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ちいさな感動を支度する

台所に立っていると、あっという間に時間が経ってしまう。
原稿の締め切りを抱えているときなどは、そちらの作業に集中したいのに、食事の用意のたびに中断しなければならないのが、苦しいときもある。

どんなごちそうでも、食べるのは一度

うちの食事は和食が中心だ。
国外に住んでいるものだから、日本にいるのとはまた違った工夫がいる。
和食材が手に入るとは限らないし、名前は同じでも、野菜も肉も性質が違う。日本のような鮮度のいい魚は、はなから無理だ。

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しかし、どれだけ時間をかけて作っても、それに比例して食べる時間が長くなるわけではない。
当たり前だが、「おいしい」と言ってもらう回数が増えるわけでもない。

献立を考え、買い物に行き、買ったものを冷蔵庫に収める。
下ごしらえをし、料理をつくり、皿に盛り付けて、食べる。
食べ終わった皿を片付け、流しで洗い、乾かしてから食器棚に収める。

―書き出してみると、一連の動きは永久運動のようだ。
そして、食べるという行為はその一部でしかない。

そして文章も、読むのは数分

書いてみて、はたと気づいた。
なぜ気づかなかったんだろう、これは文章を書くのと同じだ。

趣味で好きなように書くのとは違って、仕事で書く文章には納期がある。
内容や質についても求められている一定の水準があるから、報酬は、その責任を果たすことに対して支払われる。

依頼をもらい、どんな風に書き進めるか構想を練り、必要な資料を集める。
資料を読み込み、原稿を書き、タイトルや見出しを考え、写真を用意する。
仕上がった原稿を何度も推敲し、出版社とやりとりをし、発表後に反応があれば読者への対応もする。

一連の流れのうち、ひとに読んでもらう部分はそのごく一部。
2000字の記事だって読むのは数分だろう。
しかしライターは、その限られた読書体験をよりよいものにしたいから、字数や、時間の制約の中でもがく。

毎日の食卓でめざしたいこと

料理もたぶん同じで、食べる時間の長さは変わらなくても、口に合うとか、食べやすいとか、体調にふさわしいものを考えて作るのは、食事体験をできるだけよいものにしたいからだ。
家庭の料理は、買ってきたものをそのまま出すのとは違う。

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幸いなことに、夫は食べることが好きで、関心も高い。
自分でも料理をする分、要求度も高いが、批評は的確な方だろう。
それなら、その批評を頼りに毎日の食卓を作っていこう、と思えるようになった。

わたしの技量では、感動は呼べないかもしれない。
でも、同じ歩くのなら、少しでも高みをめざしてみるのも悪くない。


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