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「車でお遍路(キーワード)」弘法大師(空海)ってどんな人?

「四国八十八箇所巡礼」では、弘法大師(空海)ゆかりの88ヶ所の札所(お寺)を巡礼するのですが、

「そもそも弘法大師(空海)ってどんな人?」

遣唐使で唐に渡り日本で真言宗を広めた人で金剛峯寺を開基した人って学校で習ったと思うけど、

もう少し理解を深めるために、弘法大師の生涯についてご紹介します。

因みに、自分の人生と比較するため、大師の年齢を少年期よりあえて最初に書きました。


弘法大師の生涯

【誕生】

  • 宝亀5年(774年)6月15日、讃岐国多度郡屏風浦(現香川県善通寺市)に生まれる。(第75番札所善通寺御影堂(大師堂)奥殿の場所で誕生)

    両親とも地方の豪族で、父は、郡司(地方官)の佐伯直田公善通さえきのあたいたぎみよしみち、母は、阿刀智徳あとのちとこの娘の玉依たまより

    幼時の名は、佐伯真魚さえきのまお


【幼少期】

  • 弘法大師(以下、大師)は、第74番札所甲山寺では生まれ育った故郷で偉業を成し遂げる。

    その甲山寺では、大師の幼少時代を、

幼少の頃から神童と呼ばれ丈夫で健康だった弘法大師は、甲山の麓の仙遊ヶ原(甲山寺の東)という場所は大師の遊び場で、泥で仏像を作って祀るなどしてよく遊んでいた」という。

第74番札所甲山寺

宝亀11年~12年(780~781年)、7歳だった弘法大師(当時は、佐伯真魚さえきのまお)は、

標高481mの倭斯濃山わしのやま(現在の我拝師山)の山頂に登り、
「私は仏道に入り人々の救済をしたい。願わくば釈迦如来さまに姿を現していただきたい。願いが叶わないのであれば、私の命を仏に捧げます。」と祈念して断崖絶壁から谷底へ身を投じたという。

そうすると、紫雲が湧き起き釈迦如来が蓮華に座し出現、そして羽衣を身に纏った天女と共に舞い降りてきて、真魚(弘法大師)を抱きとめ「一生成仏」と告げた。 このとき、真魚(弘法大師)の願いが成就したのです。

第73番札所出釈迦寺


【少年期~青年期】

  • 9歳の頃、延暦2年(783年)、第71番札所弥谷寺では、約4年間岩屋の中で学問に励んだという。

  • 14歳の頃、延暦7年(788年)に都に上り佐伯院に滞在

  • 15歳になった翌年、桓武天皇の皇子の家庭教師であった儒学者の母方の叔父阿刀大足あとのおおたりから儒学を学ぶ

  • 18歳で大学入学、延暦12年(793年)、儒学を中心に学び猛烈に勉学に励む。

しかしこの間、その学問は出世を目的とするものであり、世の中の困っている人々を救うものではないことから、次第に仏教への興味に移ったという。

  • 19歳で突然大学を中途退学、両親一族の期待を裏切り、私度僧(官の許可を得ず得度した僧)となり大峯山(現吉野熊野周辺)、阿國大瀧ヶ嶽(現太龍寺山周辺)、土佐室戸崎(現室戸岬周辺)で、山岳修行に励む

  • 23歳では、延暦16年(797年)出家宣言となる書三教指帰さんごうしきを記しており、序文には土佐の室戸岬で求聞持法ぐもんじほうを修したとする。その室戸岬の御厨人窟みくろどで修行をしている時に悟りを開き、空海と名乗る。(第24番札所最御崎寺参照)


  • その後、約7年間の詳細は不明だが、
    大師は、中国語や梵字も習得したが仏の教えに満足することが出来ず、最高の教えを探していたところ大日経だいにちきょうに出会う。しかし、日本には誰一人として大師に教えることが出来なかったという。

そのため、仏教を学びに唐(中国)へ渡ることを決心する。


【壮年期】

  • 31歳の頃の延暦23年(804年)、渡唐直前には東大寺戒壇院で得度(有力な説)、そして遣唐使船に乗船。

〈エピソード〉
・遣唐使船は、暴風雨にあい目的地でない唐の福州に漂着、遣唐大使が手紙を書くも海賊と疑われ唐の役人から50日間の待機を命じられた。そこで、大師は大使に代わり長官宛に嘆願書を代筆したところ、文章と書に驚き「ただものではない」と即座に上陸を許可したという。

  • 32歳の頃、永貞元年(805年)、唐長安(中国西安市)の青龍寺しょうりゅうじで真言密教第七祖の名僧、恵果和尚に師事すると、

恵果和尚は大師の厳しい修行と研鑽を積んだことを見抜き奥義を伝授、大師は門弟約四千人を飛ばして第八祖となる。

また、伝法阿闍梨位でんぽうあじゃりい(密教の秘法を伝える阿闍梨の位)の灌頂かんじょう(密教の儀式のひとつ)を受け「遍照金剛」(「法身の光明があまねく世界を照らし、金剛のように不滅」という意)という灌頂名かんじょうめいを授かる。

この時、恵果和尚は、「真言密教の教えは全て授けたので、早く日本に帰り真言密教を広めてください」と大師に伝え、同年に亡くなった。

  • 33歳の頃、大同元年(806年)、恵果和尚の言う通り20年の留学予定を2年で切り上げ長安(西安市)を出発して越州(浙江省)に4ヶ月滞在、その間土木技術や薬学をはじめ多分野を学ぶ。
    第74番札所甲山寺では、土木技術の知識を活かし偉業を達成している)

  • 同年、日本に帰国の途に就くが、朝廷は留学予定期間が異常に短かったことを理由に入京不許可とし、大同4年(809年)まで大宰府に滞在

  • 43歳の頃、弘仁7年(816年)、高野山の下賜を請い、開創の勅許を賜る。翌年、大師は高野山にはじめて登る。

  • 49歳の頃、弘仁13年(822年)、大政官符より東大寺に灌頂道場真言院を建立。

  • 50歳の頃、翌年弘仁14年(823年)、大政官符より東寺を賜り真言密教の道場とする。


【最期】

  • 享年62歳、承和2年(835年)に高野山奥之院に御入定ごにゅうじょう

  • 延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」の謚号しごう(贈り名)を下賜される。

高野山奥之院への参道


最後に

大師は恵まれた家に生まれ、神童で健康と言う事なし。普通であればエリートコースを歩むべく人物だった。

あえて年齢で示した生涯年表は、自分と比較しようと思うのが野暮だったみたい。生れからして違うんだから~😆

幼少の頃は泥で仏像を作って祀って遊ぶ。
7歳で仏門に入る願いが成就したって、、、私はその頃まだ鼻を垂らしていたかも(笑)

18歳で大学に入学(私も同じ🤣)、大師は親族の反対を押し切ってまでも中退をして7歳の頃からの「私は仏道に入り人々の救済をしたい」という志を貫き通すために茨の道を歩む。

「初志貫徹」、なかなかできないですよね~。

本物の天才が「人々を救うための目的を達成する」ための努力を惜しまなかったこと。利他の精神、素晴らしい!

本日、noterの小笠原正典さんが故・稲盛和夫先生の生涯と名言の数々を投稿(良運の方程式 第56話)されてますが、改めて思い返すと心に染みます。

どこかしら弘法大師と根っこの部分が同じと思いました。
稲盛和夫先生のご冥福を心からお祈りします。

合掌


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