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40代女性。母との葛藤、子育て、日々の出来事に思うことを綴ります。

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母は毒親だったのか?

毒親という言葉を私が初めて聞いたのは、確か2009年ごろだったと思う。12年暮らしたオーストラリアを完全に撤退し、東京に戻ってきた後だった。Toxic parentsやTiger mumといった表現はオーストラリアでも使われていたが、日本で毒親という表現が出てきたことに正直驚いた記憶がある。私がまだ10代だった90年代は、親への苦言は一纏めにただの反抗期みたいなノリで見られていたはずだ。それが10年ちょっとで、毒親の実態が認知され、世間で広がり出したことに驚いたのだ。 私は

    • そもそも毒親とは?② 「毒になる親」を読んで(前半)

      毒親に関する本はたくさんあるが、やはりその原点に戻り、スーザン・フォワード氏の『毒になる親』を読んでみることにした。この本は、アメリカでは1989年に初版が出ている。私がこの本についてうっすら知ったのは、2000年代に入ってからだ。調べてみたら、日本での初版は1999年。オーストラリアでの初版は2002年と、日本より後である。今はまた状況が変わっているが、オーストラリアはイギリス系なので、同じ英語圏でも昔はアメリカのものはそこまで早く入ってこなかった。ただ、前回書いたToxi

      • そもそも毒親とは?① Toxic Parents

        母との関係について書き始めたのはいいけど、エピソードが多すぎて全く終わる気がしない。なんせ私は17歳まで完全に母の支配下におり、控えめに言っても年間300日くらいは罵られてきたのでネタが尽きない。でも、自分で書きながら少しげんなりしてきたし、他にも書きたいことはあるので、時々違う話も挟んでいこうと思う。 今回はそもそも毒親とは?という部分について触れてみたい。近年、「毒親」というワードを本当によく耳にするようになった。今では、もう誰もが知っている言葉だと思う。ただ、その過剰

        • 憂鬱

          お祭りの季節になると私は憂鬱だった。言うまでもなく母は露店が大嫌いだった。商店街の方が出店しているようなジュースを買うくらいは許されることもあったが、露店は絶対に許さない。他の子供たちは、水飴やソース煎餅を食べながら、わいわい楽しそうに絶対に当たらないくじ引きをして一喜一憂している。羨ましかった。でも母は「ちゃんとした家の子供は、あんな不衛生なお店で体に悪いものを買い食いしたり、詐欺みたいなお店のくじ引きをしたりしません」とか言う人だった。 こんなだからクラスの友達とみんな

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        母は毒親だったのか?

          おかしな子

          母は、テレビや芸能人、流行り物が大嫌いだった。だからテレビ番組はほとんど禁止されていた。ドラえもんですら「アニメなんて幼児が観るものなのよ!あなたは赤ちゃんじゃないでしょ?!」と叱られた。 当時の子供たちがみんな観ていたと思われるとんねるずや山田邦子の番組なんてもってのほか。アイドルが大嫌いだった母は、ミュージックステーションなどの音楽番組ですら嫌悪していた。80年代はアイドル全盛期だったはずだが、母は彼らを一纏めに嫌っており、「あんな馬鹿みたいな人たちの音楽は音楽ではない

          勉強もできない子

          私が愚かなのはまあ本当のことではあった。私は母が匙を投げるほどお話にならないレベルで勉強ができなかった。小学校中学年くらいになると、うちの血筋でここまでできないのはおかしい、何かの障害かもしれないとか言い出した。母曰く、小学校なんて勉強しなくても毎回100点を取れるのが当然だそうだ。それなのに私は、算数で0点を取るとような子供だった。普段のテストもまあ酷く50、60点。良くて80点だ。小学校6年間で90点以上とったのは数えるほどだった。当時の成績表は三段階、「よい」「ふつう」

          勉強もできない子

          完璧な母とそうじゃない娘

          私は80年代の東京で育った一人っ子だ。団塊世代の両親は共に大卒で、サラリーマンの父は誰もが知っているような会社に勤めていた。父は勉学などにあまり関心のない貧しい家庭の出身だったが、勉強が得意な方だった。三兄弟のうち父だけが大学に進学し、優良企業に就職。彼の家は周囲と比べると裕福ではなかったし、そのための苦労もあったはずだ。しかし、彼自身は全くガツガツした部分がなかった。むしろ、当時の男性としては珍しく温厚で他人に寛容であり、男尊女卑の匂いなど一切ない人だった。 母は非常に有

          完璧な母とそうじゃない娘

          そして現在

          帰国してから15年くらい経ってしまった。最初の頃は、嫌な思いをしたらオーストラリアへまた戻るつもりだった。あの頃はまだ永住資格もあったので、それを保険として帰ってきた部分もある。私は在豪12年の間も日本人コミュニティとは関わらず、現地に溶けこんでいた。そもそも日本にはほぼ友達がいない状態で帰国している。そんな私が日本に長く住むことはないだろうと、友人たちは皆思っていたようだ。 危惧していた母との関係だったが、その頃からだんだん私に対する風向きが変わってきた。オーストラリアへ

          逃げた先

          私は幼い頃から母との関係に頭を悩ませており、母が作り上げた絶対的なルールに苦しめられてきた。母の価値観を徹底的に押し付けられ、自分の想いを否定されて育った私は、自己肯定感が低く、常に生きづらさを感じていた。集団行動は特に苦手で、数少ない友人との関係も微妙なものだった。思春期になると、私は母から逃げる方法を模索する。そして17歳の時、留学という国外脱出の切符を手に入れた。母が近くにいては私は完全に潰れてしまう。日本には二度と帰ってこないという気持ちでオーストラリアへ渡った。「逃