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これからの自分の時間の使い方について

(※今日の内容を音声で楽しみたい方はコチラからどうぞ(^^)↓)


つい先日も天気が良かったので、母の実家に薪割りの手伝いに行ってきた。

その日は1日ずっと薪割りをして過ごした。

午前のうちに行って、お昼までひたすら薪を割り、お昼を食べてちょっと休んでからまた薪割りをする、といった感じで、やっていたことはとてもシンプルだけれど、なんとも充実した1日に感じた。

前にも書いたように、僕の家では薪ストーブを使っていないから、家では薪を割らない。

けれど、個人的に薪ストーブには憧れがあって、いつか薪ストーブを使う生活をしてみたいと考えているので、薪割りも今からやっておきたいという気持ちもあったし、何より楽しそうなので、薪割りをさせてもらっている。

薪割りは、イメージと実際にやってみるでは、かなり違う。

僕の勝手な想像では、心地よいリズムで、パカパカと薪を割るなんとも軽快な感じだったけれど、現実はそうもいかない。

まあ、単純に僕が下手なだけかもしれないが(たぶんそうだ)、1回ですんなり割れる時もあれば、太かったり、木の種類でかたい木だったりすると、なかなか割れない。

何回も斧を振り下ろしてヘロヘロになりながら、ようやく亀裂が入ってそこから半分にできたけれど、まだ大きいのでもうひと踏ん張りという感じで、目の前の薪と向き合う時間が続く。

やり始めは晴天の下、外で作業する心地よさを感じる余裕があるけれど、だんだんと暑くなってくるし暖かいからか小さい虫も近寄ってくるので、薪割りに真っ直ぐ向かう気持ちも弱ってくる。

それでもくたくたになりながらも、自分が割った薪を積み上げていくと、なんともいえない達成感がある。

その日は暑かったし、虫にもたくさん刺されたし、家に帰ってからはご飯食べてシャワーしたら、もう布団でぐっすりという感じだった。

とても(とても)疲れたのだけれど、なんというか自分の手で生活をつくるような充実感もあったし「今日はこのくらい薪を割ったぞ」という達成感もあった。

まあ僕が生活に使う薪を割ったわけではないにせよ、なんというか「このくらいお金を稼いだ」とか「こんなすごいモノを手に入れた」みたいな、いっときのどこか虚しい満足感みたいなものではなくて、自分の体と時間を暮らしをつくるために使った疲れと共に、じわーと感じる心地よい満足感があった。

そして、こういう時間をもっと増やしていきたいと改めて感じた。

もちろん、お金も暮らしていくためにはある程度は必要なのかもしれないけれど、お金を稼ぐためだけに生きたいとはどうしても思えない。

それと同時にお金を使うことや、お金を使って何かを手に入れることだけが幸せ、喜びだと思いながら生きたくもない。

綺麗事であるのはようくわかっているし、お金を全く必要としない人生というのも難しいことはわかっている。

けれど、それでもなんというか、そういう暮らしにちゃんとつながることに自分の時間を使いたいし、そこにできればお金をあんまりはさみたくない。

その日、僕はそんなにたくさん薪を割れた気もしなかったのだけれど、母の実家では感謝の言葉もいただき、お昼ご飯までご馳走になった。

自分が楽しいからお手伝いさせていただいたのに、お昼ご飯もご馳走になって申し訳ないなあと感じつつ、とても幸せで嬉しい気持ちでいっぱいになった。

これが例えば、薪割りのバイトみたいな感じだったら、そこにはお金が発生するわけで、そうなってしまうとお金を払う側、お金をいただく側みたいな関係性になってしまって、こういう気持ちにはならなかったように思う。

薪割りはまだもうちょっとあるので、また薪と向き合う時間を楽しみにしながら、暮らしをつくる時間だったり、誰かのために使う時間をちょっとずつ増やしていきたい。


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