくなるよね」

真上から、男性の声がした。
見上げると、銀髪の青年が浮かんでいた。

「あなたは……誰?」
「僕はローラン、魔法使いだよ」

彼は嬉しそうにグレーの瞳を細めた。
端正な顔立ちで、長身をローブに包み、杖を持っている。かつて本で見た、魔法使いの服装そのままだ。

「珍しいな、この辺りに土の魔物がいるなんて。立てるかい?怪我はない?」

ローランは私のすぐ横に降り立ち、手を差し伸べてくれた。
私はそれを取り、立ち上がった。大きくて、温かい手だった。

「ありがと……はっくし!」
「大丈夫?風邪をひいたら大変だ。今、温めてあげるね」

返事の前に、私は彼の手触りの良いローブに包まれていた。
彼の体温が伝わってくる。さわやかな香水の匂いが鼻をついた。

彼は片腕で私を抱きかかえたまま、もう片方の手で杖を振った。
すると杖に炎が宿った。先程までの寒さが嘘のようだ。

彼を見上げると、満面の笑みが返って来た。
私が笑みを返そうとすると、彼は言った。

「そのスケスケとTバックじゃ、寒いだろうからね!」
「……ただの変態ね。今すぐ放して。帰るから」
「へえ、どこへだい?」

彼の言葉で気が付いた。確かに私には、帰る場所なんてない。
でもその質問は、奇妙に思えた。普通は帰るべき家がある。どんなにひどいところでも。

「どうして帰る場所がないって知ってるの?」
「それはね、うーん。見せた方が早いかな」

彼は杖を振った。すると、炎が彼の身体を包んだ。

「ちょっと、大丈夫なの……え?」

次の瞬間、かつて魔法使いだった男は、見覚えのある男に変わっていた。
長身の黒髪、スーツ姿の青年。

「ジェフリー!?」
「はい、サラ様。こうしてお会いするのは数時間ぶりですね」

彼は私の手を取った。

「数年ぶりのように感じます。貴女を失うと思うと、居ても立っても居られなくて……」

かたちの良い唇が、弧を描く。夜空に浮かぶ三日月のように、優雅だった。

05.魔法使いとの夜

含みのある笑みを浮かべる執事ジェフリーに、私は尋ねた。

「どうして執事の振りをしていたの?」
「それは追って話すよ。これから長い付き合いになるしね」

歌うように軽やかな声。大したことない、そう言うかのように私の頭をぽんぽん、と叩く。誰かに頭を撫でてもらったのは、子供の頃以来だ。自分のために生きていて、それで許されていた、子供時代。

心がゆるんでしまい、言葉が漏れた。
 
「じゃあ、どうして城にいた私を助けてくれなかったの……」

彼はきょとんとした顔で私を見つめた。
黒色の瞳には、今にも泣き出しそうなサラが映っている。

「んー。サラが助けて欲しくなさそうだったから。本当に抜け出したかったら、何か行動を起こすだろう?」
「そんなわけない。いつも惨めで、孤独で、頑張っても報われなかった。親の手前、抜け出さなかっただけで……」
「美貌も地位も財力も手に入れているのに?」
「確かに子どもの頃には考えられないくらい、良い暮らしをしているわ。不幸せって言ったら、バチが当たるでしょうね。でもこれは私の望んでいた暮らしじゃないの」

面白そうに、彼は口角を上げた。そして私の顎に手をかけ、くい、と引き上げた。
強制的に彼と見つめ合う形となった。漆黒の瞳が、私をとらえる。

「じゃあ、元婚約者リリーが来て良かったじゃないか。もう愛のない王子レオナルドとの生活を続けなくて済む」
「でも実家に戻ると、両親も私もお金の問題があるし、近所の人からなんて言われるか……」
「お金と引き換えに君を売り渡した親や、君を幸せにしてくれなかった人のことなんて、気にする必要ある?もう誰かのために人生を生きるのはごめんなんだろ?」

そうだ、私は誰かのために人生を生きて来た。
家族を養うための婚約。愛のない毎日。メイドや家族のために、王子を振り向かせようと努力してきた、空しい日々。

「なんてね。ごめん、ちょっと意地悪したね。僕は魔法使いだから、人間の欲しいものなんて、せんぶ知っているよ。でも、自分で気付いた方が良いかと思ってね」

彼はもう片方の手で、杖を振った。すると執事ジェフリーから、魔法使い ローランの姿に戻った。
長い銀髪と涼し気な瞳、完璧に整った顔立ちは、気高い狼を思わせた。

「さあ、言ってごらん。サラはどう生きたい?僕なら叶えてあげることができるよ」

彼の瞳は、私を捉えて離さない。私たちの距離は徐々に近づいていった。
彼の顔が目と鼻の先まで来た時、私は言った。

「私は……好きに生きたい。誰かの望むサラじゃなくて、自分の人生を送りたい」
「偉い、よく気付けたね。もう大丈夫だよ、僕がいるから。今まで頑張ったね」

ローランは私を抱きしめた。あたたかく、ひまわりの匂いがした。
長い抱擁の後、解放されると、彼は森の奥を指さした。

「ほら、あそこに小屋がある。ひとまず今夜はそこで休もう」
「本当?何も見えないけど」
「あぁ、見えるようにしてあげるね」

彼は杖を大きく振った。
次の瞬間、森の木々が光り出した。眩しさに目を閉じる。

数秒後に目を開くと、そこには愛らしい丸太小屋が出現していた。

「何これ、ヘンゼルとグレーテルの小屋みたい」
「ははは。安心して、僕は君のことを食べたりしないから」
「別に、そんな心配してないわよ」
「スケスケを着て男を誘惑しようとしてたのに?」
「……うるさい」

彼は私の手を引いて、小屋へ向かって歩き出した。
死んだはずの元婚約者リリーの出現、王子レオナルドからの追放、そしてゾンビの襲撃。
数時間なのに数年分くらい年を取った気がする。確かにもう休みたい。

私の疲れをよそに、ローランは愉しそうだ。

「現実だけが真実じゃない。目に見えるものなんて、光の屈折でしかないからね」
「まさか《執事ジェフリーが魔法使いなんて、思いもしなかったけどね」

でも、彼は悪い奴じゃなさそうだ。助けてくれたし。
そう思っていると、ドアを開いた彼は悲痛な声を上げた。

「べ、ベッドが……」

中を覗いてみると、そこは質素な山小屋だった。
ダイニングテーブルにチェアが二脚、キッチンと、ベッドが二つ、

「ベッド?普通のシングルベッドじゃない。確かに狭いけど」
「ここには、キングサイズのベッドが一台あるって聞いてたんだ!」

絶望に打ちひしがれる彼に、開いた口がふさがらない。
男ってやつは、どいつもこいつも。

私は寛大な笑みを浮かべて、彼の肩に手を置いた。

「目に見えるものだけが真実じゃないんでしょ?」
「あぁ。サラは華奢だから、シングルベッド一台に二人でも大丈夫だね」
「下半身でものを考えるの、やめてくれる?」

何か言いたげな彼を残し、部屋に入る。そして、さっさとベッドに横になった。
これ以上の会話は無用という意思表示をするかのように。

「……はぁ。今日は1日、がんばったな」

ひどく疲れて、だるい。生きていくだけで、とてつもない労力が必要な気がした。
それでも彼がいれば乗り切れる。不思議とそんな予感がする。

私は瞳を閉じた。

「予想外のことばかり起きた一日も、やっと終わりね……」

でも、こんなものは序の口だった。
朝に目覚めたら、とんでもない場所にいたのだ。

06.魔法使いの正体

目が覚めると、そこは眠りについたはずの山小屋ではなかった。
趣味の良い飾り付けがされた、高く広い天井が目に入った。

「ここ、どこ?」

ベッドも小屋のシングルベッドではない。ふかふかのキングサイズのベッドだ。
なめらかなシルクの手触りが心地良い。それはかつて住んでいた城を思い出させた。

「まさか、城に戻って来た?!」

飛び起きて、辺りを見渡した。壁の色も装飾も違う。
ただ置かれている家具や調度品は、見るからに高そうだ。こんなに部屋を持てるのは、王族くらいだろう。

「まさか、ローランって……」

控えめなノックの音が部屋に響いた。この鳴らし方は、声を聴かなくても分かる。

「ジェフリー?良いわよ、入って」

ベッドの上で返事をすると、ゆっくりを扉が開いた。

「お目覚めかな、サラ様?」

口調はジェフリーだが、姿はローランだった。
昨晩と同じ魔法使いのローブを着ている。王族が公務の時に着る服では、決してない。

「あー、良かった。安心したわ」
「何がだい?」
「ローランが王族じゃなくて。そうだったら、今すぐに窓から飛び降りてたから」
「僕が王族だと、何か問題があるの?」

彼のあっという間に私のそばにやってきた。長い足を組んで、ベッドに腰かけている。

「大ありよ!」

勢いをつけて、ベッドから抜け出し、彼の前に仁王立ちになった。怒りが私をそうさせた。
本当は薔薇の花弁のようなベッドに、いつまでも寝ていたかった。

「モラハラ王子、死人の元婚約者、親バカ王妃。王族には嫌な記憶しかないわ!」

昨夜に森で見せた余裕ぶった態度はどこへやら、ローランは瞳を泳がせている。
ゾンビを前にしても落ち着いていたのに。ゾンビより怖いことを言ったのだろうか。

「二度と王族とは関わらない。王族とは絶対に婚約しないんだから!」
「ま、まあまあ。これでも飲みなよ。スピーチで喉が渇いただろ?」

彼はナイトテーブルに置かれていた、グラスを差し出した。口をつけると、ただの水ではないことが分かった。
リコリスがほんのり甘い、ミントの香りのデトックスウォーターだ。おしゃれなカフェにありそうな味だ。

それを一気に飲み干す私を見ながら、彼は呟いた。

「昨晩は僕を誘ってきれくれたけど、まだ道は遠いか……」
「誘ってきた?」

ベッドに座る彼は、隣の場所を軽く叩いた。ここに座れ、という意味らしい。
私はおそるおそる腰を下ろした。彼の瞳が、いたずらを企んでいる少年のように輝いていたからだ。

「小屋のベッドで寝ていた君を、誰がここまで運んだと思う?」
「ローランでしょ」
「うん。ベッドを空に浮かべて、ここまで来たんだ。始めからそのつもりだった。だからシングルベッドが見えて、がっかりしたんだ」
「え?」
「危ないだろ、大人が二人も乗るのは。キングサイズなら余裕で乗れるけどね」

……確かにローランは言った。
「サラは華奢だから、シングルベッド一台に二人でも大丈夫だね」」
それに対して私は返した。
「下半身でものを考えるの、やめてくれる?」……

今すぐ消え去りたかった。この際、洗面所でも良い。
ベッドから立ち上がろうとしたが、それは叶わなかった。彼はしっかりと私の腰を引き寄せていた。

「サラはベッドが一つで、一緒に寝ることを想像してたんだよね?」
「……」
「はは、どうしたの?こめかみまで赤くなってるよ」

ローランは徐々に距離を詰めてくる。
城の皆に言ってやりたい。笑顔がさわやかな好青年に騙されないでください、と。

すると、部屋にノックの音が響いた。救世主だ。
「邪魔が入ったか」と呟くローランから身を放し、扉へ向かった。

ドアを開けると、そこにはおかっぱ頭の女の子がいた。
十代前半だろうか。ローランと似た魔法使いのローブを着ている。

彼女は私の顔を見上げて、目を見開いた。

「貴女が、お兄様の……」

ささやくように小さな声で、彼女は言った。
銀髪に大きな瞳、すべすべの肌、整った顔立ち。彼女がローランの妹であることは、一目で分かった。

「呼びに来てくれたのね。ありがとう、お嬢さん」
「!」

頭を撫でようとすると、ばしっと手を振り払われた。しかも目つきが鋭い。
美少女が睨む様子は迫力がある。彼女はベッドに座るローランに向かい、言った。

「お兄様。お楽しみのところ悪いですが、公務の時間です」

驚いた。目の前の子は、男の子の声をしていたからだ。
その答えは、ローランが教えてくれた。

「ノアは男の子だよ、僕の弟だ」

だから目つきが鋭かったのだ。性別を間違えられて機嫌を損ねたのだろう。
そんなことよりも、確認しなくてはならないことがある。

私は振り向いた。ベッドの上で気まずそうに頭をかいている、青年を見つめた。

「公務?」
「はは、そういうこと。ここは魔法界だから、人間界の王族とは違うから大丈夫……ちょっと、窓を見るのはやめてもらえるかい?」

どうやら彼は、他ならぬ王族だったらしい。

07.魔法使いの弟

ノアと私は部屋の入口に、ローランはベッドの上にいる。
「ここは魔法界」という事実に混乱する私をよそに、兄弟は会話を続けた。

「お兄様、その服……また人間界に行っていたんですか?」
「うん、魔物の噂を確かめにね」
「すみれを摘みに、わざわざ人間界まで行きませんよ。お供も付けずに、危ないじゃないですか」
「その結果、もっと美しい花を手に入れたわけだ。ね、サラ」

ローランは視線を弟から私に移し、微笑んだ。
兄弟そろって素敵なユーモアのセンスの持ち主らしい。さぞかし女性にモテるだろう。

しかも彼らは王子だ。

「王子……」

悪夢がよみがえり、吐き気がこみあげる。こうしてはいられない。
中世的な美少年の横を通り、寝室を後にしようとした。

「ちょっとそこ通してね、ノアくん」

すると腕を、がしっとつかまれた。ノアの細い指だ。意外と力が強い。

「ちょっと貴女、どこへ行くつもりですか?」
「私がどこ行こうが、王族に関係ないでしょ。国と一族の繁栄のために、どうかビジネスを進めててください」
「え、だって貴女はお兄様の……」
「お兄様の、何?」

ノアが口を開きかけると、ローランが「サラにも関係あるよ。人間界にも影響を及ぼすかもしれない」と口を挟んだ。
いつの間にかベッドの上から移動してきたらしい。
 
「魔物たちは、キャンベル家と深く関わっているんだ」
「お兄様、キャンベル家とは?」
「人間界の第一王子、レオナルド。彼の元婚約者が、リリー・キャンベル。キャンベル家の末娘なんだ。彼女は五年前に失踪し、最近になって急に現れた」

続きをローランが言いにくそうにしていたので、私は彼に代った。

「で、あいつらはよりを戻したの。レオナルドの婚約者だった私が婚約破棄されて、国を追放されたってわけ」
「手紙の紋章を見て確信した。あれには魔法がかけられていた。リリーに惚れるとか、サラを嫌いになるとか……」
「魔法なんてかかってなくても、あいつは私を追い出していたと思うわよ」

ローランは優しく私の頭を撫でた。

「ごめんね、サラ。辛い話をさせて」

その様子をにらみつける、弟ノア。お兄様をとられて悔しいのだろうか。
ローランの手は私の頭を離れ、私の両肩に置かれた。

「魔物が王女になってしまうと、人間界が危ない。サラはここ、魔法界で暮らした方がいい」
「暮らした方がいいって、私には住む場所もお金もないわよ」
「じゃあこの城で暮らせばいい。別に何もしなくてもいいよ」
「え?働かなくてもいいの?」
「ああ。人間界にもあっただろう?基本的人権の尊重、だっけ。生きてるだけでサラは尊いし、溺愛される価値があるんだよ。存在給って言ったらいいのかな」

驚いた。今までこんなこと言ってくれる人は、誰もいなかったから。
私は彼に告げた。

「分かった、しばらくここにさせてもらうわ。でも、お願いがあるの。家族も助けて欲しい」

ローランの顔が、ぱっと輝いた。後ろにいるノアも微笑んでいる。
お兄様の幸せは、彼の幸せなのだろう。見た目も性格もかわいい男の子だ。
ノアに向かい、ローランは言った。

「もちろん。ノアも良かったね」
「なぜですか?」
「サラのこと、気に入ったみたいじゃないか」
「そ、そんな!僕のことを女の子と間違えたんですよ!」

ノアは嬉しそうな顔を引っ込め、私を睨みつけた。

「やっぱり気にしてた?ごめんね、ノアくん」

彼は私の腕をつかんで、自分の方へ引き寄せた。
そして私の耳元でささやいた。

「僕が男の子だってこと、いつか分からせてあげるから」

呆気に取られた私を残し、ノアは部屋を出て行った。
身体能力が高そうな歩き方だった。動きに無駄がない。

我に返り、横にいるローランを見る。
彼は表情を欠いた顔で、弟の背中を見つめていた。

「サラ。何を言われたの?」
「べ、別に何も……」
「ふーん。あんまり言うとノアに恨まれそうだけど。一つだけ、教えてあげるね」
 
彼は私に向き直り、口角を一センチだけ上げてみせた。
笑っているのか、そうでないのか、判断のつきかねる表情だ。

「あいつは、僕より執着心が強いよ」

穏やかな彼が「あいつ」なんて言葉を使うのは珍しい。
これが何を意味するか、あの時は分からなかった。
実は後年に渡り、重低音のように、城での生活に鳴り響くことになるのだった―――

08.図書室の秘密

城の図書室は、ひんやりとした冷気と、古ぼけた紙の匂いが混ざり合っていた。雨の日の街灯を思わせる、ぼんやりとしたオレンジ色の照明が室内を照らす。

「すごい。こんなに本が……」

どこか幻想的な空間に、私は息を呑んだ。
すぐ横からため息が聞こえた。中性的な美少年、ノアのものだ。

「朝ご飯を終えて『行きたい場所がある』って言い出すから、どこかと思ったら。図書室だとは思いませんでした」
「ありがとう、ノアくん。『魔法界で暮らすとなると、ここのことも知っておいた方がいいからね』ってローランに言われたから」
「……」
「いや、顔怖っ」

ノアは家来が案内しようとすると「僕が行きます」と言ってくれたのだ。
彼の頭を撫でようとすると、手を払いのけられた。案内役を買って出てくれたから少しは距離が縮まったのかと思いきや、難しいお年頃だ。ローランの名前を出すと不機嫌になるし。

「もう。子ども扱いしないでください」
「だって、さらさらヘアとかわいい顔を見るとつい……」
「僕はもう二百歳です」
「え、十歳じゃなくて!?」
「やれやれ。そこから学ばなくてはなりませんね」

彼は慣れた足取りで本の間を進み、ある本棚の前で立ち止まった。
そして私の方へ振り向いた。いつになく真剣な眼差しだ。

「本当はここで書物を読んで、魔法の国について学ぶのが王道です」
「別にそれで良いわよ。本は好きだし」
「『モテる力~実践編~』のような本ですか?」

私は言葉に詰まった。前夜に私との婚約を破棄した王子、レオナルドを振り向かせるために読んでいた本だ。
量産型の、十年後には誰からも忘れられる類の本。城の図書室なんかには絶対に格納されないだろう。

「どうしてそれを知ってるの?」
「お兄様から聞きました。執事《ジェフリー》に変身していた時に見たと」
「まさか下着の種類まで聞きました、なんて言わないわよね」
「え、えっと……」
「何?」
「た、確かに素敵な身体をしているので、似合いそうだなとは思いましたが……」

顔を赤らめるな、二百歳。
公務に出かけたローランを、帰宅後にどう懲らしめてやろうか考えていると、ノアが口を開いた。

「と、とにかくカスみたいな本と違い、歴史書は読み解くのに時間がかかります」
「そうね。魔物とかも、よく分からないし」
「なので、特別にこの賢者の部屋へ案内します。そこに行けば、この世界の仕組みはだいたい理解できるはずです」

裏技のようなものがあるらしい。さすが魔法の国だ。
ノアは本棚に手を当てた。そして声変りのする前の、少年の声で叫んだ。

「古の書物たちよ。築け、『賢者の部屋』へ繋がる扉を!」

本たちが次々と本棚から抜けて、ふわふわと宙に舞う。それらは光りながら一か所に集まった。
眩しさに目を閉じて、目を開くと、そこには扉が出現していた。

「これが部屋の入口?」
「はい。早く入ってください。閉じてしまう前に」

彼は私に懐中時計を渡した。きらきらと輝く、黄金の時計だ。
見とれている私に、どこか緊張した声でノアは言った。

「一時間以内に、来た扉から戻ってきてください。絶対ですよ」
「ノア君は行かないの?」
「はい。この部屋は、入った者に必要な知識を見せてくれるので」
「私だけの方が都合が良いってことね」
「部屋に一冊の本があるはずです。それに手を触れてください」

扉は色とりどりの光に包まれていて、私を誘惑しているようだ。
光はきらきらと、何かの形を表している。

「この形、どこかで見たような……」

何だかとてつもなく嫌な予感に襲われた。
知ってしまうと二度と戻れなくなるような、そんな期待と不安が入り混じった感情だ。

尻ごみする私を見て、ノアは心配そうに聞いてきた。

「怖いですか?」
「本当に一人で行かなきゃだめ?ノアくんと一緒は?」
「僕と二人でこの部屋に行くのは、また違った意味になりますよ」

くすくすと笑う様子は、美少女のようにも見える。
どうしてこの兄弟は、こうして人を誘惑せずにはいられないのだろう。顔が良いだけに、質が悪い。

私はやけになって、扉を開いた。どこかで嗅いだことがある匂いが、鼻をつく。
思い出そうと努めていると、ノアくんが声をかけてきた。

「あの本に、略奪愛のテクニックはありましたか?」
「寝取りテクニックならあったけど。なんで?」
「……次に人間界へ行ったら、その本を持ってきてください」

いつになく真剣なノアくんである。

「わ、分かったわよ。もう行くね」

彼を図書室に残して、扉の中へ入って行った。

そこは薄暗い、石造りの部屋だった。蠟燭がぼんやりと部屋を照らしている。
狭い空間に、木製の勉強机と、椅子と、クローゼットが置かれていた。

「愛らしい小部屋にも、独房のようにも見えるわね……」

机の上には、一冊の本が置かれている。私は机に向かい、足を進めた。

「これかな、ノアくんが言ってたの」

手を伸ばした瞬間、大きな音が部屋に響いた。
クローゼットの扉が開いた音だと気付いたのと、頭を殴られて床に崩れ落ちたのは同時だった。

意識が遠くなり、吐き気と眠気が同気に襲ってくる。
手から懐中時計が奪われる感覚がして、唯一働いている嗅覚が、覚えのある匂いを察知した。

元婚約者リリーからの手紙と同じ、甘ったるい罪の香り。

「あの光の形は……キャンベル家の紋章……」

そう呟こうとしたけど、口からは吐息が漏れるだけだった。
いつだって、手遅れになってから思うのだ。「そういえば」と。

~~続きます~~

<文/立木かのん>

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