パリで1番好きになった、エッフェル塔のある風景
この夏、パリを旅していて、好きになった光景がひとつあった。
僕は16区のパッシー地区に泊まっていたので、最寄りのパッシー駅に停まるメトロ6号線に乗ることが多かった。
メトロといっても、パッシー駅のホームは地上にあって、モンパルナス方面へ行く列車に乗ると、しばらくは高架の線路を走ることになる。
そうしてパッシー駅を出た列車は、すぐにセーヌ川に架かるビル・アケム橋を渡っていく。下層は一般の道路になっている、大きな橋だ。
すると、車内の乗客たちは、まるで申し合わせたみたいに、窓の向こうをじっと見つめる。
この橋の上からは、セーヌ川越しにエッフェル塔の姿を望むことができるのだ。
観光客はもちろん、きっとエッフェル塔なんて何度も見ているだろう地元の人たちも、この橋を渡るときだけは、どうしても視線を向けずにはいられないらしく、車窓を流れるエッフェル塔を見つめてしまうのだ。
毎朝、6号線に乗るたびに、その光景に出会えるのが僕は好きだった。橋の上から眺めるエッフェル塔が美しかっただけでなく、その風景を見つめる人々の姿がなんだかいつも楽しげだったからだ。
ある人は誇らしげな表情を浮かべながら、またある人は当たり前のことのように、窓の向こうのエッフェル塔を見つめていた。
それはどこか、日本で東海道新幹線に乗って、車窓に雄大な富士山が流れていくときの光景と、ちょっと似ている気もした。
あるいは、日本にとっての富士山のように、パリにとってのエッフェル塔も、誰にとっても心の動かされる、大切な存在なのかもしれない……。
僕もまた、窓の向こうのエッフェル塔を見つめながら、名前も知らない乗客たちと一緒に小さな感動を共有しているような、不思議な心地良さを味わっていた。
旅の5日目、そのエッフェル塔に登ることにした。
いま、エッフェル塔の展望台へ上がる入場料は、とてつもなく高い。円安はもちろん、オリンピックに合わせるかのように値上げしたせいで、てっぺんに近い第3展望台まで上がると、6000円近くもする。
はじめは、外から見上げているだけでも十分かな、と思わないでもなかった。
だけど、ここもまた、百聞は一見にしかず……なのではないか。それに、ようやく訪れることのできたパリなのだ。やっぱり、エッフェル塔の上からパリの街を見渡してみたい、と思った。
その朝、さっそくエッフェル塔へ行くと、オリンピック期間中ということもあって、世界中の国々の人で賑わっている。塔の直下で写真を撮り合ったカップルは、東南アジアの東ティモールから来た観光客で、思わずびっくりしたくらいだった。
まずは、遊園地のアトラクションみたいな斜行エレベーターに乗って、第2展望台へ向かう。エレベーターがゆっくり上がっていくと、ガラス窓の向こうにパリの街並みがぐんぐんと広がっていき、童心に返ったような気持ちに包まれていく。
高さ116mの第2展望台でさえ、その眺めはすでに素晴らしい。穏やかに流れるセーヌ川、凱旋門やアンヴァリッドといった歴史的な建物、オリンピックのイベントが連日行われているトロカデロ広場……。
そこには確かに、憧れてしまう人が多いのも無理はないのかもしれない、と思わせるだけの、美しいパリの街並みがあった。
さらに今度は、一気に垂直で上がるエレベーターに乗り込み、高さ276mの第3展望台を目指す。
やがてエレベーターの扉が開き、階段を上って、屋外の展望台に辿り着くと、眼下には、パリのほとんどすべてを見渡すような光景が広がっていた。
ルーヴル美術館の隣には、丸い気球のようにぷかぷか浮かぶ、オリンピックの聖火台が見える。その反対側へ回れば、意外なほど近くに、ホテルのあるパッシー地区も見下ろすことができた。
気持ちのいい風に吹かれながら、世界中の観光客とその風景を眺めていると、いま本当にパリの街にいるんだな……という実感に、静かに心が震えてくる。
毎日どこか、夢を見ているような気持ちで旅していたけれど、これは本物の現実で、こうしていま、パリの風に吹かれている……。そんな当然のことが、なにかとても素晴らしいことのように思えた。
はたして、このパリの街が、憧れに相応しい街なのかどうかはわからない。
でも、眼下に広がるパリの街並みに、心を動かされている自分がいる。それだけで、もう十分だと思った。
その日からだった気がする。パリの街にそびえるエッフェル塔の姿に、不思議な愛着を覚えるようになったのは。
どうやら、たった一度登っただけで、僕はエッフェル塔を好きになってしまったようなのだ。
パリの街中を歩いていて、街並みの向こうにエッフェル塔が見えると、なんだかちょっと得したような気持ちになれる。夜、パッシー駅を降りて、黄金色にライトアップされたエッフェル塔を見上げれば、また1日が終わる寂しさに包まれていく……。
そして、あのメトロ6号線の橋の上から望むエッフェル塔だ。
着いたばかりの頃は、物珍しい光景として眺めていたのに、日が経つにつれて、親しみを感じる風景へと変わっていった。
それでも、いつも心惹かれてしまう存在であることに、変わりはなかった。
もちろん、僕はただの観光客に過ぎない。でも、エッフェル塔の姿をなんだか安心したような目で見つめる地元の人たちの気持ちが、少しわかる気もした。
まさに富士山と同じように、パリのエッフェル塔もまた、何度見ても新鮮に心を奪われてしまう、永遠に飽きることのない存在なのだろう。
旅の最後の日、パッシーのホテルをあとにして、空港へと向かうときも、メトロ6号線に乗り、あのビル・アケム橋を渡った。
その日も変わることなく、セーヌ川の向こうにエッフェル塔がそびえ、周りの乗客たちとともに、その姿を静かに見つめる自分がいた。
この風景を次に見ることができるのは、いつになるだろう……。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、美しいエッフェル塔の姿は、パリの街並みの彼方へと消えていった。